年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

背戸道を下って

2006-12-04 | フォトエッセイ&短歌
相模湾を左手に臨みながら東海道本線が弧を描いて小田原を過ぎると、早川・根府川を経て真鶴に到着する。真鶴は生粋の地魚料理で刺身通にはたまらない。しかし、それ以上に忘れられないのが「小松石」である。硬い話で刺身のツマにもならないが。墓石としては御影石などより優れ建築材としても最高級品である。石質は硬く、耐久性に優れ、磨きによって表出される細かな石肌は灰色から淡灰緑色の微妙な輝きが何とも魅力的である。
箱根火山の活動(40~15万年前)で流出した溶岩が急激に冷却し生成した安山岩。そのために大きな石、小さな石に分裂してしまう<地中でゆっくりと固まったのが花崗岩>




相州小松石が歴史的に注目されたのは、岐阜県養老郡時村「竜淵寺」リュウエンジで発見された奈良時代の墓石が、相州産小松石であることが「石のDNA」で明らかにされた事である。その後も真鶴は石材の郷として発展するが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて(1192年)以来、都市づくりや社寺の建造に大量に小松石が使用される。
そして徳川家康が石屋善衛門を関東石匠棟梁に任命し江戸城の石垣を築かせてからは幕府の管理下におかれる。ブランド品の独占である。
すなわち、江戸時代の300年間、石材供給のため、徳川御三家(紀州、尾張、水戸)及び松平家、黒田家などが真鶴の各所に「御用丁場」(官営採石場)を開いて石材を江戸に送り続けた。西念寺参道には石丁場を開設した黒田長政の供養の碑が建てられている。

      

石丁場から一望する真鶴港。当時「相州石」と呼ばれていた小松石がその名を馳せたのはこの良港のお陰である。石船が相模湾から江戸湾に連なったことであろう。小松石の芸術的な石垣に囲まれた「背戸道」を下って港に着くとコンクリ製消波ブロック(テトラポッド)に混じって小松石の消波ブロックが圧倒する。
自然石の表面は酸化し赤褐色をしているので、庭石、記念碑、飛石にも珍重される。

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