「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

史実と伝承の狭間

2006-01-09 14:42:23 | 歴史・民俗
 遠野物語拾遺第138話~141話に宮家にまつらう話が掲載されている。
 宮家の先祖は鮭に乗って気仙から遠野へやってきたというお話しと共に鮭が登場する他の話等も存在する。
 
 さて、この宮家の当主の方(故人)が平成3年に歴史雑誌に掲載した内容、「先祖探しに30年」が今でも脳裏から離れることはない、そして中世遠野阿曽沼氏関連の調べでも、常に頭の片隅にこの掲載された記事が気になって仕方がなかったのである。

 故宮氏が、実に30年を費やして調べ上げた先祖探求の顛末、記事では淡々と書き連ねてはいるが、故人もいうように苦節30年・たいへんな行程だったに違いない。
 宮家の菩提寺、遠野郷土史会の重鎮の方々、家系学会の名だたる先生方・・中でも丹羽基二先生との交流、そして偶然といってますが、丹羽先生は佐野市浅沼のご出身とか・・・私はこの記述をみた際に唖然としました。偶然とはいえ、何か目にみえないものが後押しをしていたかのような感覚、これは偶然なのだろうかと・・。
 栃木県佐野市浅沼・・・いわずと知れた遠野中世領主、阿曾沼氏発祥の地である。

 宮氏の先祖探求の旅は、菩提寺の過去帳から始まったらしい・・これで自身より9代前まで判明したという。さらにその後の調査で阿曽沼広綱(阿曽沼初代)まで遡ることができ、その後、丹羽先生や佐野市浅沼在住であった阿曾沼氏研究の第1人者、浅沼徳久先生とも知り合うことができ、俵藤太、すなわち藤原姓の先祖、藤原秀郷までたどり着いたとのことである。

 まっ、ここまでは長く厳しい探求の過程だったことでもあると思いますが、一番気になることは、阿曾沼広郷(天正年間活躍)にたどり着いたこと・・・このことがしっかりと表に出ていれば、或いは誰かが受け継いでこの年代を何かしら調べていれば・・そう思えてならない・・・。

 宮氏の調べでは、慶長年間に亡くなられた先祖を見出したとある。その名は倉堀義政(隼人)・・・阿曾沼広郷の子らしい・・・広郷には広長、広武等、四名の男子があったとされるが、広長意外は実はよくわからないことで謎でもある。
 いずれ過去帳により義政なる人物が居たこと、これは史実であろう。
 その後、倉堀家は南部家治世の遠野で阿曽沼一族であるということを表に出さずに遠野にあったのだろう・・・後に宮姓に改姓して藩医になったと伝えられている。
 遠野南部家臣団に宮氏の名が散見される。(宮昌庵・剛庵)

 私が気になっている点・・・
・宮家が阿曽沼一族とするならば、その先祖が鮭に乗って来たかは別問題として気仙からやって来たとされる伝承、これは何を意味するのだろうか・・。
 
 このことに関してはまだまだ現段階では私の調べも及びもしない範囲でもありますが、伝えられる阿曾沼氏歴代のこと、これらが何かしら所伝とは違う見解へと発展しそうでもあり、また遠野へ至った本格的な時代が判明するひとつのきっかけでもありそうな思いもあります。

 最後に、宮氏が長年調査された内容の一部でしょうが、平成3年3月刊行された「歴史と旅・特別増刊号・姓氏名門名家パート2」の中に掲載の記事を一部引用し紹介した内容です。
 さらに遠野菊池姓を探求された遠野郷土史家の先生が掲載された記事も収められております。

 今度こそ最後・・・先祖探求の極意
宮氏曰く・・
●調査は足でやるべし・・行動することが大事
●一気呵成でやるべし・・途中で気が冷めては成功しない
●考えられる可能性を全て当たってみるべし
●先入観念にとらわれなかれ
●各分野専門知識を持つ人物に教えを請うべし
●相手の都合を考えるべし
●誠意を尽くすべし


 
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11 コメント

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先祖調査 (睦月庵)
2006-01-09 19:56:43
我が家から見れば本家の本家の、さらに本家・・・・・・・・・・と、名字は同じだがすでに他人というくらい離れた本家の人がわが先祖調査をしたそうです。



その結果、埼玉のあるお寺までたどり着くことができた、士族だったという話が伝わっているそうです。



士族が明治維新以降のものか、それとも武士だったという意味なのかはわかりません。



この話を聞いて、私も是非調べてみたいと思ったのですが、

>●調査は足でやるべし・・行動することが大事

>●一気呵成でやるべし・・途中で気が冷めては成功しない



この二点ですでにつまずいています。
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ルーツ (とらねこ)
2006-01-09 21:18:25
そういえば以前睦月庵さんからご先祖のことを聞いたことがありましたね。

埼玉の方がルーツでその後、津軽に移ったとか?・・いずれ一筋縄ではいかないのがルーツ探求、気長に参りましょう。



今回の記述、阿曾沼氏の歴代のこと、本格的な下向の年代、何かしらわかりそうなことでもありますが、私の方の付き合いもほとんど関わりのないことでもあり、難儀しそうです。
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新年早々、興味深い話 (笛吹童子)
2006-01-10 16:46:31
宮家の話は、私も興味をもっていました。その宮家の娘さんと小友町の阿曾沼さんの息子さん(47歳)が結婚しているという話を一日市の今は亡き設計事務所の所長から聞いたことがあります。縁があるのですね。それはそうと、松崎町に多数おられる浜田姓、綾織の千葉姓の方々もいつの頃から定住したものか興味があります。立地条件の良い場所にいるのですから、阿曾沼以前からなのではと考えているところです。
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氏・苗字 (羚英)
2006-01-10 20:18:08
こんばんは。



丹羽基二氏。

その道の第一人者ですね!

氏は以前、統合などで古くから伝えられる地名が失われることにも大いなる懸念と警鐘を唱えておられました。

私もまったく同感です。



氏・苗字から先祖を探るのはいささか信憑性に欠ける…など、丹羽氏の説に異論があるのも事実ですが、私はひとつの指針になることは間違いないと考えます。



その昔名だたる武将たちでさえも、その先祖・出自を捏造したほどですから、存在する資料や伝承等で確実性をもって探求するのもなかなか難しいことですね。

でも、だからこそ、ロマンに満ち溢れているんですね~(^^)v
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宮家 (tama千代)
2006-01-10 22:57:19
ありましたね、「鮭に乗ってやってきた」話。

まさか、あの短い話から「阿曽沼家」に辿り着くとは思いませんでした。

好奇心を刺激するものって、このようなささやかな文章であったり・・・でも、その短い文に妙に惹かれた結果、発見したものは大きいですね。



何かがひっかかって調べたくなるものって、理屈抜きで「これだ」と閃くんですよね・・・それこそ、「一番最初に感じたこと」が、結果的には「正しい選択」に繋がる・・・なんでしょうね。

ん~、あまり関係ない話ですね。スイマセン
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Unknown (Unknown)
2006-01-11 15:31:24
羚英さん

丹羽先生は仰せのようにその道の第一人者だと思います。

私も先生の著作や歴史雑誌での掲載記事を随分と参考とした経緯もございます。

まさにその道のプロといった感じもいたします。



作られた系譜、これらはそのとおりでして、通説に流されることなく、独自に私も郷土史等を進めていきたい、そう思ってます。

浪漫も大事だと私も思います、これがなくなつたらただの学問になってしまいますからね。
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趣味 (とらねこ)
2006-01-11 15:37:31
羚英さんへの返信は「とらねこ」でした。

記名がなかったことお詫びもうしあげます。



たま千代さん

最近は、机上の作業よりもフィールドにての探訪に主眼を置いております。

史跡めぐりの前後は机上で資料等の調べ、さらに些細な伝承等、これらもよく目にとまるようになっておりますし、フィールドにて地権者や地域の方々に聞いてみると、けっこう面白く興味深い話もたまに聞くこともございます。

オタク系の趣味ながら、乗っているときは凄く楽しくやっております。
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宮氏 (とらねこ)
2006-01-11 15:52:45
笛吹童子さん、御無沙汰でした。

本年もよろしくお願いします。



さて、宮家に関して貴重な情報ありがとうございます。

実は数年前、故 宮康氏を大叔父にもち、さらに我家の菩提寺福泉寺二世故宥然和尚の縁戚という方と何度かメールのやり取りがございましたが、当方の不都合によってアドレス、メール等すべてを削除、今はその方とご連絡をとる術をなくしておるのが現状です。



曖昧な記憶ながら宮家と小友阿曾沼家は同族で、遠野南部家時代にて明暗を分けたかのようなお話しを伺ったと記憶しております。

この方面からの接触も今後の遠野阿曽沼氏の系譜解明及び中世遠野の歴史に何かしら関連する事項がありそうでもあります。

余談ですが同級生に阿曽沼君がおりましたが、弟さんの方ですよね。(東京在住で私と同業なはず・・婿さんにいったという情報)



それと浜田姓、千葉姓・・・一般的には浜田姓は千葉氏系、陸奥国では気仙が発祥というところですが、町内の古老の「かばなす」では、なんでも阿曾沼広長が気仙に落ちた後、松崎から広長を慕って気仙へ向かった一族有り、その後、南部家により遠野が完全支配となったときに故郷松崎に帰ってきたという、その際に千葉氏も附いて来たとか、あやふやなお話しを聞いたことがございますが、別の方にいわせると「ぼが」ということです・・・笑



私は葛西氏没落後に遠野に至った千葉氏系の一派があったのではないかと考えております。
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宮家の謎 (鬼喜來のさっと)
2018-10-21 20:53:22
とらねこ様お久しぶりです。寒くなってきましたね。今回も猫淵神社関係で過去記事への投稿となります。この遠野の宮家について、佐々木喜善の『聴耳草紙』に収録される「鮭のとをてむ」で宮家に伝わる鮭の大助譚の後半部分が、江戸初期に起こった今泉村と高田村の気仙川に遡上する鮭漁の境界争いで自吻した村上道慶の伝説に酷似している事に気づいたのがそもそもの発端なんですが、前半の鮭の大助伝説は陸前高田市竹駒町の羽縄観音堂に伝わった縁起で、村上道慶伝説地ともそれほど離れていないんですよね。村上道慶は俗名を村上織部道浄といい、葛西氏の浪人であったですが、その先祖は因幡の住人と言い、何時の頃か気仙郡に移住したと伝えられているようです。「鮭のとをてむ」は宮家の先祖の話とされますが、村上道慶の諱にある「道」の字は宮家の人々の諱としても用いられているので両者は同族であった可能性が出てくるんですよね。
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宮家の謎 (鬼喜來のさっと)
2018-10-21 21:27:35
そもそも宮氏といえば、備後国一之宮吉備津神社の社家とされる豪族で、大内氏や尼子氏に臣従した後、毛利氏に臣従するのですが、隣国の安芸には遠野阿曾沼氏と同じ、阿曾沼朝綱の流れを組む安芸阿曾沼氏があり、やはり毛利氏の家臣として明治維新まで存続しますが、この安芸阿曾沼氏の出ではないかと噂されるのが、遠野横田城主の阿曾沼太郎秀氏なんですよね。南朝方に属した下野阿曾沼氏とは異なり、安芸阿曾沼氏は北朝方として足利政権にとって軍功のあった家柄なんですが、室町幕府の権威が奥羽に及ぶに至り、遠野阿曾沼氏も南朝から北朝への当主の交代が行われたと考えられ、宮家の先祖というのはこの安芸阿曾沼氏の遠野入部と共に奥州に移住した一族なんじゃないですかね。この秀氏の代、気仙の岳波太郎、唐鍬崎四郎が気仙千葉氏と葛西氏に対し反旗を翻し、大槌氏と共謀して遠野横田城を攻める事件が勃発しますが、猫淵神社を守る梅木家の先祖である村上氏の気仙郡来住はこの気仙一揆が終息した直後の嘉吉年間とされており、戦後処理における気仙千葉氏の軍団再編成で、村上氏と同じ村上天皇の流れを組むという宮氏一族の一部が村上氏に改姓し気仙千葉氏の家臣として気仙郡に土着、村上道慶の祖になったとしても不思議ではないんですよね。
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