「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

遠野保

2006-03-04 12:52:36 | 歴史・民俗


 北奥羽城館関連サイト「北天の城」及び拙ウエブサイト「奥州虎猫舘・掲示板」でも若干触れられていた「遠野保」について、同級生であり遠野民俗学、歴史関連に精通されております笛吹童子様から、興味深い資料をいただき、今回はこの資料を基に及ばずながら遠野という呼び名、遠野保について考えてみたいと思います。

 さて、上記画像は建武元年に陸奥国司北畠顕家から南部又二郎師行(一応に遠野南部氏の先祖)に宛てた国宣であるが、ここにはっきりと「遠野保」と記されていること、またこの国宣が日本史上「遠野」という文字が見られる最古の公式文書であり、当時既に遠野保と呼ばれていた地が私の住む岩手県遠野市であろうと思います。

 それは南部師行は北畠顕家配下として糠部郡(青森~岩手県北)を含む北奥羽地方の検断職(行政、検察、軍事を司る地方長官)として派遣されている点、南部師行の受け持ち範囲は糠部郡内は無論のこと、閉伊郡や津軽地方も含まれていたことから遠野保もその受け持ち範囲であり国宣の内容の阿曽沼朝兼からの訴えに対する対応からもあきらかであろうと思います。

 また阿曽沼という文字もみえること、さらに小山文書といわれる「藤原秀親譲状」(観応元年8月20日)の中に「下野国阿曽郡内 阿曽沼郷地頭職事」「陸奥国遠野保地頭職事」・・・とあるように、ここでも「遠野保」が記され、阿曽沼氏が遠野統治に関わっていた事実が伺われる内容でもある。

 よって少なくても建武年間以前から遠野地方は「遠野保」と呼ばれていたことがうかがい知ることができますが、しからば「保」とは何か、遠野は12郷と呼ばれていたように「郷」ではないのか、或いは閉伊といわれるように「閉伊郡」つまり「郡」の内ではないのか・・・といったことで少し論議もされたようでもあります。

 今回いだたいた資料は、伊藤英造氏が著した「遠野保について」を引用及び参考としておりますが、原文もあるということなそうですから、後日あらためて拝読させていただくことになります。

 遠野は「保」であった。国宣には保と記され、郷でも荘でも村でもない、ましてや閉伊郡とも記されていない。
 「保」とは何なのか・・・その謂れやら性格、成立の過程を述べるならあまりにも難しく長くなりますので割愛いたしますが、要するに公領、すなわち朝廷や寺社、国衛の用に充てるため朝廷に承認され設定された特別な土地といったことらしい・・・。(荘園制の変形したもの)

 荘園は貴族社会の財政基盤であったが、荘園制度も平安期が最盛期であり、鎌倉期にこれらの成立をみることはないので、遠野保は平安期には成立をみたことになり得ます。つまり遠野保と呼ばれていたのは平安時代から・・・ということになりますが、平安時代といっても北奥羽では安倍時代やら藤原時代も含む長い時代でもありますから、遠野保の成立を限られた時期として特定するには難しいものかもしれません。

 東北においての「保」は数は多くないがいくつか確認されているようです。主に宮城県が多いとのことであるが、遠野は保の中でも北辺に位置し多賀国府から一番遠い保との見解でもある。
 遠野は平安時代、安倍氏や平泉の藤原氏の影響力が強く内在していたとはいえ、保という公領であったこと、また後の時代でも海岸と内陸を結ぶ要衝という位置付けはこの頃もあって、閉伊郡やら北の糠部郡の駿馬及び昆布や鷹羽、海豹皮等の北方の特産品と南奥からの米やら綿、農器等の交易を司る鎮守府公認或いは公営のひとつの拠点だったのではないのか・・・・と考えてしまいます。

 私の住む駒木の小田沢坂上遺跡、平安期に流通したとされるまとまった貨幣等が発掘もされている現実もあり、何かしらこれらを統制する力ある一族或いは人物が居たとしてもおかしくない歴史を感じるものでもあります。

 余談にはなりますが、私の住む駒木地区・・「駒木」とは小牧とか駒上げ野とされる馬にちなんだ名と伝えられておりますが、上記に記したように北奥羽からの馬の集積地のひとつとしての遠野保だったらどうだろう・・・その場所が現在の松崎町駒木だったとしたら・・・これらのことから牧が設けられ、馬関連が発達した・・そして地名に反映された・・・興味ある内容でもある。

 さて、遠野保のこと、多賀国府からは一番遠い保・・すなわち「遠い保」が転じて遠野保となった・・・これもなんともいえませんが、少し考えられる説ではないでしょうか、他に遠野の語源について、アイヌ語からの湖水に由来する「トオヌップ」、歴史的伝承での「遠閉伊」(とおのへい)・・・これは蝦夷時代における中央からの最後の征討を受けた地、閉伊郡の内にあったとされる場所・・・さらに一戸~九戸というように拾戸(とおのへ)による考え方もあります。

 しかし、「遠野保」・・「遠ノ保」または「遠い保」が遠野保成立当時に付けられた呼び名である点、中央からの公文書での国宣に遠野保とあるように地元から遠野という名が発信されたのではなく中央による呼び名が反映されたのではないのか・・・と思えて仕方ない・・・。

 最後はお茶を濁す内容で退散いたしますが、これらを自分なりにまとめる、これも遠野郷土史を学ぶ上では必要とも思われ、また阿曽沼氏やら遠野南部氏を調べるにあたっても以前の遠野の様子・・・これも窺い知ることも必要でもあり、今回の遠野保はまさにその原点ともいえる考察題材でもあります。
 より一層励み明らかにできるよう努力いたします。
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4 コメント

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ワクワク。 (アルエン)
2006-03-05 06:49:56
何だかワクワクドキドキする内容でした!!

とらねこさんの文章って読みやすくて好きです。 これからも遠野(今昔)の話題を楽しみにしてまーす。 



「きっつ」は保存してくださいね。(笑)

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歴史 (とらねこ)
2006-03-05 18:56:55
アルエンさん

難しい話しではありますが、あれこれロマンをめぐらせることは結構楽しいものです。



きっつは、だいぶくたびれてきておりますが、他の絵「恵比寿様・弁財天様・毘沙門様・布袋様」も小屋を整理して現したいと思っております。
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本当にロマンです。 (アルエン)
2006-03-06 08:06:24
うわぁ!

前回のコメントのタイトルを「男のロマン」としたかったのですが、内容が真面目ムードでしたので他の方の真面目なコメントがあったら・・・なんて遠慮していました。 とらねこさんの文章を読んでいるとヒシヒシとロマン!感じました。笑



きっつの件、楽しみにしております。
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浪漫 (とらねこ)
2006-03-07 11:18:18
アルエンさん・・・

そう歴史は浪漫です・・・笑



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