約1年ぶりの八戸・・・・、毎年2、3回は八戸を訪れておりますが、今年は今回が初、若干の歴史的な取材も兼ねてはおりますが、第1の目的は、八戸在のブロガー藤九郎さんとの懇親を深めること、このことに尽きる内容でもあります。
新花巻から「やまびこ」で盛岡へ、そして「はやて」に乗り換え、盛岡での乗り継ぎに30分ほどありましたが、盛岡~八戸は30分、遠野から約2時間で八戸の地に立っているという近さ、4百年ほど前、根城の八戸氏(遠野南部氏)が3泊4日かけて歩いて遠野入りしたことを考えれば、現代社会の時間がいかに早く流れているか・・・・・感じずにはいられない。
例によって缶酎ハイをプシュ・・として、30分の楽しみ、例のトランヴェールを読む・・・。

ほろ酔いになる手前、あっという間に八戸到着。

目の覚めるような爽やかな秋空の八戸・・・。
藤九郎さんのお迎えをいただき、まずは櫛引八幡宮へ・・・。

櫛引八幡では、新しく出来た宝物館を見学・・・。

流鏑馬が開催される馬場・・・。
遠野八幡宮での遠野南部流鏑馬の原点というべき場所、コースは暗く短いものの、どこか神聖な雰囲気が漂っている。

本日宿泊の八戸市街地のホテル前まで藤九郎さんに送られ、一旦解散。
チェックイン後、直ちにバスにて湊方面へひとり移動・・・。

以前ご案内いただいた銭湯にてサッパリと汗を流して徒歩で移動・・・例の場所へ・・・。

お食事のデパート「喜代志」・・・何時来ても、懐かしい雰囲気と共に賑やかでもある。

例によって、名物鳥唐揚・・・・

フライドチキンと言った方がよいと思いますが、この大きさで一人分4個が皿に乗せられてきます。
生ビールで乾杯後は、すっきりした飲み味の玉露割をいただく。

夕方5時半頃から飲み始め、午後9時少し前に街中へ移動・・・。

口直しに街中の居酒屋で軽く飲んで・・・・屋台村「みろく横丁」へ・・・。

元気な屋台村、金曜日ということもあって混雑しておりましたが、空きのある某店に滑り込んで、ここでも乾杯。

炉辺風のお店が今宵最後のお店となり午後11時半過ぎに解散。
ということで、夜の宴、さらに湯っこ、歴史等も無論堪能いたしました。
徐々にテーマに沿ってご紹介したいと思ってます。
おまけ・・・・・

たぶんといいますか、少し予想はしておりましたが、お着物姿で現れると思ってましたが・・・・・笑・・・やはり・・・・笑・・・藤九郎さん
以前から自分の着物を買うこと、着こなすことに憧れがあったそうで、八戸市内でのブロガー仲間で着物をこよなく愛する人達の集いのようなものがあって、その集まりといいますかオフ会にはじめて参加されたそうです。
機会あったらどんどん着物を着るぞ・・・と言っておられました。
確かにお似合いである・・・・。
どこかうらやましいと思った・・・・笑・・・ホント。
新花巻から「やまびこ」で盛岡へ、そして「はやて」に乗り換え、盛岡での乗り継ぎに30分ほどありましたが、盛岡~八戸は30分、遠野から約2時間で八戸の地に立っているという近さ、4百年ほど前、根城の八戸氏(遠野南部氏)が3泊4日かけて歩いて遠野入りしたことを考えれば、現代社会の時間がいかに早く流れているか・・・・・感じずにはいられない。
例によって缶酎ハイをプシュ・・として、30分の楽しみ、例のトランヴェールを読む・・・。

ほろ酔いになる手前、あっという間に八戸到着。

目の覚めるような爽やかな秋空の八戸・・・。
藤九郎さんのお迎えをいただき、まずは櫛引八幡宮へ・・・。

櫛引八幡では、新しく出来た宝物館を見学・・・。

流鏑馬が開催される馬場・・・。
遠野八幡宮での遠野南部流鏑馬の原点というべき場所、コースは暗く短いものの、どこか神聖な雰囲気が漂っている。

本日宿泊の八戸市街地のホテル前まで藤九郎さんに送られ、一旦解散。
チェックイン後、直ちにバスにて湊方面へひとり移動・・・。

以前ご案内いただいた銭湯にてサッパリと汗を流して徒歩で移動・・・例の場所へ・・・。

お食事のデパート「喜代志」・・・何時来ても、懐かしい雰囲気と共に賑やかでもある。

例によって、名物鳥唐揚・・・・

フライドチキンと言った方がよいと思いますが、この大きさで一人分4個が皿に乗せられてきます。
生ビールで乾杯後は、すっきりした飲み味の玉露割をいただく。

夕方5時半頃から飲み始め、午後9時少し前に街中へ移動・・・。

口直しに街中の居酒屋で軽く飲んで・・・・屋台村「みろく横丁」へ・・・。

元気な屋台村、金曜日ということもあって混雑しておりましたが、空きのある某店に滑り込んで、ここでも乾杯。

炉辺風のお店が今宵最後のお店となり午後11時半過ぎに解散。
ということで、夜の宴、さらに湯っこ、歴史等も無論堪能いたしました。
徐々にテーマに沿ってご紹介したいと思ってます。
おまけ・・・・・

たぶんといいますか、少し予想はしておりましたが、お着物姿で現れると思ってましたが・・・・・笑・・・やはり・・・・笑・・・藤九郎さん
以前から自分の着物を買うこと、着こなすことに憧れがあったそうで、八戸市内でのブロガー仲間で着物をこよなく愛する人達の集いのようなものがあって、その集まりといいますかオフ会にはじめて参加されたそうです。
機会あったらどんどん着物を着るぞ・・・と言っておられました。
確かにお似合いである・・・・。
どこかうらやましいと思った・・・・笑・・・ホント。
「そろそろ遠野に着いたかなあ・・・」と私が思ってた頃、とらねこさんはすでに遠野に着いた後。
新幹線は速いものです。
ついつい調子にのって着物で行ってしまいました。
浮くだろうなあ・・・とは思ってたんですが汗
それにしても1次会、2次会、3次会と飲むたびにエンジンがかかって久しぶりに楽しい時間を過ごすことができました。
いや~、ほんと楽しかったです。
今度は私が遠野へ行きますのでよろしくお願いします。
昼夜にわたってのご案内とご歓待、たいへんありがとうございました。
久しぶりに八戸を堪能できました。
次回は是非に遠野で・・・・お待ちしております。
和服姿、お似合いでした。
板に付いた和服姿でマッチしてましたよ、浮いていたのはむしろ私の方でした・・・笑
大江戸ではなく「八」戸っ(笑)。
ちょっと懐かしい~です。
八戸の繁華街の画像・・・駅前付近をウロウロして、飲み屋街で美味しい夕飯食べた記憶が蘇ります。
魚介類が新鮮なのは言うまでもなかったですが、お店の雰囲気がとてもよかったなぁ・・・
そういえば、あの時は城址も行ってみたんですよね。
全く理由もなく、ただ何となくでしたが。
和服を着こなされる藤九郎さんですかー
お顔ブレてますが、お似合いなのはよく分かりますよー。
さては某武蔵国のブログでの書き込み、見ましたね・・・汗・・・笑
八戸での城跡は、駅近くのですか?それとも博物館が近くにあるところかな?
八戸は落ち着いたいい街だと思います。
藤九郎さんの和服姿、けっこう似合ってました。
たま千代さんの和服姿も似合っているのではと想像しております。
いえ、きっとお似合いかと思います。
遠野でも和服の会でも作って天馬に繰り出しますか・・・・笑
携帯からです。
とらねこさん、遠野和服浴衣オフ、いいですなあ。
玉千代さん、ありがとうございまーす。
お会いしたことないんですが玉千代さんも着物、似合いそうです。
私と似てる?残さん、一度お会いしたいものですな。
藤九郎さんと似ているのですか?・・・・笑・・・。
残さんとはまだお会いしたことがございませんが、私含め3人でお会いすれば、きっと絵になると思いますよ・・・・笑
藤九郎さんをみて残さんと呼んだりして・・・汗
藤九郎さん
ということで、残さんはなんとなく親しみを感じる人物ではないでしょうか?・・・。
ちょうど師走の頃の遠野館跡めぐり、大槌の知られざる館跡も視野に入れましょうという提案をしておりますが、残さんのご案内で是非に機会がありましたら大槌町の館跡、探訪調査いたしましょう・・・。
あるようだが師行公の供養碑はあるもののでてこない。それから108人の討ち死にした部下。この姓名は伝わっているだろうか?伝わってるとすると初期南部家の家臣構造がわかるのではないだろうか。一寸ネット検索したら西沢某という新キャラを発見しました。
大阪阿倍野、そして堺・・・南部師行公の戦死の道を簡略ながら訪ねたことがございました。
阿倍野神社、堺の石津共に師行公は北畠顕家卿と共に顕彰されておりました。
師行公と共に戦死した108人の家臣・・・西沢・福士・小笠原・桜庭・・・・まさに後に南部家と関りある姓の人達でもありますが、家臣も居たでしょうが顕家卿の配下の方々も含まれていたものと推測されます。
いずれにしましても江戸期に書かれた内容でもあり、信憑性はどうかな?・・・・まっ、今後の研究課題となりそうですね。
昨年、住吉区から隣の阿倍野区に越して来ました。
さて、以前から三戸南部氏や九戸氏に付いて調べていました。
しかしながら南部氏の一族とされる九戸氏には疑問点も多く。
最近では、南部家と入魂の関係の武将では?と思っています。
それはさて置き・・・。
色々と知る内に南部家の主家は、根城南部氏のようだと思うようになりました。
と言うのも三戸南部氏の家系図は南部信直公時代に書き換えられたのではと思うのですね。
そう、九戸氏を潰す為に豊臣秀吉への援軍の要請の際に・・・・。
それに引き換え、根城南部氏は、南部師行公を祖としています。
しかも南北朝の少し前からなのですから、かなり由緒正しい家系です。
それに南朝側の優れた武将の浪岡北畠氏の指揮の下で戦っているのですから・・・。
ちなみに、つい2日ほど前、石津川の古戦場に行って来ました。
そして北畠氏と南部氏の供養塔に御参りしました。
陸と海からの挟み撃ちで、苦戦をしての戦死。
しかし死に様は勇壮で忠義と恩義のため、武士道を貫きとうした武将だと思います。
また後日、阿倍野神社に出向き東北の酒を酌み交わして来ます。