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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

阿曾沼歴代墓所と鉦塚

2007-05-07 18:22:09 | 歴史・民俗
 鉦塚(かねつか)・・・・
 
 松崎村大字光興寺金ヶ沢に大きな塚あり、この塚を「かねづか」と云う・・・。
 
 遠野市松崎町光興寺金ヶ沢、現阿曾沼公歴代碑が建てられている場所に大きな塚があり、由来は不明とされている。


 阿曾沼公歴代碑広場のしだれ桜・・・葉桜間近といったところでした。



 古刹養安寺があった山野・・・松崎町上松崎

 さて、遠野阿曾沼氏の墓所は、白鳳山養安寺といわれる浄土宗の寺院にあったと伝えられ、この養安寺は正治元年(1199)氷上房養安古徳により開山されたとも、法為上人の高足、金光上人によるものとも伝えられ、他に善明寺(大工町)年表には承安2年(1171)草創とあり、いずれもかなり古い寺院であったと推測されます。

 この養安寺には五輪塔があったといわれ、阿曾沼氏の墓石ともいわれており、養安寺は阿曾沼氏菩提所となり得る存在であることになります。


 ところが、鉦塚とよばれる場所に、風化激しく文字が確認出来ない石碑があり、さらに墓碑らしき石が発見されたことにより、中世遠野領主であった阿曾沼氏歴代の墳墓ではないのか、さらにそのような伝承もあったということで、昭和27年、阿曾沼氏御子孫、縁の方々、さらに郷土史家、地元民、その他の協力を得て、阿曾沼公歴代碑が建立されたようです。


 どちらが阿曾沼氏縁の墓所か?・・・・

 上松崎の養安寺は伝えによると大寺院であったといわれますが、隣接山野には松崎氏の居館、松崎館があり、寺、館共に使用年代が重なっていた史実が垣間見え、こちらにあったといわれる五輪塔は松崎氏のものではないのか?

 逆に鉦塚、一部考察によれば、念仏行者と呼ばれし者が鉦を打ちながら諸国遊行の折、この地に住まいしたとも伝えられ、さらに江戸時代になり鉦打派に属する宗派とされる常福寺が光興寺村に一時期入っていたとされる伝承もあり、これらは鉦打の遺跡ともいわれます。




 明治30年代、当時を代表する史家、宇夫方文吾氏、鈴木吉十郎氏の両名は、前沢(奥州市前沢区)の阿曾沼軍治氏を訪ねたという。
 
 軍治氏は旧伊達家家臣、三沢家の家臣で阿曾沼広長(遠野孫三郎)の直系子孫。

 この時、前沢阿曾沼家に伝えられる古文書を研究、広長以降の歴代の事績が遠野でも明らかになったといわれますが、明治維新前に軍治氏は遠野を訪れ、先祖累代の墓所と伝えられる鉦塚を参拝し、その時、紛れもなく先祖累代の墓所に相違なしと言明したとも語られます。

 
 いずれにしましても、阿曾沼公歴代碑は建立され、その場所は旧横田城の近く、現代も遠野、松崎方面を遠方できる環境にあり、さらに地元の皆様によって季節毎の草花に彩られ、歴代公は静かに眠っているものと思います。

 
コメント (17)
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