ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2013.8.3 黄金とトキめきの島、満喫の旅~夏休み2日目

2013-08-03 22:26:31 | 
 昨夜の夜更しもなんのその・・・とはいかず、寝不足に弱い私はかなりヨレヨレ。2人は日付が変わった1時には大いびきだったが、私は3時まで眠れず仕舞い。焦りながら睡眠時間は3時間を切ってしまった。
 こうして旅行2日目、今日もめげずに恒例の足湯をした後、朝のバイキングに1番乗りし、しっかりロキソニンを飲んで、ホテルから徒歩10分の港から時速80キロのジェットホイル「ぎんが号」に乗り込み、海上を飛ぶが如く1時間。

 ウトウトする間もなく、あっという間に両津港に到着する。東京都区内の1.5倍の広さだというこの島の人口は6万人。お薦めスポットをくまなく巡るツアーバスは、夏休みの土曜日ということで3号車まで出ているが、その1号車、一番後部の座席を指定される。
 県内はいまだ梅雨明けしていないというが、いまいちの雲行きの中、まずはいろは坂も真っ青なほど曲がりくねった大佐渡スカイラインを行く。島内の最高峰、金北山の頂上は残念ながら雲に隠れている。お天気が良ければ平野や真野湾までがはっきり見えるというが・・・。途中、白雲台の展望台ではあいにくの霧雨。今日はこれからどうなることかと思ったが、見事な野生の山百合の群生を見ながら山道を下り、江戸幕府300年の財政を支えた佐渡金山・宗太夫坑へ向かう。
 バスの車窓から、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈のひとつ「道遊脈」の露頭掘跡、国指定史跡である「道遊の割戸」を見上げると、山頂を真っ二つになるまで断ち割った採掘跡は、金に対する人々の強欲さを物語り、圧倒される。通行手形を頂き、坑内に入る。400年の歴史と江戸時代の驚異的な生産技術が忠実に再現されている坑内は、一年中10度という天然クーラーで、震えるほどだ。2日も掘れば使い物にならなくなったという道具、数年で皆、結核に倒れたというその劣悪な職場環境に溜息が漏れる。

 続いて、エールフランスのファーストクラスに採用されているという日本酒「真野鶴」蔵元の酒造見学後は、佐渡ゆかりの事物に出会える面白ミュージアム「歴史伝説館」内の割烹で、海鮮丼のランチに舌鼓。寝不足のせいか、頭痛が酷くなり、再びロキソニンの助けを借りる。
 館内のショップでは、あの曽我ひとみさんのご主人ジェンキンスさんが、お土産販売のお手伝いをしておられる。ここでしか買えない「太鼓番」というお煎餅を買い求め、家族揃ってツーショットをさせて頂く。売上の2%は拉致被害者の運動に役立てられるという。
 
 昼食後、瞼が重くなる暇もなく、今度は県随一の妙宣寺・五重塔へ。30年かけて親子二代で建てたという五重塔が、高い木々の林の中、茅葺の門とシックにマッチしてとても落ち着いた雰囲気。風も爽やかで心洗われる思いだ。庫裏にあった赤松の大黒柱の15m以上の真っ直ぐさに驚く。我が家の大黒柱である夫もここでツーショット。
 そして、最後の訪問先は「トキの森公園」だ。日本人として是非一度実際に見てみたいと思っていた朱鷺。ご存知のとおり、ニッポニアニッポンという学名を持つペリカン目トキ科の一属一種に分類される鳥。体の白、顔と脚の赤、そして羽のオレンジがかったピンク色こそ美しい「朱鷺色」だ。かつて日本では、1羽を残し絶滅したといわれたが、現在、野生のものと飼育されているもので300羽を数えるという。併設されているトキふれあいプラザは3月末にオープンしたばかり。自然に近い生育環境で間近に観察できるというのが売りだ。ケージ内で休息する朱鷺や、(デリケートな朱鷺からは見えない)観察窓から大好物のドジョウを採餌する姿をごくごく近くに見ることが出来て、もう大満足だった。
 旅の出発時にゲットしたスタンプラリーも息子とともにコンプリートして応募してきた。どうもスタンプラリーと名のつくものに一旦手を染めると、コンプリートせずにはいられない困った性格である。

 バスツアーでは、原則復路はカーフェリーで2時間半かけて戻ることになっていたが、ジェットフォイルの空席があったため、チケットを買い替えて「すいせい号」で戻ってくることが出来た。20分早く出発したカーフェリーを僅か15分で追い抜き、1時間早く戻ってこられて得した気分だ。さすがに疲労困憊して、せっかくの二階席でちょっとうとうと。帰りには山の上の雲も切れ、青空が顔をのぞかせていた。
 みっちり満喫の佐渡一日旅、次回はたらい舟にも挑戦してみたい、と思う単純な私である。いつのことやら、ではあるが・・・。

 ホテルに戻って、26階の客室からの美しい日の入りを愉しみながら態勢を立て直す。ホテルシャトルバスに乗って駅前まで夕食を摂りに出かけた。息子が見つけたイタリアンのお店は、県内の契約農家が育てた有機野菜をふんだんに使ったサラダやパスタ、ピザがどれもこれも美味。野菜の味が濃くて甘い。そして仕上げは別腹、同じく野菜をたっぷり使ったケーキやプリンを頂き、幸せな気持ちでお店を出ることが出来た。

 そして気づけば、長かった一日も終わろうとしている。あっという間に明日は夏休み最終日、帰京する日である。
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2013.8.2 日本一の花火に酔いしれる~夏休み初日

2013-08-03 00:41:05 | 
 このブログを読んでくださっている患者会のYさんのご厚意で、日本最大の長岡花火大会を見物する機会を得た。
 いつもより遅めに家を出て、新幹線で昼過ぎに現地到着予定だったが、あいにく朝の停電事故。家を出る時には30分の遅延ということだったが、実際は1時間遅れ。長岡に到着した時には既に昼食の時間には大幅に過ぎてしまった。
 駅を降り立つや否や、街全体が浮き立っている雰囲気を体中で感じる。メインストリートでは、昼間のお祭り行事が既に始まり、賑わっている。音楽隊のパレードやダンス、和太鼓のステージがあり、凄い人出だ。花火見物の時に着替えるから、と息子が早速花火模様のTシャツを購入。私も綺麗な切手シート等に手が伸びる。
 そして、息子が「秘密のケンミンSHOW」で見たという、夏限定の名物レーメンの行列に加わる。ひたすら待つこと1時間。まるでおやつのような時間に、遅い昼食を摂ってようやく人心地つく。
 その後、長岡震災資料館を見学する。288名もの遺影を拝見し、胸が詰まる。今日は68年前、私の住む市で空襲があった日でもある。1日早かったこの地の空襲に何やら不思議なご縁を感じる。
 夕方、駅までお迎えに来て頂いたYさんとご対面。ラインでお写真を拝見していたので、すぐにわかる。ご自宅で早めの夕食をご馳走になって、皆でゆるゆると会場へ向かう。息子は実に人見知りもせず、私たち夫婦の前とは別の顔で楽しそうにいろいろお喋りする。

 それにしても、こんな大きな花火を見たのはどのくらい振りだろう。間違いなくこれまで生きてきた中で一番沢山の花火を見たに違いない。
 毎年華やかに繰り広げられるこのお祭りの起源は、ここ長岡の歴史に刻み込まれた、最も痛ましい夏の日に発しているという。昭和20年8月1日の夜、B29が来襲し、市街地を爆撃。旧市街地の8割が焼け野原と変貌し、燃え盛る炎の中に1,484名の尊い命が失われたのだという。見渡す限り悪夢のような惨状、言い尽くしがたい悲しみと憤りに打ち震える人々。その空襲から1年後の21年8月1日に開催されたのが、長岡まつりの前身である「長岡復興祭」なのだと。そして、お祭りの前夜、空襲の始まった時刻(8月1日午後10時30分)にあわせて「慰霊の花火」が打ち上げられるそうだ。

 今日は大花火大会1日目を特等席の2階桟敷席で贅沢な見物だ。
 全国各地からの「メッセージ花火」に続いて、空襲で亡くなられた方々への慰霊の念と平和への祈りを込めて「慰霊と平和への祈りの花火」が打ち上げられる。いよいよ2,3分毎に合計37ステージの花火が始まった。ナイアガラ、超大型スターマイン・長岡の大花火を皮切りに、音楽に乗って色とりどりの光がどんどん流れ込み、降り注いでくるようで、思わず身を引いてしまう。
 中盤、ジュピターの歌に乗せた復興祈願花火「フェニックス」がそれは見事だった。これは企業の提供ではなく、市民の方々の寄付により打ち上げられているものだそう。気づけばあまりの美しさに何やら涙ぐんでいた。光の後、2秒遅れの音がお腹にドーンと響く。今、ここで間違いなく生きているのだ、と思わされる。正三尺玉の大きさに圧倒され、百俵花火・尺玉100連発に目を見張り、最後には花火師6名による「匠の花火」で幕を閉じた。あっという間の2時間。音と光の饗宴に酔いしれた。

 終了後、駅までひたすら大混雑の大行進に加わる。Yさんご夫妻とは途中でお別れ。駅では当然のごとく入場制限が行われ、先ほどまでの夢見心地からいきなり厳しい現実に引き戻された気分。小一時間してようやく臨時新幹線に乗り込み、2階の階段に不自然な恰好で立ったまま移動して、隣町のホテルにチェックイン出来たのは日付が変わりそうな時間となった。

 Yさんご夫妻、このたびはこんな素敵な夏休みのプレゼントを頂き、ずうずうしくも家族揃ってお世話になりました。忘れられない夏の1日となりました。本当にありがとうございました。
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