角地山(かぐじやま)・・・「かぐずやま」と伝えられる山野には、館跡がある。
昭和59年、遠野における城館跡を調査されたお二人の郷土史家が調査報告書としてまとめられた資料に記述がされておりますが、「かぐじ」とは「角地」という文字に表されるかは不明とあり、全くの当て字にて表現したようでもあります。
今回、附馬牛町東禅寺大萩にあるという角地山館跡を探訪して参りました。

館跡山野中途から撮影・・・大萩地内
中央の杉山は大萩大館、隣の低い山は小館と思われます。
さて、お二人の調査内容からすると市内に「かぐじ」と呼ばれる地名の箇所が何箇所か存在するらしいが他に土淵町栃内のみで確認はしていない。
「かくじ」とは家の裏という意味があるらしいが、この大萩の場合、大萩大館と小館の館跡の存在が語られるも、この「かぐじ」に関しては、地名のみで誰も館跡の存在を知らなかったという。
まさか自分の家の裏山が館跡だったとは・・・そんな場面に遭遇したものと思われますが、この「かぐじ」と呼ばれる地名の場所には必ず館跡があるという、お二人の郷土史家の先生も今後の研究課題ということにしたようですが、その後、どうなったのかは不明でもあります。

大萩のかぐじ・・・・角地山館跡のある山野
大萩大館、小館の探訪と思い、大萩地区に来てはみたが、大萩大館らしき山野を遠巻きにみると難儀しそうな感じがして、思わずその気力が失せてしまったが正直なところでした。
しからば隣の小館か・・・と思うも、どうせなら二つまとめて探訪しないと意味がないということで、急遽、以前から気になっていた角地山に変更、その舘山探しが始まった。
資料には、熊野、権現、稲荷の三つの社があると記されている。確かに綾織方面に向かって右手の山野には権現社が、さらにかなり手前には赤い鳥居も見える。
熊野は何処か?、はっきり言って三つの社がまとまって鎮座しているものと思ったが、どうやら違う雰囲気、ここは長年の勘にて、常福院近くの山野に見える赤い鳥居側の山野から攻城を始める。
赤鳥居はお稲荷さん、まさにそのとおり、稲荷社の背後の山野に分け入り、比較的歩きやすい雑木林を進むと、凹凸の形状が見え始める。
う~ん、それらしい雰囲気はあるもイマイチ、少し斜面を登ると土塁と堀跡のような形状が飛び込んできた。
「おっ・・・ここだ」我ながら「ぴったしカンカン」に自画自賛、埋もれかけた堀跡、西側の峰を断ち切る堀切、土砂が少し堆積はしているが数段の帯郭、まさに館跡がそこに広がっておりました。


空堀跡
雰囲気からすると遺溝の残存度は低めながらもその形跡は十分確認できる範囲、戦国時代のものか?と言いたいところであるが、遺溝の感じからしてもう少し年代は古い時代か、いずれ「かくじ」の名と共にその事績は皆無、向いの大館と小館との関連は?古刹東禅寺との関わりは?各地に残される角地との関連は・・・・まさに謎、館そのものの構造と共に民俗宗教的な事柄、このことも踏まえて考察しなければならない典型といったこともいえる館跡かもしれません。
最後に、角地山館としているのは私のみです。地名が「かぐじ」ということで、資料には「かぐじ(角地)」としているに過ぎません、強いて言えば「かぐじの館」とでも申すべきかとは思いますが、あえて角地山館といたしました。
昭和59年、遠野における城館跡を調査されたお二人の郷土史家が調査報告書としてまとめられた資料に記述がされておりますが、「かぐじ」とは「角地」という文字に表されるかは不明とあり、全くの当て字にて表現したようでもあります。
今回、附馬牛町東禅寺大萩にあるという角地山館跡を探訪して参りました。

館跡山野中途から撮影・・・大萩地内
中央の杉山は大萩大館、隣の低い山は小館と思われます。
さて、お二人の調査内容からすると市内に「かぐじ」と呼ばれる地名の箇所が何箇所か存在するらしいが他に土淵町栃内のみで確認はしていない。
「かくじ」とは家の裏という意味があるらしいが、この大萩の場合、大萩大館と小館の館跡の存在が語られるも、この「かぐじ」に関しては、地名のみで誰も館跡の存在を知らなかったという。
まさか自分の家の裏山が館跡だったとは・・・そんな場面に遭遇したものと思われますが、この「かぐじ」と呼ばれる地名の場所には必ず館跡があるという、お二人の郷土史家の先生も今後の研究課題ということにしたようですが、その後、どうなったのかは不明でもあります。

大萩のかぐじ・・・・角地山館跡のある山野
大萩大館、小館の探訪と思い、大萩地区に来てはみたが、大萩大館らしき山野を遠巻きにみると難儀しそうな感じがして、思わずその気力が失せてしまったが正直なところでした。
しからば隣の小館か・・・と思うも、どうせなら二つまとめて探訪しないと意味がないということで、急遽、以前から気になっていた角地山に変更、その舘山探しが始まった。
資料には、熊野、権現、稲荷の三つの社があると記されている。確かに綾織方面に向かって右手の山野には権現社が、さらにかなり手前には赤い鳥居も見える。
熊野は何処か?、はっきり言って三つの社がまとまって鎮座しているものと思ったが、どうやら違う雰囲気、ここは長年の勘にて、常福院近くの山野に見える赤い鳥居側の山野から攻城を始める。
赤鳥居はお稲荷さん、まさにそのとおり、稲荷社の背後の山野に分け入り、比較的歩きやすい雑木林を進むと、凹凸の形状が見え始める。
う~ん、それらしい雰囲気はあるもイマイチ、少し斜面を登ると土塁と堀跡のような形状が飛び込んできた。
「おっ・・・ここだ」我ながら「ぴったしカンカン」に自画自賛、埋もれかけた堀跡、西側の峰を断ち切る堀切、土砂が少し堆積はしているが数段の帯郭、まさに館跡がそこに広がっておりました。


空堀跡
雰囲気からすると遺溝の残存度は低めながらもその形跡は十分確認できる範囲、戦国時代のものか?と言いたいところであるが、遺溝の感じからしてもう少し年代は古い時代か、いずれ「かくじ」の名と共にその事績は皆無、向いの大館と小館との関連は?古刹東禅寺との関わりは?各地に残される角地との関連は・・・・まさに謎、館そのものの構造と共に民俗宗教的な事柄、このことも踏まえて考察しなければならない典型といったこともいえる館跡かもしれません。
最後に、角地山館としているのは私のみです。地名が「かぐじ」ということで、資料には「かぐじ(角地)」としているに過ぎません、強いて言えば「かぐじの館」とでも申すべきかとは思いますが、あえて角地山館といたしました。
いや、城郭の「郭」も・・・・考えすぎか。
角城との繋がりも勝手に浮上(笑笑笑)
有効な時間の使い方に頭が下がります。
そろそろプーさんもお出ましになる季節。
ご注意を!
はいっ、そろそろブーさんも活発化してくる季節でもあります。
お心遣いありがとうございます。できるだけ気をつけたいと思います。
さて角地・・・家の裏の・・・ということでしょうが、角地は後から付けられた呼び名か?館そのものは結構古い年代かもしれません。
記憶が蘇りますた。「かぐず」そう裏のことですね~
玄関の反対側に台所があり裏手でしたので、そちらを
「かぐず」と呼んでいたっけ~懐かしい~(笑)
かくず、懐かしい響きを思い出されたようですね。
教えられたことはないですが、先生に前角地先生という方がおられましたが、かぐずの前かぐずは裏の前、なんか変・・笑
まず、直接見てみないと何ともいえませんが、大館と小館という関係の館は遠野では珍しい?というか、あまり聞かないような気がします。
ここはあまり山登りをしなくてもよさげな雰囲気ですが、どんなもんでしょうか?
台所の方なら「勝手口」 沢などの洗い場がある所なら かど・・・川戸
大萩のかぐず・・・大萩館の勝手口・・・な~んて、どーでしょー
明らかに中世城館であるのは間違いなく、駒木館と若干似た雰囲気と花館のミニ版といった感じがする館跡という印象です。
山野は比高の割には登りも少なく入りやすく歩きやすいです。
ここも遠野館巡りでの候補のひとつです。
大萩の大館、小館はまさに戦国時代といいますか、古刹東禅寺界隈から附馬牛へ入る交通の要衝に配置された館といっても過言はないものと考えてます。
また、大萩円源という館主の存在、剃髪した武将という印象もあり、東禅寺との関連が垣間見られる雰囲気です。
こちらの角地の方は、それ以前か、そんな印象も残る館跡でもあり、角地そのものは後から付けられた呼び名かと思われます。
いずれ謎には謎でして、解明にはお力を拝借という場面になりそうですので、よろしくお知恵をお貸し願えればと思います。