哀歌 1:1-2
「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。 これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。」
今日から哀歌を通読します。哀歌はエレミヤ書の続編ともいうべき書物で、バビロンによって徹底的に滅ぼし尽くされたエルサレムの惨状を目の当たりにしたエレミヤの悲しみ、心を砕いて祈る姿勢を記した書物です。エレミヤはエルサレムの過去の姿を思い起こし、あのダビデとソロモンの時代には諸国の羨望のまなざしを受けていた栄光の姿と見比べて、誰からも慰められないエルサレムの孤独な姿を嘆いています。私たちの人生の中でも、人々から見捨てられ誰からも愛されないと感じるような孤独と絶望を味わうときがあります。そのとき過去の栄光を思い出すだけにとどまらず、なぜこのようになったかを深く考え、悔い改めることが必要です。
http://bible.com/81/lam.1.1-2.ja1955
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哀歌 1:8-9
エルサレムは、はなはだしく罪を犯したので、汚れたものとなった。これを尊んだ者も皆その裸を見たので、これを卑しめる。これもまたみずから嘆き、顔をそむける。 その汚れはその衣のすそにあり、これはその終りを思わなかった。それゆえ、これは驚くばかりに落ちぶれ、これを慰める者はひとりもない。「主よ、わが悩みを顧みてください、敵は勝ち誇っていますから」。
神様が永遠にその御名を置くと言われた聖なる都エルサレムが、異教の民バビロンによって滅ぼし尽くされ廃墟と化した原因について、エレミヤは「はなはだしく罪を犯したので、汚れた者となった」と振り返ります。エレミヤをはじめ多くの預言者たちが罪を離れるように警告したにもかかわらず、ユダとエルサレムの人々はこのような裁きのときを想像だにせずに偶像礼拝をやめず、神の宮の中に偶像の神々を安置して神殿を汚れたものとしたために、神様はその聖なる御名にかけてエルサレムを聖絶されたのです。罪を犯せば裁きが下ることは自明のことですが、主を軽んじる者はそのことを自分のこととして受け止められていないために罪を犯し続けて、気がついたときには時すでに遅し、滅びの日を迎えることとなります。私たちはそのような愚かな真似をしてはなりません。
http://bible.com/81/lam.1.8-9.ja1955
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哀歌 1:20-22
「主よ、顧みてください、わたしは悩み、わがはらわたはわきかえり、わが心臓はわたしの内に転倒しています。わたしは、はなはだしくそむいたからです。外にはつるぎがあって、わが子を奪い、家の内には死のようなものがある。 わたしがどんなに嘆くかを聞いてください。わたしを慰める者はひとりもなく、敵はみなわたしの悩みを聞いて、あなたがこれをなされたのを喜んだ。あなたがさきに告げ知らせたその日をきたらせ、彼らをも、わたしのようにしてください。 彼らの悪をことごとくあなたの前にあらわし、さきにわがもろもろのとがのために、わたしに行われたように、彼らにも行ってください。わが嘆きは多く、わが心は弱りはてているからです」。
余りにも深く激しい悲しみに陥るとき、腹の中ではらわたが転げ回り、心臓が激しく鼓動するような苦しみを伴います。廃墟と化したエルサレムを目の当たりにしたエレミヤはまさにそのような気持ちで自分の悲しみとし、この惨劇の原因を「わたしは、はなはだしくそむいたからです」と、自分の罪として受け止めました。そしてエルサレムの悲劇を他人事のように受け止め、あざ笑った隣国たちに対し、イスラエルに下した罰と同様に彼らにも報いてくださいと祈りました。「人の振り見てわが振り直せ」との諺の如く、私たちは周囲の人々や過去の失敗から賢く学び、自分にも同じ罪はないかと自分のこととして受け止め、悔い改めなければなりません。
http://bible.com/81/lam.1.20-22.ja1955
「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。 これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。」
今日から哀歌を通読します。哀歌はエレミヤ書の続編ともいうべき書物で、バビロンによって徹底的に滅ぼし尽くされたエルサレムの惨状を目の当たりにしたエレミヤの悲しみ、心を砕いて祈る姿勢を記した書物です。エレミヤはエルサレムの過去の姿を思い起こし、あのダビデとソロモンの時代には諸国の羨望のまなざしを受けていた栄光の姿と見比べて、誰からも慰められないエルサレムの孤独な姿を嘆いています。私たちの人生の中でも、人々から見捨てられ誰からも愛されないと感じるような孤独と絶望を味わうときがあります。そのとき過去の栄光を思い出すだけにとどまらず、なぜこのようになったかを深く考え、悔い改めることが必要です。
http://bible.com/81/lam.1.1-2.ja1955
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哀歌 1:8-9
エルサレムは、はなはだしく罪を犯したので、汚れたものとなった。これを尊んだ者も皆その裸を見たので、これを卑しめる。これもまたみずから嘆き、顔をそむける。 その汚れはその衣のすそにあり、これはその終りを思わなかった。それゆえ、これは驚くばかりに落ちぶれ、これを慰める者はひとりもない。「主よ、わが悩みを顧みてください、敵は勝ち誇っていますから」。
神様が永遠にその御名を置くと言われた聖なる都エルサレムが、異教の民バビロンによって滅ぼし尽くされ廃墟と化した原因について、エレミヤは「はなはだしく罪を犯したので、汚れた者となった」と振り返ります。エレミヤをはじめ多くの預言者たちが罪を離れるように警告したにもかかわらず、ユダとエルサレムの人々はこのような裁きのときを想像だにせずに偶像礼拝をやめず、神の宮の中に偶像の神々を安置して神殿を汚れたものとしたために、神様はその聖なる御名にかけてエルサレムを聖絶されたのです。罪を犯せば裁きが下ることは自明のことですが、主を軽んじる者はそのことを自分のこととして受け止められていないために罪を犯し続けて、気がついたときには時すでに遅し、滅びの日を迎えることとなります。私たちはそのような愚かな真似をしてはなりません。
http://bible.com/81/lam.1.8-9.ja1955
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哀歌 1:20-22
「主よ、顧みてください、わたしは悩み、わがはらわたはわきかえり、わが心臓はわたしの内に転倒しています。わたしは、はなはだしくそむいたからです。外にはつるぎがあって、わが子を奪い、家の内には死のようなものがある。 わたしがどんなに嘆くかを聞いてください。わたしを慰める者はひとりもなく、敵はみなわたしの悩みを聞いて、あなたがこれをなされたのを喜んだ。あなたがさきに告げ知らせたその日をきたらせ、彼らをも、わたしのようにしてください。 彼らの悪をことごとくあなたの前にあらわし、さきにわがもろもろのとがのために、わたしに行われたように、彼らにも行ってください。わが嘆きは多く、わが心は弱りはてているからです」。
余りにも深く激しい悲しみに陥るとき、腹の中ではらわたが転げ回り、心臓が激しく鼓動するような苦しみを伴います。廃墟と化したエルサレムを目の当たりにしたエレミヤはまさにそのような気持ちで自分の悲しみとし、この惨劇の原因を「わたしは、はなはだしくそむいたからです」と、自分の罪として受け止めました。そしてエルサレムの悲劇を他人事のように受け止め、あざ笑った隣国たちに対し、イスラエルに下した罰と同様に彼らにも報いてくださいと祈りました。「人の振り見てわが振り直せ」との諺の如く、私たちは周囲の人々や過去の失敗から賢く学び、自分にも同じ罪はないかと自分のこととして受け止め、悔い改めなければなりません。
http://bible.com/81/lam.1.20-22.ja1955