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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

修徳尚武・遠野高校卒業式

2010-03-03 14:18:27 | 遠野

 平成22年3月3日 岩手県立遠野高等学校卒業式

 

 

 長男の高校卒業式、勤務日ではありましたが、日中のみ年次休暇をいただき、嫁さんと共に卒業式に行って参りました。

 

 

 

 長女は遠野市外の高校に通い、しかも遠野から通学していたのは長女ただ一人であったので、父兄会では知り合いもなく、たいへん心細い思いをしたことを思い出す。

 遠野高校は地元の高校で、しかも我母校でもありますから、父兄はじめ知っている顔が多いので、気持ち的に余裕をもって卒業式に臨むことができました。

 しかし、ついこの間、長男が入学したと思ったら、もう卒業・・・早いものであると感じる。

 居合わせた父兄との会話も、あっという間の3年間ということと、今後の進路についてが主でもあった。

 ひとつの節目は終わりを告げますが、また新たな旅立ちと試練が待ち受けている。

 子供達もそうですが、親にもそれなりの負担やら特に経済的な面では、頭の痛い年月が待っていると思うと晴れの舞台ではありますが、少々トーンダウンとなりがちでもあります。

 でも、ここは前向きに・・・前途有望な子供達の未来のために、夢実現のためにと思わずにはいられませんでした・・・・汗

 

遠野高校吹奏楽部

 国歌、校歌・・・と演奏の吹奏楽部・・・・。

 岩手県吹奏楽での大会では、ここ数年上位の成績で、2年連続の金賞受賞、東北大会出場と活躍が目覚ましい・・・・。

 

 遠野高校といえばサッカー部が全国区、岩手県では正月大会最多出場を誇り、全国準優勝はさておき、4年前の全国ベスト4、2年前のベスト8の活躍は記憶に新しい・・・。

 しかし、近年は文化部も目覚ましい活躍とのことで、まさに遠野高校の校訓・・・「修得尚武」に相応しい活躍ぶりであると各方面から称賛されている。

 

修徳尚武

 徳を修め、武を尊び、心身ともに豊かに・・・・文武両道の精神が息づく伝統校、遠野高校がまだまだ健在で、しかも大輪の華が咲き始めたということで、そんな高校に入学して卒業した息子を羨ましくも思います。

 という小生も卒業生ではありますが、小生自身には全く縁のない高校生活でもありましたので、何か言える立場ではないです・・・汗

 

 

 

 生徒と共に大声で久しぶりに校歌を歌った・・・・一番と二番の歌詞が少し混同した場面はありましたが、忘れることはない。

 バンカラスタイルの応援をし、応援歌は厳しく教え込まれて必死で覚えた年代でもありますからね・・・・。

 

 息子の新生活も間もなくやってくるが、引き続き二女も母校にお世話になることが出来るのか?・・・・気が気でない日々がもう少し続くことでもあり、卒業式が目出度いなどと到底思えないのが本音でもあります。

 

 

本日のランチ

懐かしのナポリタン

 

これまた久しぶりの山小屋・・・・

15年ぶりかな?

 

 

そして3月3日はお雛祭り

 

知人や親せきから雛まんじゅうをいただく。

 

 

 以前は家でも作ってましたが最近は、いただきものが多いので間に合せている・・・汗


和賀岩崎の陣・参

2010-03-02 15:14:06 | 歴史・民俗

 慶長5年9月、和賀主馬忠親に率いられた和賀一揆勢による南部方、鳥谷崎(花巻)城攻めが失敗に終わり、和賀一揆勢は二子城(北上市)へ撤退、程なくして和賀岩崎城へ一揆勢は移動して岩崎城に篭城するに及んだ。

 

岩崎城跡

〇伊達政宗の思惑

 

 天下人、豊臣秀吉が没すると、近世への転換は急を告げ、諸大名の中の実力者、徳川家康と家康の独断を許すべからずと唱える石田三成との対立は避けられない雲行きが漂い始める。

 会津120万石の大大名、上杉景勝は石田派としての態度であったので、徳川家康の討伐対象となり、会津上杉討伐軍が東国へ進軍、この出来事が関ヶ原の目に見える直接的な要因でもあろう・・・・。

 そんな中、伊達政宗は徳川家康と結びつくことによって上杉家に対抗し、虎視眈々と南奥の盟主、いや奥羽全体の盟主の座を欲することを目論んでいたともいわれる。

 その思惑のひとつ、北で境を接する南部領侵食、支配権拡大の野心が見え隠れし、まずは和賀郡へその矛先を向け和賀郡旧主、亡き和賀義忠の子で和賀又四郎(後に主馬忠親)を利用しての政治的思惑が語られている。

  慶長5年(1600)、慶長3年ともいわれますが、伊達政宗は境目巡回と称して南部領和賀郡にほど近い、胆沢の地に足を運び同地の大林(平林)に和賀又四郎を呼び寄せ、かつて又四郎の父、和賀義忠が領していた和賀郡を南部利直から奪還の策を授けたと語られる。

 かくして和賀旧臣を以っての蜂起を促し、一揆成功の暁には伊達家旗下への取立てで和賀家再興を図るといった双方の利害が一致したことにより和賀岩崎一揆は勃発したと大方はみられている。

 伊達政宗による物理的援助の他に、伊達家家臣の白石宗直に命じ母帯越中、上郡山外記等をその後詰にあたらせたことによって和賀勢は大きな力を得、勝利を確信したものと思われる。

 伊達政宗による作戦ともいわれるが、南部領南の拠点は和賀郡と北で接する稗貫郡の鳥谷崎城(花巻)であり、花巻を抑えることでその後の戦況は有利となるとの目算で、まずは鳥谷崎城の攻略が発動される。

 

 和賀主馬に蜂起を促した伊達政宗であるが、徳川対石田の対決構図の中にあっても、天下の形成はどちらに転がるのか、多くの諸大名にあっては、様子見的な立場であった者も少なくない。

 南部利直もその一人でもあったと推測されますが、徳川家康の要請に応じて徳川方、山形の最上義光に加勢の軍勢を自ら率いて参陣はしているが、一方では上杉景勝に書状「秀頼様御奉公」を送っていることが明らかであり、その動揺がみてとれる。

 伊達政宗はこのような態度不鮮明であった南部利直を見透かし、上杉、石田側へ擦り寄る可能性を秘めた南部氏に対して和賀郡侵攻の策謀をめぐらせたともいわれ、あわよくば和賀、稗貫の各郡のみならず、南部領の大半を徳川家康と結ぶことによって支配圏拡大の野望があったものと推測できますし、万が一徳川方が石田方に敗れるようなことがあれば、この機に乗じて切り取れるところは切り取って少しでも勢力拡大の意図があったものかもしれない。

 いずれそのターゲットとされた南部利直の心中は察するに余りあるが、家康も政宗からの報告も受けていたと思われるも、同年9月、和賀一揆が勃発すると南部利直は、徳川家康の許しを得て同年10月初めに和賀勢鎮圧を口実に軍を最上から退いている。

 徳川家康は、伊達政宗の思惑を把握しながらも南部利直に南部領内の兵乱鎮撫の許しを与えたことになり、伊達政宗の策謀の上手を行く策士であると考えずにはいらない。

 既に関ヶ原での勝敗は決した直後ではあったが、伊達政宗は和賀主馬忠親による一揆をそのまま後援しつつ、後に遠野での騒乱では旧主、阿曽沼広長を庇護して遠野奪還の援助、さらに釜石狐崎館には領内の浪人を集めて侵攻させるなど1年以上にわたって南部領への策略を実行している。

 

 

おまけ

 

ネネ

 

 

いつものネネに戻っております・・・笑

 

ただ、薬が効いているのか、以前よりは少し大人目でもあります。

 

 

朝晩2回、10日分・・・

この薬が無くなる頃、本調子となってくれればと願っております。


太公望見えず

2010-03-01 16:58:25 | 遠野

 早いもので弥生3月となりましたが、3月1日といえば太公望待望の渓流釣り解禁の日、我遠野の猿ヶ石川水系はどんな感じかな?・・・というところでブログネタに釣人を探してみました。

 

荒川(附馬牛町)

 

 山間の渓流は解禁したとはいえ、まだまだ冬の顔である。

 解禁当初は画像のような瀬にターゲットであるイワナやヤマメは付いていないと思われる。

 活性がまだまだ低く、魚は流れの緩い深めの淀みにいることが多い、また昨今はフライフィッシングやらルアーでの釣人が多いのも事実で、これらの場合は、もう少し暖かくなり魚の活性が上向いてからであろう・・・・。

 しかし、例年どの川に行ってみても県外ナンバーの釣人の車がみられるはずの各河川、本日は附馬牛町へ行ってみたが釣人誰一人見ることはできなかった。

 平日ということもあるし、天気もイマイチ・・・・それとも猿ヶ石川本流狙いか?・・・・いずれにしましても拍子抜けといったところ、ひょっとして解禁日変わったのかな?

 

 

 少年時代は地元の大沢川でイワナ釣りをしていた。

 なかなか釣れなくて、コンスタントに釣れるようになったのは中学生になってから・・・・。

 

 大沢川(松崎町駒木・妻の神)

 

 昔に比べると水量がぜんぜん少ない、しかも下流はコンクリートで固められたうえ、流れも変わってしまった。

 水田地帯の下流域でもイワナはよく釣れたし、田んぼに水が引かれ農業用水路的な小川にもイワナはいた。

 もう40年近くも昔の話ですから、その変わりようは、こうして個別に何かに触れなければ気が付くことが少ない・・・・汗

 大沢川は辛うじて上流部が昔の流れを残しているが、それでも砂の堆積やらで以前の美しい渓流の姿を探しだすことは難しい・・・・。

 

 ということで太公望は探しだせず・・・大汗

 

 

 

 おまけ

 

 久しぶりといいますかブログメンバーでは今年初となる懇親会が先週土曜日行われた。

 忘年会以来、まさに遅い新年会といった具合ですが、亘理からお越しのメンバーが来遠ということで、おかげ様でメンバーが集まることができたが本音でもあります。

 個人的には、沈みがちな2月だったので、良い気分転換になりましたし、色々と仲間達と語ることできて、たいへん良かったと思ってます。

 ご参加の皆さま、ありがとうございました。

 

 

参加者は9名

 

 

 ホッピー、ホッピーとうるさい小生ですが、たまたまホッピーを置いていたお店だったのでラッキーでした・・・。