「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

中野と元祖角助

2017-11-26 15:47:30 | 歴史・民俗

 今月も最終週となり師走、年の瀬といよいよ12月も間もなくとなりますが、拙ブログでの今月のエントリーはこれがラストとなりそうです。

 

さて、先週に久々に地域の歴史、民俗分野の講座として地名や屋号といった内容を受講しましたが、これをきっかけについでという感じではありますが小生の住まいする地域に関することを勢いで少し調べてみました。

元祖角助の墓前にあるレリーフ

 

まずは角助の墓がある松崎町駒木字中野

現在の住所表記には無い地名(小字)中野

松崎町駒木7地割内を指しているが我家も7地割で中野の一部とされ、福泉寺本堂下から県道沿いを海上集落に進み共同墓地のある辺りまでが中野と云われているようですが、明治初年頃まで中野という集落が実際にあったと伝えられている。

集落は角助の墓がある一帯とされている。

福泉寺五重塔が間近にみえる拓けた場所

今は田んぼをはじめ畑等の農地となっているが、かつては10数件の家々があったことを彷彿させる雰囲気が感じられる。

集落内で火災が重なり、人々は現在の海上集落の方へ移り住み、いつしか1軒も家が無くなったとされる。

 

この中野の一角に駒木鹿子踊りでの創始者と云われる角助の墓が存在している。

 

 

 

遠野遺産に指定されたことにより伝統芸能としての位置付けである駒木鹿子踊りそのものの伝承のみならず創始者といわれる元祖角助の墓所の環境も整備されている。

こちらでの説明は駒木鹿子踊りで伝えられている創始について記されているが大きく二つの説が語られている。

「駒木村の覚助と云者、熊野参詣の登り候時、京都の町辻にて獅子踊有て・・・其の踊を習い、国元へ帰り村の若者共に教え、・・・」とあり、これは江戸期の宝暦12年(1762)完成した「遠野古事記(宇夫方広隆 著)」に記されている。

このことから遠野古事記が記された1762年以前から遠野ではしし踊りが踊られていたということになる。

 

そしてレリーフの内容、さらに駒木で伝承されている内容としては・・・

上閉伊郡志(大正11年(1925))には、「嘗て(かつて)駒木村の一農夫、遠江国掛川(現静岡県掛川市)に於て鹿踊りの興行を見、之を覚えて遠野に伝ふ故に掛川踊と称すると。」

上閉伊郡志の出典は何なのかは不明ではあるが、地元に伝えられる巻物「駒木鹿子踊濫觴(こまぎししおどりらんしょう)」では京都から「角助」が習い覚えてきたと伝えられている。

遠野古事記での覚助、地元での角助、名は同じですが「かく」の字が違う。

なお、先人郷土史家の調べによる駒木村の覚助は宝暦6年(1757)3月28日に没した人と角助、安永3年(1775年7月18日没)の二人(字はそれぞれ違う)が菩提寺とされる西教寺の過去帳に記されているといいますが、どちらが伝えたものかは不明である。

墓石には没年月日は刻まれているのか?何度か写真を撮りに行ったりしているけど、そういえば詳しくは調べたことがなかった。(家からは500m程しか離れてませんがね・・・(;^_^A)

通称「元角(がんかく)」と呼ばれるしし頭

駒木鹿子踊りを象徴する違え鎌と遠野南部家の裏紋である九曜紋が入ったしし頭

 

幕には掛川と角助の文字が入ってます。

縦に向かって左から(遠州掛川・九曜紋・元祖角助)

 

さらなる調べ、検証についてはまたいつか?ですね

(;^_^A

 

 

ところで・・・

この日の朝は雪が少し積り後に雨も少し降ってましたが・・・

煙ではありませんよ。

白い靄みたいな?

 

2メートル四方くらいかな?

10秒程度で消え去りました・・・

(◎_◎;)

 

やはり、かつて人々が暮らした集落があった場所柄からなのか?

墓地が傍にあるからなのか?

・・・・・・

単なる靄でしょう・・・

そう思うことにします。

 

コメント (4)
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