遠野盆地にも初雪、積雪に至るといったことではありませんでしたが、自動車整備工場、タイヤ屋さん、ガソリンスタンドとタイヤ交換も忙しい時期を迎えているようです。
私も、今週末にでも冬タイヤに交換予定です・・来週かも・・汗
さて、前回につづき、またもや母親の実家のお話しですが・・・・
母親の実家には、家宝というべき銘刀があったといわれております。
その名も「備前則光」の大刀・・・・。
戦後間もない頃、大叔父がこの刀を持ち歩いているところを警察に没収されたとかで、家人の再三に渡る返却要求に対し、のらりくらりの対応、最後は知らぬ存ぜぬの態度で銘刀は行方知れず・・・とのこと。
大叔父が若い頃(コロコロと記憶が曖昧ながら当時17歳とか)、地域の若者グループの親分のような存在で、その権威といいますか、皆とは少し違うといった態度をみせるために時折、家宝の刀を持ち出していたとか。
さらに地元の鹿踊りでの太刀振りでは、この真剣を使って踊るといったことで、鹿頭のカンナガラがサッと切れて宙に舞うといったリアルさ、こんなことからいつしか大叔父は警察にマークされる存在になったのであろう・・・。
間もなく今でいう補導というやつか、持っていた刀は没収されるも本人は大した取調べもなく放免・・・家宝の刀の没収を知ると家人が警察署に出向くも、しばらく預かる等の一点張り、その後何度となく足を運んだそうですが、ついに返してもらえず・・・というよりその行方も教えてもらえず・・・当時から個人的に警察官の誰かが自分のモノにしたか、処分しただろうという疑念を持っているようです。
この、銘刀備前則光・・・
幕末の頃か明治維新直後に遠野領主であった遠野南部第11代、南部弥六郎済賢公(なんぶやろくろうただかた)の御舎弟、南部富治公との縁が口伝で伝えられている。
富治公は、宮守に2百石を与えられ分家していたそうですが、住まいは遠野城下、趣味といいますか、実益も兼ねているのか、狩猟や漁が日課で、綾織の新里の地まで馬でやって来ては雉や山鳥の罠を仕掛けたり、猿ヶ石川で釣りや網をかけたりしていたそうです。
母親の実家の先祖は、これらのお相手を務めたり、家を休憩場所として提供したりと随分と親しくさせていただいていたそうです。
ある日、川漁が大漁で、急遽宴席が設けられたそうですが、富治公は大酒を飲みすぎてダウン、城下から家来が迎えに来たそうですが、その際に腰のモノを忘れて行ったとか・・・・しかし、それからしばらく富治公の姿は見えない、一応お預かりといった思いながらも、そのうちに届けようと考えていた矢先に、日頃世話になっているので、そのまま下渡すとなったとか・・・・以来、家宝となったものなそうです・・・・
大叔母、大叔父談・・。


伝来の甲冑
かなりくたびれておりますが、本来はこの甲冑の横に銘刀も飾られていたはず・・・・。
今月25日(土)遠野ぶれんどの集いが開催されますが、翌日の26日(日)に遠野郷郷土芸能競演会が開催されるようです。
遠野まつり以来の郷土芸能の競演、今年最後の舞い納めという団体も多いと思います。
遠野ぶれんど会と郷土芸能競演会を楽しむ、これも良いのではないですかね・・。
いずれ遠野ぶれんどの集い・・・20日までの参加受付となっておりますので、よろしくお願いします。
開催要項は11月7日のエントリーまたは「ふしぎの里遠野を行く」「山猫を探す人」「くさぐさ・遠野落穂拾」のリンクされております各ブログのエントリー記事を参照願います。
私も、今週末にでも冬タイヤに交換予定です・・来週かも・・汗
さて、前回につづき、またもや母親の実家のお話しですが・・・・
母親の実家には、家宝というべき銘刀があったといわれております。
その名も「備前則光」の大刀・・・・。
戦後間もない頃、大叔父がこの刀を持ち歩いているところを警察に没収されたとかで、家人の再三に渡る返却要求に対し、のらりくらりの対応、最後は知らぬ存ぜぬの態度で銘刀は行方知れず・・・とのこと。
大叔父が若い頃(コロコロと記憶が曖昧ながら当時17歳とか)、地域の若者グループの親分のような存在で、その権威といいますか、皆とは少し違うといった態度をみせるために時折、家宝の刀を持ち出していたとか。
さらに地元の鹿踊りでの太刀振りでは、この真剣を使って踊るといったことで、鹿頭のカンナガラがサッと切れて宙に舞うといったリアルさ、こんなことからいつしか大叔父は警察にマークされる存在になったのであろう・・・。
間もなく今でいう補導というやつか、持っていた刀は没収されるも本人は大した取調べもなく放免・・・家宝の刀の没収を知ると家人が警察署に出向くも、しばらく預かる等の一点張り、その後何度となく足を運んだそうですが、ついに返してもらえず・・・というよりその行方も教えてもらえず・・・当時から個人的に警察官の誰かが自分のモノにしたか、処分しただろうという疑念を持っているようです。
この、銘刀備前則光・・・
幕末の頃か明治維新直後に遠野領主であった遠野南部第11代、南部弥六郎済賢公(なんぶやろくろうただかた)の御舎弟、南部富治公との縁が口伝で伝えられている。
富治公は、宮守に2百石を与えられ分家していたそうですが、住まいは遠野城下、趣味といいますか、実益も兼ねているのか、狩猟や漁が日課で、綾織の新里の地まで馬でやって来ては雉や山鳥の罠を仕掛けたり、猿ヶ石川で釣りや網をかけたりしていたそうです。
母親の実家の先祖は、これらのお相手を務めたり、家を休憩場所として提供したりと随分と親しくさせていただいていたそうです。
ある日、川漁が大漁で、急遽宴席が設けられたそうですが、富治公は大酒を飲みすぎてダウン、城下から家来が迎えに来たそうですが、その際に腰のモノを忘れて行ったとか・・・・しかし、それからしばらく富治公の姿は見えない、一応お預かりといった思いながらも、そのうちに届けようと考えていた矢先に、日頃世話になっているので、そのまま下渡すとなったとか・・・・以来、家宝となったものなそうです・・・・
大叔母、大叔父談・・。


伝来の甲冑
かなりくたびれておりますが、本来はこの甲冑の横に銘刀も飾られていたはず・・・・。
今月25日(土)遠野ぶれんどの集いが開催されますが、翌日の26日(日)に遠野郷郷土芸能競演会が開催されるようです。
遠野まつり以来の郷土芸能の競演、今年最後の舞い納めという団体も多いと思います。
遠野ぶれんど会と郷土芸能競演会を楽しむ、これも良いのではないですかね・・。
いずれ遠野ぶれんどの集い・・・20日までの参加受付となっておりますので、よろしくお願いします。
開催要項は11月7日のエントリーまたは「ふしぎの里遠野を行く」「山猫を探す人」「くさぐさ・遠野落穂拾」のリンクされております各ブログのエントリー記事を参照願います。
きっと警察の関係者が今もお持ちになっているのでは。
と、勘ぐりたくなるお話です。
家宝を預り、そのまま返さないとは・・・・○棒です。
権力を笠に着た当時の傲慢さが臭ってきますね。
捜索願!を「警察」に出しても無駄だろうなぁ~
ネットを使って情報を集めてみるのもいいかもね。
親戚が事あるごとに集まればこの話題がでますが、今は単なる昔話的で仕方ないと結んでおります。
張本人の大叔父は当時の警察署長の名を知っているようですが、自分にも非があるのか、それとも顔向けが出来ないのか、没収されたことに関しては多くは語りません。
ただ再三にわたって返却は求めたのは事実のようですが、その後進駐軍へ渡ったか、お役人の誰かが我が物としたとか色々と憶測はあったようです。
おそらく誰かが処分したのであろうと思います。
備前則光の名刀といっても色々あるようでどれがそうかといえば特定もできず、夢ながら私が宝くじでもあてたら古刀の備前則光の銘がはいった太刀でも母の実家へ寄贈したいと思います・・・汗
とらねこ殿の刀といい、甲冑といい、これからは、やはり「檀那様」とお呼びせねば!
つくづく惜しいことです。
銘刀は自らの意思で持主を選んでいくと言いますから(言わないか:汗)いずれはとらねこ様の元へ戻られるものと思われます。
刀といえば、ワタクシの父方の曽祖父のそのまた父親が幕末のドサクサに紛れて俄か武士になったとか。その時に帯びていた刀が5年ほど前に押入れの奥から発見されました。ワタクシの両親は大層気味悪がり、結局、叔父に引き取られました。
惜しい!! 我家のお宝になったものを・・・・
檀那様は気がひけますぜ、なんせ母親の家系ですし、我方の家系、宮洞家を継いだ身としては、恐れ多いことでもござる。
yamanekoさん
刀も持ち主を選んだかもしれませんね・・・そういった運命だったと思えばこれもまた仕方なしかもしれません。実際に今は手元に無いわけですからね。