雲が多いものの、気温もそこそこ上がって暑い一日、それでもいつもの夏とは違って吹く風が爽やかで気持ちが良い。
昨年の今頃は連日35度を超える猛暑、酷暑がお盆まで続いていたと記憶するが、それに比べたら過ごしやすい夏だったかもしれません。
さて、本題の青笹・・・遠野市青笹町
青笹子づくり村・・・と人はいう・・・謝・・・すみません・・・「子育て村」が正規ですが、青笹とくれば遠野三山のひとつ六角牛山が第一に思い浮かびます。
青笹のメインストリート
旧役場の建物・・・遠野遺産に認定されている
こちらは釜石線、JR青笹駅
カマーは続く・・・。
ここで青笹の簡略な概要を・・・・なぜ青笹を今回取り上げたかといえば、歴史的な事柄で以前から気になっていたことがあって、その布石といいますか、その関連を今後探究するため景気付けといいますか、そんな思いもあってのことです。
青笹は明治22年(1889)市町村制実施により、中沢村・糠前村、青笹村の三村が合併して「青笹村」となり、昭和29年(1954)市制施行により遠野市が誕生、その際に遠野市青笹町となったものです。
青笹町の当時の人口は3,400人余
これより遡ることの江戸初期南部藩政の世、遠野南部氏が八戸から移封してきた寛永4年3月19日付、太守南部利直から八戸弥六郎(遠野領主、八戸直義)に発給された墨印の目録によると・・・・
青笹村426石907合
糠前村173石636合
中沢村221石114合
村として江戸初期から存在し、これ以前の阿曽沼時代から青笹の三村が在ったことが伺われます。
○地名の由来
遠野物語拾遺第3話によると・・・
青笹には昔七つの池があったという、その池のひとつに巫女石と呼ばれ岩があり、ある日、六角牛山から天人児(てんにんこう・天女)が遊びに来て、衣装を巫女石に置いて水遊びをしていた。
・・・・途中略・・・衣裳は村の者が持ち去ったため天人児は天に帰れず、裸身を朴の葉でまとい、里を訪ね歩くも天人児の元へ衣装は還らず、村の男に頼んで田圃を借りて蓮華の育て、糸をとって衣装となる機を織ることにしたという。
その際に天人児が住まいしたのが笹の小屋で、これが青笹の名の起こりとしている。
また、別説によると付近に表裏青色の笹が生い茂った場所があったことから青笹となったともいわれます。・・・・以上「ものがたり青笹」参照
一方上閉伊郡誌には青笹を「青篠」と表記している江戸時代の古文書があると指摘している。
何を隠そう前段で記述した寛永4年の目録状である。
宮守→宮森・小友→奥友・鱒沢→増沢・・・と同じ扱いだったのだろう。
●青篠
小生が気になっていたこと、それは「青篠(あおざさ)」という表現。
実は、数年前に城館址探訪仲間と江刺(奥州市江刺区)の城館址を少し探訪したことがありましたが、江刺玉里にある「青篠城」の存在、城主を菊池右馬丞と伝え、この菊池一族と遠野でも菊池姓が繁華である青笹との関連性が何かしらあるのではないのか?と気になっておりました。
江刺の青篠城址近くの説明板は確認しましたが、肝心な城跡のある山野が確認できず探訪に至らなかったことがあり、今でも気になっていることでもあります。
遠野中世期の阿曽沼時代、遠野郷を広く治め、他地域との境界を強固に監視していたという印象は受けますが、それでも主街道から外れた別ルートにて他地域から入り込む人々は多く、戦時下以外はさほどこれらの往来が厳しくはなかったのではないのか?単に臼館や花館の菊池一族のみならず、江刺との交流等もあったのではないのか、そんな思いと他地域とのつながりを感じております。
妄想がさらに加速しそうな菊池姓探究、江刺とのつながりもひとつの懸案、まだ未訪問の江刺青篠城の探訪もまたしかり、遠野の青笹と青篠、そのことが少し気になったもので、今回のエントリーとなりました。
遠野の銘酒・・・「國華」は青笹町で造られている。
青笹町とくれば中沢の例の場所・・・荒神様
今や青笹町のみならず遠野を代表するスポットである。
おまけ・・・・
撮って撮られて・・・笑
昨年の今頃は連日35度を超える猛暑、酷暑がお盆まで続いていたと記憶するが、それに比べたら過ごしやすい夏だったかもしれません。
さて、本題の青笹・・・遠野市青笹町
青笹子づくり村・・・と人はいう・・・謝・・・すみません・・・「子育て村」が正規ですが、青笹とくれば遠野三山のひとつ六角牛山が第一に思い浮かびます。
青笹のメインストリート
旧役場の建物・・・遠野遺産に認定されている
こちらは釜石線、JR青笹駅
カマーは続く・・・。
ここで青笹の簡略な概要を・・・・なぜ青笹を今回取り上げたかといえば、歴史的な事柄で以前から気になっていたことがあって、その布石といいますか、その関連を今後探究するため景気付けといいますか、そんな思いもあってのことです。
青笹は明治22年(1889)市町村制実施により、中沢村・糠前村、青笹村の三村が合併して「青笹村」となり、昭和29年(1954)市制施行により遠野市が誕生、その際に遠野市青笹町となったものです。
青笹町の当時の人口は3,400人余
これより遡ることの江戸初期南部藩政の世、遠野南部氏が八戸から移封してきた寛永4年3月19日付、太守南部利直から八戸弥六郎(遠野領主、八戸直義)に発給された墨印の目録によると・・・・
青笹村426石907合
糠前村173石636合
中沢村221石114合
村として江戸初期から存在し、これ以前の阿曽沼時代から青笹の三村が在ったことが伺われます。
○地名の由来
遠野物語拾遺第3話によると・・・
青笹には昔七つの池があったという、その池のひとつに巫女石と呼ばれ岩があり、ある日、六角牛山から天人児(てんにんこう・天女)が遊びに来て、衣装を巫女石に置いて水遊びをしていた。
・・・・途中略・・・衣裳は村の者が持ち去ったため天人児は天に帰れず、裸身を朴の葉でまとい、里を訪ね歩くも天人児の元へ衣装は還らず、村の男に頼んで田圃を借りて蓮華の育て、糸をとって衣装となる機を織ることにしたという。
その際に天人児が住まいしたのが笹の小屋で、これが青笹の名の起こりとしている。
また、別説によると付近に表裏青色の笹が生い茂った場所があったことから青笹となったともいわれます。・・・・以上「ものがたり青笹」参照
一方上閉伊郡誌には青笹を「青篠」と表記している江戸時代の古文書があると指摘している。
何を隠そう前段で記述した寛永4年の目録状である。
宮守→宮森・小友→奥友・鱒沢→増沢・・・と同じ扱いだったのだろう。
●青篠
小生が気になっていたこと、それは「青篠(あおざさ)」という表現。
実は、数年前に城館址探訪仲間と江刺(奥州市江刺区)の城館址を少し探訪したことがありましたが、江刺玉里にある「青篠城」の存在、城主を菊池右馬丞と伝え、この菊池一族と遠野でも菊池姓が繁華である青笹との関連性が何かしらあるのではないのか?と気になっておりました。
江刺の青篠城址近くの説明板は確認しましたが、肝心な城跡のある山野が確認できず探訪に至らなかったことがあり、今でも気になっていることでもあります。
遠野中世期の阿曽沼時代、遠野郷を広く治め、他地域との境界を強固に監視していたという印象は受けますが、それでも主街道から外れた別ルートにて他地域から入り込む人々は多く、戦時下以外はさほどこれらの往来が厳しくはなかったのではないのか?単に臼館や花館の菊池一族のみならず、江刺との交流等もあったのではないのか、そんな思いと他地域とのつながりを感じております。
妄想がさらに加速しそうな菊池姓探究、江刺とのつながりもひとつの懸案、まだ未訪問の江刺青篠城の探訪もまたしかり、遠野の青笹と青篠、そのことが少し気になったもので、今回のエントリーとなりました。
遠野の銘酒・・・「國華」は青笹町で造られている。
青笹町とくれば中沢の例の場所・・・荒神様
今や青笹町のみならず遠野を代表するスポットである。
おまけ・・・・
撮って撮られて・・・笑