遠野郷内の城館跡探訪の際に大きな力となる資料「遠野市における城館屋敷跡調査報告書」昭和59年調査・昭和62年報告・・・の完全版のコピーを入手したことにより、場所の特定が格段としやすくなったこと、要図も掲載、さらに不明な点は不明としながらも、館に関連する人物名も少ないですが網羅されている点で、城館跡探訪ではかなり重宝しております。
またその報告書の内容での考察も参考になる部分があるのですが、数年前に報告書の一部と館跡一覧表のコピーを先行入手、これを見た際にちょっと気になること、違和感を覚えることがありましたし、昨年資料全てを手にしたことにより、この気になることに拍車がかかっておりました。
遠野市内140弱の城館屋敷跡を調査されたお二人の先人郷土史家の先生方には頭が下がる思いですし、私のような後年にこれらを調べる人間にとってはありがたい資料であり、あらためまして敬意を表したいと思います。
さて、此処からが本題となりますが・・・・・
○東日流外三郡誌と遠野の館
遠野の城館跡に関する報告書での考察に「東日流外三郡誌」から引用、参考とした旨が記されている。
中世期の遠野を考察するには史料等が皆無に近く、これらの時代の見解を記するということは甚だ難しいことでもありますが、なるほど・・・と納得する場面があったり、しかも安倍時代と考察される館跡に関しては、少ないながらも具体的な人物名が記されており、何故にその関連人物が判明しているのか?実は感心したり疑問もあったりしていたんです。

東日流外三郡誌・・・とくれば歴史に携わる方々、興味がある方々にはお判りだと思いますが、その存在に賛否両論があって、どちらかといえば、というより限りなく黒、はっきりいえば偽物・・・こちらの見解が強い内容となっていると思いますが、東日流外三郡誌の虜になった東北在の郷土史家の方々が多数発生したということがあり、遠野に於いても少なからず城館跡に関る考察に影響があったということは否定できないことでもあると思われます。
※検索サイトにて「東日流外三郡誌」を検索すれば、その内容や論争やら顛末が分ると思います。
東日流外三郡誌を実は読んだことはなかったのですが、このことが少し気になりだした辺りからネットで調べたり、図書館にて実際に刊行された書を手にしたりしておりました。
但し、実際は城館跡資料に記載の部分が果してあるのか、ないのか、これを確かめることでもありましたが、遠野関連での内容を確認できずにおります。
本日も図書館にて確認作業として拝読しましたが、やはり見つけられず・・・。
私が持っているコピーの中に東日流外三郡誌の掲載として・・・「閉伊武鑑抄」に遠野郷内の館主等が掲載されている。
お2人の郷土史家が城館跡の報告書をまとめた昭和59年~62年は、おそらく東日流外三郡誌の是非をめぐって論争等が沸き起こっている頃で、その内容は理解されていたものと思いますが、それでもどこまで情報をもっていたものなのか?いずれ驚愕したただろう雰囲気はなんとなく感じられます。
此処で東日流外三郡誌が正か偽か・・・を論ずることは避けますが、発見者自らの筆により近年に書かれた内容だとする偽物だとして、かなり遠野をはじめ各地の地勢なり歴史を知っている内容でもあり、この点ではよく調査されたのか、それとも別な資料等を熟読されたことになると思います。
特に面白いことに、遠野の城館跡調査報告書をみますと、東日流外三郡誌に記述される地名が実際に遠野にあったという点、単に津軽も遠野も同じ北奥羽の内だから同様の地名があってもおかしくない、そういった発想では済ませられない内容も実はあるのではないのか?、なんとも不思議な思いでもあります。
ということで安倍時代、それ以前といわれる内容を主に見解が示されているものですが、私としては資料は資料として館跡探訪に関しては活用はいたしますが、あくまでも見た目を大切に・・・実際に史跡(館跡)は自身の目で確かめてから・・・・これでいきたいと思います。
安倍氏関連ということで・・・

堀跡を利用か?



安倍屋敷跡とくれば隣接の観光地・・・・かっぱ淵
平日ということもあり観光客はまばらでしたが、それでもチラホラと訪れているようです。

またその報告書の内容での考察も参考になる部分があるのですが、数年前に報告書の一部と館跡一覧表のコピーを先行入手、これを見た際にちょっと気になること、違和感を覚えることがありましたし、昨年資料全てを手にしたことにより、この気になることに拍車がかかっておりました。
遠野市内140弱の城館屋敷跡を調査されたお二人の先人郷土史家の先生方には頭が下がる思いですし、私のような後年にこれらを調べる人間にとってはありがたい資料であり、あらためまして敬意を表したいと思います。
さて、此処からが本題となりますが・・・・・
○東日流外三郡誌と遠野の館
遠野の城館跡に関する報告書での考察に「東日流外三郡誌」から引用、参考とした旨が記されている。
中世期の遠野を考察するには史料等が皆無に近く、これらの時代の見解を記するということは甚だ難しいことでもありますが、なるほど・・・と納得する場面があったり、しかも安倍時代と考察される館跡に関しては、少ないながらも具体的な人物名が記されており、何故にその関連人物が判明しているのか?実は感心したり疑問もあったりしていたんです。

東日流外三郡誌・・・とくれば歴史に携わる方々、興味がある方々にはお判りだと思いますが、その存在に賛否両論があって、どちらかといえば、というより限りなく黒、はっきりいえば偽物・・・こちらの見解が強い内容となっていると思いますが、東日流外三郡誌の虜になった東北在の郷土史家の方々が多数発生したということがあり、遠野に於いても少なからず城館跡に関る考察に影響があったということは否定できないことでもあると思われます。
※検索サイトにて「東日流外三郡誌」を検索すれば、その内容や論争やら顛末が分ると思います。
東日流外三郡誌を実は読んだことはなかったのですが、このことが少し気になりだした辺りからネットで調べたり、図書館にて実際に刊行された書を手にしたりしておりました。
但し、実際は城館跡資料に記載の部分が果してあるのか、ないのか、これを確かめることでもありましたが、遠野関連での内容を確認できずにおります。
本日も図書館にて確認作業として拝読しましたが、やはり見つけられず・・・。
私が持っているコピーの中に東日流外三郡誌の掲載として・・・「閉伊武鑑抄」に遠野郷内の館主等が掲載されている。
お2人の郷土史家が城館跡の報告書をまとめた昭和59年~62年は、おそらく東日流外三郡誌の是非をめぐって論争等が沸き起こっている頃で、その内容は理解されていたものと思いますが、それでもどこまで情報をもっていたものなのか?いずれ驚愕したただろう雰囲気はなんとなく感じられます。
此処で東日流外三郡誌が正か偽か・・・を論ずることは避けますが、発見者自らの筆により近年に書かれた内容だとする偽物だとして、かなり遠野をはじめ各地の地勢なり歴史を知っている内容でもあり、この点ではよく調査されたのか、それとも別な資料等を熟読されたことになると思います。
特に面白いことに、遠野の城館跡調査報告書をみますと、東日流外三郡誌に記述される地名が実際に遠野にあったという点、単に津軽も遠野も同じ北奥羽の内だから同様の地名があってもおかしくない、そういった発想では済ませられない内容も実はあるのではないのか?、なんとも不思議な思いでもあります。
ということで安倍時代、それ以前といわれる内容を主に見解が示されているものですが、私としては資料は資料として館跡探訪に関しては活用はいたしますが、あくまでも見た目を大切に・・・実際に史跡(館跡)は自身の目で確かめてから・・・・これでいきたいと思います。
安倍氏関連ということで・・・

堀跡を利用か?



安倍屋敷跡とくれば隣接の観光地・・・・かっぱ淵
平日ということもあり観光客はまばらでしたが、それでもチラホラと訪れているようです。

はじめまして。
ご指摘等いただきまして、ありがとうございます。
また、このような田舎素人ブログにコメントいただき、こちらも併せて感謝申し上げます。
ご指摘いただいた内容については、書籍等やネットを通じて知り得た事柄が主でもあり、その真意等は当事者とか関係された方々のみ知る内容だとも認識しており、このことで論議に加わるような立場でもないということは、はっきりと申し上げたいと思いますし、素人の勝手な解釈で責任のない記述ではありますが、この点、なにとぞご容赦を願います。
先生の今後益々の著作活動等のご活躍をご祈念しておりますし、何かございましたらご指導、ご助言いただけましたらありがたいです。
話で否定論者が「W(肯定論者)のお宅はこのへんですか?」と近所の爺さんにきいて「な~にあっつにいるべ~」と応対。後に論文で「W氏はアッツ島で玉砕」と信じられない後記載をやったそうです。超真面目な教育番組でこのオチは爆笑しました<
これは事実と違います。真贋論争が始まる以前の1980年頃、NHKのプロデューサーで当時、三郡誌の内容を信じていた人がいて、紀行番組で津軽を取り上げた。「父がアッツ島で戦死した」というのはその番組での和田喜八郎自身の証言です。
三郡誌支持者の発言には良くこの手の虚構が入るので、批判する側としては迷惑させられました。
まあ、杜撰な偽書を擁護するためには仕方がないのかも知れませんが。
なお、和田喜八郎氏は若い頃、地元の郷土史家の手伝いをしていました。東北郷土史に関するレアな知識があったことは確かです。もっともその知識を偽書に混入されては、史料として使いものにならないわけですが。
未だに論争は継続中、どうしても個人攻撃、中傷合戦になるといったことはつきもので、この論争もそんな様相を呈していたようですね。
しかし、アッツ島の話、少し笑みがこぼれますが、あの内容を書くということは、かなりの時間と労力が必要かと思いますので、このことでは尊敬に値するものかもしれません。
肯定論者の家を否定論者が訪ねていったときの
話で否定論者が「W(肯定論者)のお宅はこのへんですか?」と近所の爺さんにきいて「な~にあっつにいるべ~」と応対。後に論文で「W氏はアッツ島で玉砕」と信じられない後記載をやったそうです。超真面目な教育番組でこのオチは爆笑しました。
真贋論争はともかくあれだけの本を書くにはそれなり
の裏付けがあると思います。
詳細ありがとうございます。
某県南の町で開催の安倍氏のシンポでの資料を拝見しますと、この中に演者として参加され、色々と発見に至る経過や何故にマスコミ等を遮断したのかとか、なかなか面白い記載があって楽しめました。
何度もコメント返しにて記してますが、仰せのように全てが創作だと思えない点、というより何かを引用したものか、それだけの知識なり思いがあったということは別な意味で凄いとは思いました。
25日は遠野で「流鏑馬」があるようですね。
晴れたら、毛越寺の「曲水の宴」もいいかな、っと思ってます。
「東日流外三郡誌」は私も興味をもったことがありましたし、今でも少々。(笑)
数人のノベルス版、「東日流外三郡誌」を題材にしたミステリーありますね。
市浦村出版の村史となったこと、いろんなイベントを行ったことでの「創出?」に偽りがあったことなどで、Y.B.氏などが中心となって問題になったようですが・・・。
旧・衣川村にあった(今でもあるかは未確認)「安倍一族鎮魂碑」なども埋葬した『骨』に問題があったようです。
ただし、一事をもってすべてがW氏の創作かどうかは、わかりません。
かつて、興味をもって「新郷村」のキリストの墓や市浦、浪岡周辺までドライブしたこともありました。(笑)
●「日本史が危ない!」 偽書『東日流外三郡誌』の正体
安本美典・原田実・原正壽氏著、全貌社
●「虚妄(まぼろし)の東北王朝」 歴史を贋造する人たち
安本美典氏著 毎日新聞社
など、裁判沙汰になった「偽書」説に興味ある方はどうぞ。(笑)
未だに論争があるみたいですね。
おそらく限りなく黒という線が強いものかな・・・と思いますが、史料として捉える立場の方々には偽者なのでしょうね。
また擁護派も挙げた手を下ろすタイミングを失なったかもしれません。
偽書と騒がれ叩かれ裁判沙汰になっていた?いる?そうですね。
「にせものだぁ」と人生を賭けてまで排撃しようとする人たちはなんなでしょかねぇ(ブヒー
清書した娘さんも事情聴取されていますし、家族全員が近隣から罪人視されたらしいです。
偽書の定義付けもあやすぃとおもてます。
ワタクシとしては、今後もこの中に事実を探るってことの資料にしていたいと思います。
全部読んではいないけども~(汗
自作のみでできる中身ではない。
妄想仲間と思えば(笑)「すっげぇ~」
たいへんご無沙汰しておりました。
福泉寺大観音堂の藤、桜もツツジも昨年より1週間早く見頃を迎えましたが、藤もそうだったようです。
本日、遅ればせながら確かめて参りましたが、藤は終盤を迎えており色もだいぶ褪せておりました。
日曜日までは十分もつと思いますので、是非にお越しください。
後で本日の画像をエントリーしたいと思ってます。
活字となった書籍でみると凄いと思いました。
特に絵入の部分はかなりリアルで詳しい、文もそうだとけど絵なんかにもかなりの労力が感じられます。
当初は何か原文なんかがあって、それを書き写しながら自分の思いも入れたものか?付け足したものなのか?と考えましたが、今は自身による作という線が極めて強いとか?でもギャグを十分に通り越している内容でもあると思います。
この論争、実は最近までほとんど興味がありませんでしたので、よくはわからなかったのが正直なところです。
しかし、未だに両者に分かれて論争等があるみたいですし、まじめに信じる方々もいること、これも事実ということかもしれませんね・・・笑
いつもながら、遠野の勉強になりますね。
ちょっとお伺いしたいのですが、福泉寺の観音堂前の藤の花は今どんな状態でしょうか?
今年は開花が早いので、もう終わっているのでは?
このエントリーの3枚目の写真に藤が写っていますので、まだ大丈夫かなと思いつつ・・・
まだ見ることが出来るのであれば、近日中に主人と見に行きたいと思っています。
なんですかね。。
ワタクシは中身に関しては全くの白紙ですが、こうであればいいな、ということを史実として捏造してあるのすか?
捉え方次第ですが、ワタクシ的には一大歴史ギャグ書と位置づけるのが妥当かと(w
同じ例は甲陽軍鑑なる書にも当てはまるとか・・
>東日流外三郡誌
久しぶりにこの綴りを見ました、まさかこちらで見ることになろうとは。中学の頃、友人と某ミステリー雑誌に夢中になってたことを思い出しましたねぇ。こういうのは「ほぼ」フィクションで構わないと思いますよ、「ほぼ」ネタということで、何度も繰り返しますが「ほぼ」です(笑)。
これがホントの史料なら東北史に関しては凄いことでもありますが、ほぼ偽物としての見解が大半を占めておるようですね。
それでも未だに賛否両論でもめているのは事実なようです。
秋田孝季ですね、それと和田某・・・主役は後者の方となりますが、いずれにしても世に出す際はもの凄い労力があったものと思いますし、下調べも大変だったと思います。というかかなり歴史に精通していた御仁だったこと、その妄想なりも半端でないこと、このことには脱帽ということになりますね。
史料として世に出したこと、これが偽物ということだと思いますが、一人の歴史家としたら凄い見識の持主ということになり、説として出していれば真実もあったり評価はそれなりについたような気もします。
東北の復権を切に願うものとして光明をあた書でもありました。
何とも不思議な書物・・・アキタカゲスエ?でしたか・・・
今一度読む元気はありませんが確かに胸躍る最強の偽書だったかもしれませんね。
99%の偽りかもしれませんが1%の真実も・・・・と未だに思っております。