ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.12.18 年賀状に向かって思うこと

2012-12-18 20:56:55 | 日記
 そろそろ喪中欠礼も一段落したようだ。
 なんとか今週中に目途をつけてしまいたい・・・と、年賀状の準備を始めながらふと思ったこと。

 去年の年賀状の現物ファイルを見ながら、まずは名簿の更新だ。転居通知が年賀状とドッキングしているケースはかなり多い。確かに引っ越し後1年経っていなければ、転居・転送サービス依頼をしておくだけでわざわざ転居通知を出さずとも、年賀状だけで用が足りるだろう。
 頻繁に引っ越しをする人は結構決まっていて、まあ、今度はこんな遠くへ、とか、あら、また元の県に戻ったのね、とか、同一市内で引っ越したり、と忙しい。

 我が家は、今の団地に越してきて来春で19年になるが、すっかり終の棲家になっている。当時は息子も生まれていなかったから、身軽だったし荷物もそんなに多くなかった。
 直前に近くの賃貸に1年ちょっと住んで今の家に越した。その前は23区内で新婚生活を3年、さらに独身時代には、実家を出て2年間、1人暮らしも経験した。
 若い頃ももちろん大変だったとはいえ、新天地への引っ越しはそう苦にならなかった。だが、今ではどうしようもなく膨れた家財道具(殆どガラクタ?)を見回すにつけ、もう引っ越しする気力も体力も(当然財力も)残っていないな、と思う。
 数えてみれば、実家にいた時間と実家を出てからの時間がそろそろ逆転する。

 名簿を見直しながら、もう何年も前に亡くなったゼミの先生や中学時代の恩師がリストに残っているのをみて、しばし立ち竦む。
 PCの名簿から抹消するのはワンクリック一瞬で簡単だけれど、一度消したら、再度入力することはないだろう。こうして、ああ、○○先生はもう亡くなったんだったな・・・と、思い出す時間が来年からは間違いなくなくなるような気がして、本当にそれでいいの、と自問する。
 いつかも書いたけれど、人間は2度死ぬという。1度目は実際に肉体が亡くなる時、そして2回目は他人様から想い出してもらえなくなった時、と。
 そう考えると、自分も死んだらどなたかのリストから抹消され、さらにはその記憶から消えていくのだな、と柄にもなく哀しくなってしまう。そんなことをしているので、なかなかリストがすっきりしないし、時間がかかる。

 一方、ここ1,2年喪中欠礼もなしに途絶えている方はどうしよう、とか毎年頂いてはいるけれども何十年もお目にかかったことがなく、一言の自筆の加筆もなく、印刷だけの方からのものはどうしたものか、と迷う。
 喪中欠礼を頂き、翌年お出ししても返信がなく、それっきり途絶えてしまうということもある。では今年はもう失礼しようと決めた途端、翌年から復活するケースなどなど。さて今年はどうしよう、と迷う。お互いにそう考えているのか、交互に止めてみたり再び届いたり、が続いて結局再開することも。

 息子を見ていると、今やメールでの年賀状もあり、のようだけれど、アナログな私はおそらく生きている限り年賀状を出し続けるのだろうなと思う。
 高齢の両親は「大儀なので今年から年賀状は失礼します」と宣言しているが、そうして年賀状が受け取れなくなるのも寂しくはないか。義母からの年賀状ももう届くことはない。
 かくいう私も、数年前から宛名書きだけはギブアップしてPC印刷にしてしまったけれど、1~2行程度の自筆の近況報告だけは必ず入れておきたい。コメントなし、あるいは書いても「お元気ですか」と「頑張ってください」としか書かない夫(本人いわく「その言葉に万感の思いが凝縮されている」とのこと・・・)に比べて、やけに時間がかかるのはやむなしである。

 昨日は本当に寒かったので、昼休みも自席で持参したお弁当を食べて本を読み、一歩も外に出なかった。が、今日は午後からは曇ってきたものの、昼過ぎまではとても暖かかったので、お散歩がてら外に出た。

 気付けば学内の銀杏の葉は全て落ちてしまった。間もなく冬至。冬本番である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする