「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

臼館と菊池成景(菊池一族)

2007-12-05 20:41:44 | 歴史・民俗
 本日も館跡探訪に出遅れてしまった。
 しかも、雪模様でどうしようかと迷ったが、お昼過ぎに時折陽も差す雰囲気もあって2時間勝負として青笹町中妻の臼館(丑館)の再訪をいたしました。

 今回で3度目の探訪、今回は縄張図をなんとしても描きたいと考え、普段よりは重装備で望み、地形図にトレーシングペーパーを止めた版、レーザー距離測定器、コンパス、そしてなんといっても買ったばかりのヘルメット・・・笑・・・カメラは脇差的ではありますがコンデジとして、寒いので厚着をして準備万全で出かけて参りました。


臼館跡がある山野



 山野に突入すると雪と風が激しくなってきた。
 図面を描くも雪で濡れてペーパーが破けそうになる、ペンも湿気で走らない、しかも館跡を見る目が肥えたのか、以前より遺構が大きく立派に見える、あれは、これは・・・・方々を見ているうちに地形含み複雑に見えてくるから不思議である。

 結局、図面は半分も描けず、山野を駆け回っているが身体も全く温まらず、かなり身体も冷えて本日の探訪調査は断念となりました。

 空掘跡


 例の資料によるともう一本の空掘が存在するようだっ、確認は次回となりそうです。


 帯郭

 東側の杉林斜面の帯郭・・・上からのぞく限りは3段程確認できる。
 前回見落とした遺構のひとつ・・・。


 例の資料には、塚の存在が記述されている。
 過去2度の探訪調査で、中央部分のこんもりとした平場をひとつの郭としてみていたが、どうやらそのこんもりとした平場が塚のようだっ・・・。

 塚跡?



 いずれ、今回の探訪で臼館は遠野でも結構大きい部類の館跡で、しかも防御施設としての館としてはよく吟味された造りであると改めて感じたところです。
 また、遺構のひとつひとつもよく残され、見易い館跡でもあります。
 一部、鉄塔等が立てられ山野が削られたり、破壊された部分も確認できますが、それでも全体としては良好でもあり、じっくり探訪して調べてみたい館跡でもあります。



 さて、臼館の館主は菊池成景と伝えられている。
 活躍した時代は阿曾沼時代ということになりそうですが、その詳細は不明でもあります。

 遠野市史には臼館は松崎の横田城、綾織の谷地館と相呼応し、気仙方面への通路である浜峠を監視する重要拠点の館であり、菊池成景が館主となった頃は、その権威が増し、上郷方面の開拓、開発の進展と共に板沢方面へ勢力浸透を図ったかの見解が示されている。

 しかし、臼館ほどの館が存在するにも関らず、菊池成景含み館の興亡史は皆無に近い状況である。

 私は同じ青笹町に存在する花館を探訪調査しておりますが、この花館と臼館に関る伝承に注目しております。

 遠野物語拾遺には両館の戦いが記載されていたり、地域の伝承にも少ないながらも、その争い等が語られている。

 両者に青笹糠前辺りの争奪戦があったのではないのか、妄想的ながらもそんな思いが継続中でもあります。


 5年前になりますか、当時小学生だった長男の冬休み研究で遠野の菊池姓調べなるものを実施したことがあります。
 息子は電話帳(旧宮守村含)で私は住宅地図等で調べましたが、ほぼ二者の数値は合致しておりました。
 遠野市の菊池姓のお宅、約2千件弱と記憶しているが、上郷町、青笹町、小友町が世帯の割合から菊池姓が断然多く、上郷町では板沢、平倉、青笹町は糠前(善応寺、沢田)が多いという結果でもありました。

 また土淵町も多いのでは思ってましたが、これが案外少なくて、菊池姓が多い地域は飯豊地区であったこと、松崎町においては、白岩地区は人口、世帯共に多い地域でかつ近年に他地域から移り住んだ方々が多いという理由で除外すると、駒木地区が多く中でも海上集落が割合からして多い地域でもありました。

 これは何を意味するものなのか、無論明治の新姓にて菊池姓を何かの要因でこぞって名乗ったとも考えられますし、宗教的か何かの民俗的な理由もチラホラ・・・

 ここで歴史的なことで説明すると・・・
 上郷町は板沢氏、平倉氏 切掛氏、平野原氏、内城氏が本姓を菊池と称し、阿曾沼時代にその名を留めている。

 駒木では駒木氏(駒木豊前広道)が本姓を菊池と称し、海上の八幡館に居たこと。

 小友では平清水氏、新谷氏、奥友氏が菊池姓である。

 これは何を物語っているのか?上記の館主達の多くは南部家統治の江戸時代に遠野を去っているが、今もなお、その痕跡を示すような事柄ではないでしょうか?


 青笹の糠前や土淵の飯豊については、花館との関わりが強かったのではないのか、花館の館主もまた菊池氏縁の一族ではなかったのか、一説には花館の主は宮沢左近とも伝えられ、記憶が曖昧ながら菊池成景の直系子孫は後に宮沢姓を名乗ったとか・・・・どちらが先かは分らないが、花館と臼館は実は同族であったものか、これもまた妄想的発想で確かな根拠はないのですが、いずれ菊池一族と何かしら関わりがありそうな・・・・?

 ちなみに遠野への菊池一族の流入は、葛西領江刺氏の内訌、豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏等の没落での天正年間末期という考えが一番強いものでもありますが、いきなり江刺や気仙からの流れてきた菊池一族が上郷や小友に阿曾沼主家によって統治を任されたというのもどこか納得がいかない場面でもあり、以前から何かしらその土地や人物と関わりがあったからこそ、或いは産金、産鉄に関ることなのか・・・・いずれこんなことを考えております。

 もう5年以上も取り組んでいる菊池姓研究、全く以って進展しておりませんが、これもまたひとつの懸案事項として今後も取り組んで行きたい思っております。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする