JA6VQA 日々新たに

趣味のアマチュア無線で海外との交信や写真などを中心に、日々感じることを書き綴ってみます。
 

ブロード・ファイアーとエンド・ファイアー

2012-06-17 19:31:15 | 無線
アンテナ工学の本に昔戦艦の大砲の配置の仕方で艦の
前後方向に配置することをエンドファイアー、横方向
に配置することをブロードファイアーを言っていた事
から、アンテナの指向性を称するようになったと書い
てありました。

 先日大分の歴史を語る上で重要な家系大友家の顕正
をする会で、大友宗麟が作った大砲がロシアのサンク
トペテルブルク国立軍事史博物館に収蔵されているこ
とがわかり、現物を見に行った臼杵市の歴史学芸員の
話を聞きました。
 この大砲は青銅製で全長2.64m、口径8cmで
砲身に「FRCO」の印象が刻まれております。この印象
は大友宗麟の洗礼名「ドン・フランシスコ」を図案化
したものです。1576年に宗麟がポルトガルから
大砲を日本で始めて輸入し、2年後に豊後領内で大砲
を鋳造したものの1つと思われます。当時は石火矢
(いしひや)と呼ばれ、その破壊力から「国崩」の
異名を取った大砲です。
 なぜこの大砲がロシアに渡ったのかは、推察するし
かないそうですが、大友義統が朝鮮での戦いの際持ち
込んだ大砲秀吉のいる大阪城に運ばれ、大阪夏の
陣を経て家康に接収され、その後200年を経た江戸
時代後期の文化1年(1804)長崎に来たロシア使節の
レザロフがを通商を求めたが、鎖国政策を取る徳川幕府
は応じず、レザロフは部下に命じて、日本の北方領土
を襲撃させました。
 北方の防衛力強化を迫られた幕府は、全国から集め
た武器を北方に運ぶ途中ロシア艦隊に襲撃され、武器
を奪われた時にロシアに持ち去られたと想像されると
いうことです。
 この砲の青銅の成分を調べたら、中国から出ている
青銅の成分と似ているとことですが、豊後の国には
江戸時代以前の寺院の梵鐘が全く見つかっていない上
に、当時の梵鐘は中国からの青銅が使われていたよう
で、寺院の梵鐘をかき集めて豊後で大砲を作ったらし
いという。
 この大砲は、後ろ詰の大砲です。大砲には前詰の
大砲と後ろ詰の大砲がありますが、江戸時代以前の
国産の大砲は全て後ろ詰めの大砲で、火薬に点火し
て生ずるガスが後方に抜けるため射程が精々500m
ちょっとだったらしいです。
 1600年豊後の国に漂流したオランダ船リーフデ
号には最新式の前詰砲が沢山積まれており、江戸表に
運ばれたそうで、関ヶ原の戦いの時はリーフデ号の
船員に操作させたそうです。この前詰砲は後ろに
爆発ガスが抜けることがないため1500mも射程が
あったということです。
 当時のバチカンの方針で、この前詰砲を長い間東洋
には教えなかったようで、これを知った家康はこれに
怒り、キリスト教を再び禁止したと講義してくれた 
先生は語っておりました。


 
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