上京の折、以前から一度は訪ねてみたいと思うも、なかなか行き着けなかったところがあって、今回、ようやく訪ねることができました。
東京メトロ 地下鉄日比谷線「神谷町駅」まで・・・
場所については事前に下調べ済、それでも方向を少し間違えたりしながら、なんとかそれらしき場所へ辿り着く・・・・・・
ピルの合間の急傾斜というか裏通りのつづら折りの階段を延々と登ると・・・
愛宕神社
山上には・・・
都区内では珍しい自然地形の山、「愛宕山」・・・港区愛宕1丁目
標高は25.7mで三等三角点がある。
30度超の蒸し暑い中、山上に着いた頃は大汗びっしょり・・・
池があったので、しばし涼むことに・・・
鯉が沢山・・・!
人影に近づいて来る・・・!
ちょっとした波が起り少し引いてしまう・・・!
少し休んで神社を参拝・・・
そして・・・お目当ての・・・
石段を上から眺める・・・!
結構な傾斜・・・!
数人のサラリーマン風の若者のひとりが「傾斜角は45度はあるよね」みたいなことを言っていたけど、確かに凄い傾斜だけど45度はないだろう・・・と、つぶやくオヤジであった・・・
スキー愛好者や経験者、それも中級以上の腕前の人達ならわかると思いますが、スキー場での急斜面で45度といったら、ほとんど崖に近いみたいなところ、一般的にはゲレンデとしてのコースとしては適当ではないはず・・・?
30度もあれば結構な急斜面で35度ともなれば壁と呼ばれる上級者コースがほとんど、どんなに慣れていても滑りだすには一呼吸必要ですし、やはりかなりの急斜面ということになります。
ワタスが見た限りは35度~40度近いかな?
というところ・・・!
上から眺めただけではブログネタにもならない、折角来たのだから、下からも眺めて見ることに・・・!
この石段は有名なエピソードを伝える石段でもある。
その名も・・・「出世の石段」
男坂
江戸時代の寛永11年(1634)、徳川2代将軍の秀忠公の三回忌として増上寺参拝の帰り道、3代将軍、徳川家光公が愛宕山の山上に梅が咲いているのを見て、「梅の花を馬でとってくる者はいないか」と言ったところ、四国は讃岐の丸亀藩家臣である曲垣平九郎が見事、馬で石段を駆けあがって梅の枝を取って来ることに成功、以来、平九郎は馬術の名人と称賛され、全国にその名を轟かせたという逸話からきているとか・・・!
下から見ても結構な傾斜、とてもでもないが乗馬で石段を駆けあがるなんて不可能に近いのではないのか・・・ましてや、逆の下りの方はもっと難易度が高いのではないのか・・・と思ってしまいますが・・・
実は・・・!
曲垣平九郎の後の時代に・・・!
実際に成功した者、3名が存在しているという・・・!
まずは・・・明治時代に石川 清馬(宮城県)が成功。
2例目は・・・1925年(大正14年11月8日)に参謀本部馬丁の岩木利夫が愛馬の引退記念に石段登りに挑戦、この模様はラジオの東京放送で生中継されたとかで登りを1分で駆けあがり、下りは45分を要したとも云われますが、成功を収め、愛馬は陸軍騎兵学校の軍馬として使われる事になったとのこと。
さらに3例目は・・・1982年、日本テレビの特番でスタントマンの渡辺 隆馬氏が安全綱等を施した状態で32秒で登りきったとのこと・・・。
さてさて・・・
そこで愛宕山の石段と遠野との関係となりますが・・・
最初に成功した人物・・・「石川 清馬」との関係ということになります。
石川清馬は仙台藩の馬術師範をしていたが明治になって仙台藩が廃藩となった後は曲馬師に転じ、門弟等と共に全国での曲馬興行を展開させていた。
天保3年?(1838年)、現在の岩手県一関市、陸中薄衣村に
誕生し、幼少の頃から馬術の天才と云われるも、18歳の時、南部領遠野(岩手県遠野市)出身で盛岡藩馬術師範の四戸三平に師事することになる。
四戸三平は当時の馬術界では第一人者と云われ、門弟の数も7百人を数え、「遠野に過ぎたるもの二つ有、四戸軍馬に文武御宿」・・・と謳われ、そのひとつが四戸三平の抜きんでた馬術ということになります。
その四戸の弟子となっていた石川清馬は弟子の中でもトップクラスの腕前となり、心強流と一和流の免許皆伝を得て故郷に戻り仙台藩の馬術師範となったとされ、廃藩の後は曲馬界の草分けとして活躍し、当時の曲馬(馬のサーカス)の師匠達の大師匠が石川清馬と云われている。
石川の師匠である四戸三平もまた、口伝ではあるが幕末の文久年間に愛宕山の石段登りを成功させたとも云われてますが、下りの方は成功したとも失敗したとも語られていない。
その四戸三平の遺言として愛宕山の石段の上り下りをやり遂げるようにとの意を受けて明治15年6月6日(1882)、石川清馬は愛馬雲龍号で挑戦し、見事成功させている。
その石川清馬は・・・
(遠野郷八幡宮境内)
師匠である四戸三平の故郷、遠野の地に記念碑を建立している。
四戸三平先生記念碑
陸前國本吉郡唐桑村
門人石川清馬建之
当ブログでの過去エントリーに「四戸三平」「石川清馬」に関するエントリーもしておりますが、今回、訪ねた東京都港区の愛宕神社を訪ねたことから、改めてのエントリーということになります。
上から降りて折角だからと、その石段を登りましたが、さらに大汗を掻き、膝や腿がピキピキと鳴き出しましたが、もしかして大出世するかも?・・・
という微かな望みもあって・・・大汗・・・笑
まっ、クダラナイことはこれくらいにして・・・何事も「ヤンベ」が大切・・・!
今回は愛宕神社をようやく訪ねることができて良かったと思ってます。
境内は紫陽花が静かに咲いておりました。
唐桑方面、葵の紋も関連していたような?
薄学なワダスはこの程度です。(^^;)
流石です・・・!
石川清馬は石段の上下での成功で徳川慶喜の称賛を受けて葵の御門の使用を許されたとか?唐桑の石川家の家紋は葵とのお話も・・・(確認はしてません)
ブログ的には上京での目玉取材の位置付けでした・・・汗
次回は富士山と夜景の東京空木ですかね・・・汗
そうですか、方向が逆でした。
でも、NHK放送博物館には行ってきました。
その頃なら、スイスイと駆け上れたかと思います。
四戸氏縁の愛宕神社へ行くとは、予想もしていませんでした。
写真で見るとかなりきつい勾配、あっぱれ石川、そして、とらねこさん!
遠出の際のアルコールと歴史物、とらねこさんらしくていいです。笑
とにかく暑くて、そしてきつかったです。
反対側から登って表に下り、さらに上って下って・・・足腰に効きます。
東京タワーも近くにみえましたし増上寺も・・・雰囲気はまさに東京、そんな中のところでした。
遠出でのネタは本来は歴史探訪というかネタ探しが本来の姿でしたが今は撮り鉄、乗り鉄・・・メインさらに居酒屋・・・汗
でもここはいつか訪ねたいと前々から思ってましたので今回訪ねることができてよかったです。
素人考えではあの石段を馬で・・・ほんと考えられませんが、やった人もいること、凄いと思いました。
遠野縁の東京・・・探せば結構あるかもしれませんね。
まずは佐々木喜善が住んだ下宿が凸版印刷の本社敷地内?にあったとか?柳田國男の下宿が大妻女子大の敷地内?どちらも近年、遠野市で標柱だったか説明板を設置とのこと。
東京タワー下の金地院という寺院には南部家縁の人々の墓所がありますが、こちらもいつか参拝を兼ねて・・・・とか・・・いつか機会がありましたらですね。
世の中には、その道のプロという方々がそれぞれの分野で活躍していること、今回の石段に係るエピソードも素人目には不可能では・・・と思うもやはりやり遂げた方々がいること、世の中広いと思いました。