遠野さくら祭りでのイベント、「遠野南部氏入部行列」を見学いたしました。
3年前に入部行列に参加、徒歩侍の役でありましたが、参加するよりはカメラを構えてブログ用に取材した方が自分的には性にあっているな・・・なんて思ってましたが、以後、なかなかイベント開催日に休みが合わずという状態でありました。
今年、やっと休みと重なり、久し振りに入部行列を楽しむことができました。
〇遠野南部入部行列2009・・・2009.5.3

例年の如く、先頭は遠野市(上柳しし踊り・子供南部囃子)、八戸市(松舘細越えんぶり)の郷土芸能団体、続いてメインの入部行列、さらに八戸市からお越しの皆さん、最後は遠野市内(大工町大神楽)の郷土芸能でした。


遠野市長扮する遠野領主、八戸直義公

藩主というのも少し違和感はありますが・・・。
八戸市・新井田祭り実行委員会長扮する家老、新田義実公


他に八戸市から3泊4日をかけて歩いて遠野入りした方々が家臣役として参加とのこと、たいへんご苦労さまです。

八戸氏21代、女殿様「清心尼公」・・・こちらも八戸のお方が扮しているとか。


いつもは八戸からは法霊神楽が参加されていたような・・・今年は「えんぶり」が参加。




約380年前の寛永4年(1627)、八戸根城から遠野へ領地替となった八戸氏、その縁で青森県八戸市とは交流が盛んな遠野でありますが、個人的には兄弟のような間柄であると確信しているところですが、まだまだ多くの市民を巻き込んでの交友はさらに必要ではないのか?と思っております。
それでもこうして八戸からわざわざお越しの皆さんもいて、うれしいと感じました。
今回の入部行列は約350名の皆さんが参加されたとかで大きなイベントとして定着したようにも見えますが、以前と比べれば沿道で見学される方々がかなり少なかったように感じました。

当ブログで過去に何度か関連記事を掲載したことがございますが、当時、遠野へ移転は下級家臣にとっては八戸での財産の放棄を意味する内容でもあった。
すなわち現代のように交通機関が発達していたわけでもなく、家財道具等の財産の運搬は、馬か人の背によるもので、その多くは運搬は不可能でもある。
よってこれらの蓄財を惜しむ者は暇をいただき浪人になるものも多数いたとされる。
遠野へ移転した家臣は、八戸氏一門一族、譜代の家臣、身軽な小身家臣達であったといわれ、どうやら遠野入部行列といわれるような大々的内容ではなかったらしい・・・最初に遠野城下に入った一行は、八戸直義含みの騎馬の家臣達で13騎といわれる。(寛永4年3月12日 未の下刻(午後4時頃))
徒歩で遠野入りした人々の多くは夜になってからといわれる。
遠野市史2・遠野南部家物語(吉田政吉)
機会がありましたら、遠野入りの際のルート検証等もしてみたいと考えておりますが、イベントは入部行列の再現といった内容でもありますが、あくまでも観光用としたものであると思いますので、史実がどうのこうのと言うものではありません。
皆さんが楽しめればそれで良しとしなければ・・・と思うのですが・・・?
3年前に入部行列に参加、徒歩侍の役でありましたが、参加するよりはカメラを構えてブログ用に取材した方が自分的には性にあっているな・・・なんて思ってましたが、以後、なかなかイベント開催日に休みが合わずという状態でありました。
今年、やっと休みと重なり、久し振りに入部行列を楽しむことができました。
〇遠野南部入部行列2009・・・2009.5.3

例年の如く、先頭は遠野市(上柳しし踊り・子供南部囃子)、八戸市(松舘細越えんぶり)の郷土芸能団体、続いてメインの入部行列、さらに八戸市からお越しの皆さん、最後は遠野市内(大工町大神楽)の郷土芸能でした。


遠野市長扮する遠野領主、八戸直義公

藩主というのも少し違和感はありますが・・・。
八戸市・新井田祭り実行委員会長扮する家老、新田義実公


他に八戸市から3泊4日をかけて歩いて遠野入りした方々が家臣役として参加とのこと、たいへんご苦労さまです。

八戸氏21代、女殿様「清心尼公」・・・こちらも八戸のお方が扮しているとか。


いつもは八戸からは法霊神楽が参加されていたような・・・今年は「えんぶり」が参加。




約380年前の寛永4年(1627)、八戸根城から遠野へ領地替となった八戸氏、その縁で青森県八戸市とは交流が盛んな遠野でありますが、個人的には兄弟のような間柄であると確信しているところですが、まだまだ多くの市民を巻き込んでの交友はさらに必要ではないのか?と思っております。
それでもこうして八戸からわざわざお越しの皆さんもいて、うれしいと感じました。
今回の入部行列は約350名の皆さんが参加されたとかで大きなイベントとして定着したようにも見えますが、以前と比べれば沿道で見学される方々がかなり少なかったように感じました。

当ブログで過去に何度か関連記事を掲載したことがございますが、当時、遠野へ移転は下級家臣にとっては八戸での財産の放棄を意味する内容でもあった。
すなわち現代のように交通機関が発達していたわけでもなく、家財道具等の財産の運搬は、馬か人の背によるもので、その多くは運搬は不可能でもある。
よってこれらの蓄財を惜しむ者は暇をいただき浪人になるものも多数いたとされる。
遠野へ移転した家臣は、八戸氏一門一族、譜代の家臣、身軽な小身家臣達であったといわれ、どうやら遠野入部行列といわれるような大々的内容ではなかったらしい・・・最初に遠野城下に入った一行は、八戸直義含みの騎馬の家臣達で13騎といわれる。(寛永4年3月12日 未の下刻(午後4時頃))
徒歩で遠野入りした人々の多くは夜になってからといわれる。
遠野市史2・遠野南部家物語(吉田政吉)
機会がありましたら、遠野入りの際のルート検証等もしてみたいと考えておりますが、イベントは入部行列の再現といった内容でもありますが、あくまでも観光用としたものであると思いますので、史実がどうのこうのと言うものではありません。
皆さんが楽しめればそれで良しとしなければ・・・と思うのですが・・・?
・・・・ヘーンな言葉遣い!
実は、初めて見るものだったので、その音にビックリしました。
後半の酔いどれ・・・じゃなく宵ぶれ、楽しんでチョーダイませ。
へろほろ~、っとなって我が家へ帰還しておりました
さて、八戸はワタクシも不思議な縁を感じております。
自分自身だけでなく、周りの方々や会社関係などなど、また夫婦のご縁もありますね。
そして、最近読んだ例の本に「真田式部清鏡の霞場」においても糠部と遠野十二郷が入っていましたし
会えなかったら結構うろうろ歩き回っていたかもしれませんでした。有り難う御座います。
申し訳御座いませんが、リンクを張らさせて頂きました。
南部神社での郷土芸能共演会、いつも五葉山火縄銃鉄砲隊演武(伊達藩)が出演されるのですが、今年は参加されておりません・・・かなり残念に思ってます。
でっ・・・ぶれんどの宵・・・今回も楽しく過ごすことができましたよ。
次回、またよろしくお願いします。
夕んべはどうもでした。
南部美人、じっくり多能できました・・・笑
八戸と遠野、歴史でつながる地域同士ですが、八戸の地名がこちらでの苗字であったり、その歴史をひしひしと感じているのですが、イマイチ、その間柄が皆さんには実感がないようにも思えたりして・・・でも当方の身近でも八戸から嫁いできた人もいて、やはり何かの縁を感じます。
こちらこそ失礼いたしました。
良いポジションで撮影されたように思えますが、いかがでしたか?
リンクありがとうございます。
次回ぶれんどの宴含みましてよろしくお願いします。
遠野藩公ということで南部神社のお祭りとコラボすればもっと華がでるかもしれません(例
青葉祭り⇒神輿が海の上を渡るような渡御は圧巻です)。
今年の春は遠野へ行けませんでした。
残念です。
さて、「豊年祭」の旗を見て「あれ?」と思ったら、えんぶり組も行ってたんですね!!
えんぶり、遠野の皆さんの前で摺りを披露したんでしょうか?
なさげながんすども言語障害や意識障害の症状が・・・・ 歳はとりたぐねぇ~。
未だ地元にいながら入部行列見たこと無い。毎年のようにその時期用件が入るんです。でもこうやって早速画面で見られますので、感謝です。
一応、南部神社の例大祭に併せての遠野さくらまつりという意味があって、入部行列はそのうちのひとつだと思います。
こちらのイベントも10年以上経過ということで、さらにもうひと工夫が必要な時代へとなっているかもしれませんね。