年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

外苑点景・競技場

2006-12-15 | フォトエッセイ&短歌
紅葉に染まった神宮の杜を見下ろすように国立霞ヶ丘競技場(明治神宮外苑競技場)の偉容が見える。1964年第18回オリンピック大会の開会式が行われたところである。衛星中継が可能となり、オリンピック史上初の世界への生中継となった。カラーテレビが普及し、東海道新幹線が開通するなどオリンピック景気を現出しまさに高度経済成長を象徴するイベントとなった。曲がりくねったが、戦後平和日本の到達点である。

しかしたかだか50年前は広漠とした赤土の砂埃が激しく舞い上がる原っぱ。米国の飛行家、アート・スミス氏は1916年この青山練兵場で曲芸飛行を披露したが、その時の滞在日記がある。結構読ませる。観衆13万人とも報じられている。
 <…余は東京青山練兵場にて日本における第1回飛行を行った。見物の群衆が来襲したので余は驚愕の余り唖然たらざるを得なかった。彼等は暑さと埃の中に8時間も待つのである。埃といえば余は青山ほど怖ろしい埃の立つところを見たことがない。聞くところによれば1年前までは此処は一面美しい草の野原であったそうだが、5千円余を投じてその草を払去ったとの事だ、余は何故に美しき青草を引抜いて埃立つ裸の野原としたのかと了解に苦しんだ……>


この一角に明治神宮外苑競技場が竣工したのは大正15年。しかし、スポーツの殿堂は戦火の中で戦意高揚のイベント会場となる。
昭和18年10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、文科系学生の徴兵猶予が停止。約十万の学徒が大東亜共栄圏の完遂を信じ込まされて戦場へ赴くことになった。明治神宮外苑競技場では、文部省主催の下に東京周辺七十七校が参加して「出陣学徒壮行会」が実施された。歴史に言う「学徒出陣」である。大陸の凍土の中で、南海の孤島で彼等を待っていた運命は余りに過酷であった。過酷な運命を辿ったのが彼等だけではなく、全く関係ない他国の人々や一般の市民をも巻き込んでいくところに戦争の更なる犯罪性がある。

スタンドの大きくカーブする先には何があるのか。分列行進する出陣学徒達の足音が響いて来そうな昨今の政治情勢である。「寒くて大変ですネ」。カップ爺さんは言ったよ「ナンの、天下太平じゃよ…」