いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

S.J. to review old memories, and newly got ones; 札幌篇:パンパン置屋と頓宮の間で

2015年12月20日 21時29分12秒 | 札幌


  - 札幌、南4条東2丁目交差点の2015年秋の風景 -

今秋、札幌に行った。仕事だ。でも、札幌はおいらが生まれ育った街なので、sentimental journey to review old memories ということにもなる。

古い思い出を review して、reject か accept か判断するのだ (????)。

今回は、my own old memories では史跡を確認しに行った。すなわち、記憶にはないということだ。 もっとも、その「史跡」はおいらの本籍地からわずかの距離であったのだ。

今年の早春に知ったさ。 

  事件当日の朝、彼は妻の敏江から仕立て直しをしてもらうように、米軍払い下げのズボンとジャンパーを風呂敷に包んで託され、自転車の荷台にゆわえつけていた   午後三時から四時ごろまでは南四条東二丁目のパンパン屋「東八」の茶の間に姿をあらわしていた。いったん署に戻って東京大阪方面に出張する旅費を請求している。その後ススキノに近い狸小路で仲間の巡査とゆきあっていた。

後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』 (強調、おいら)

白鳥警部射殺事件とは;

敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約の発効目前 [調印(1949年)]の1951年1月21日に札幌の南 6条西16丁目の路上で自転車で走行中の札幌市警の白鳥一雄警部が射殺された。札幌市警の白鳥一雄警部は戦前戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣 (留学)されていたこともあるとされる。ここで、ハルピン学院とは、1940年以後満洲国所管の国立大学。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。著名な卒業生として、外交官の杉原千畝、ロシア文学者の工藤精一郎がいる(wiki)。 ハルピン学院は、上述のとおりで、スパイ・公安警察養成所ではないようである。射殺される直前は、占領軍相手の売春宿(いわゆるパンパン屋;当然当時は売 春は合法である)の取り締まり、そして共産党の取り締まりの実務を行っていた。当時は占領下であるので占領当局との公然、非公然の情報取引を行っていたら しい。さらには、白鳥警部は私的に情報収集の民間人(ヤクザ、右翼)の協力を得てしたとの伝聞もある。 (愚記事: 白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方

 後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』に書いてあった、南四条東二丁目のパンパン屋「東八」。 初めて知った。おいらの本籍地、じいちゃん・ばあちゃんが暮らし(一族10-20人くらい)、とうちゃんが生まれ育ち、大人になってもその地で商売をしていた、の近所に、パンパン置屋があったのだ。 知らなかった。なお、白鳥事件があった年、おいらのとうちゃんは13歳だった。

そんな話は一族から、直接、話として全く聞いたことはなかった。もっとも、札幌で白鳥事件について他人と話したことはない。おいらの周囲の人は誰もそんな話題に興味がなかったのであろう。

ちなみに、この南四条東二丁目という場所は、いわゆる、あのススキノではない。なお、札幌には、ススキノという地名はない。

ということで、本で知った南四条東二丁目のパンパン屋「東八」跡地を見に行った。もちろんは痕跡もない。

ただ、このような思わせぶりな建物はあった;

もちろん、真新しいので、当時のものではない。

何か当時のものはないか探した。みつけた。横文字の住所表示。Occupiedものか!と思うも、Chuo-ku = 中央区とある。札幌が区政になったのは相当後なので、占領時代(1945-1952)のもののはずかない。残念。

この南四条東二丁目のパンパン屋「東八」は、もちろん、おいらの an old memory ではないが、記憶にあるold memoryの頓宮も覗いてみた。南四条東二丁目とは別途、頓宮(南2条東2丁目)はおいらの本籍の近所だ。

子供の頃、ただ、とんぐー、と呼んでいた。とんぐーが頓宮であり、その意味(北海道神宮の頓宮[wiki])であると知ったのは、結構、最近のことである。

この頓宮は、札幌祭りの行列の終着点である。