いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第450週

2023年07月01日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第450週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の当たり年

枇杷をいただいた。今季2回目。うかがうと、今年は枇杷の当たり年とのこと。そして、来年以降は(相対的に)不調となるとのあらかじめの御言葉もいただく。

■ 今週の願い;巷の七夕短冊より

■ 今週の米国産

■ 今週の紫

■ 今週旧キャンプ・クロフォード

先週に続き、ニュース;

https://www.youtube.com/watch?v=ZvN9OR0n_zs

この「駒岡射撃場」は、キャンプ・クロフォードから少し離れている。丘陵部の森林地帯を開いた地区。正式な文書を今は確認できないが;

1945年(昭和20年)、日本の敗戦に伴い、アメリカ軍の演習場として接収される。その後、日本国外から引き揚げてきた人々がアメリカ軍と折衝を行い、緊急開拓地としての認可を得た。

1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発すると、その余波でアメリカ軍の実弾演習が激しさを増したため、一部の入植者は再買収されて離農し、駒岡小学校は精進川沿いに移された。 (wiki

とある。「引き揚げてきた人々がアメリカ軍と折衝を行い、緊急開拓地としての認可を得た」話は、唐木田真、『三反百姓子倅の足跡』 非売品 にある。

■ 今週の太陽:夏至、あるいは、「物語もとめて見せよ、物語もとめて見せよ」

今週、夏至。つまり、今年の半分経過。この半年は、なぜか、物語三昧;

 

年明けから三島由紀夫の最後の作品群の『豊饒の海』四巻を読む。その動機は、昨年末に『金閣寺』を読んで、いろんな人の三島論を読みたくなった。そのためには、『豊饒の海』四巻を読まないと、ネタバレ状態になるので、読んだ。

そのあと、村上春樹へ。これも、村上春樹論を読むためには主要作品を読まねば。そこで、『ねじまき鳥クロニクル』第1~3部とその兄弟物語の『国境の南、太陽の西』、そして、『アフターダーク』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『街とその不確かな壁』、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を読む。「物語もとめて見せよ、物語もとめて見せよ」は、ブックオフで実現。いい時代だ。あづまでも物語に不自由しないのだ。

■ 今週のビンゴ:村上春樹ー佐々木マキー秋野不矩ー西部邁・・村上春樹

これらの絵は、おいらには、37年前から目に入っている。今さら、描いた人が、佐々木マキさんと認識。この方が男性であるとさえ知らなかった。佐々木マキ(wiki)。その佐々木マキさんに「表紙の仕事」という文章があった。1989年、『ユリイカ』臨時増刊、「村上春樹の世界」。佐々木マキが村上春樹のデビュー作の表紙(佐々木はダスト・カバーと云っている)を描くことになった理由は、村上が佐々木の作品の『ガロ』での読者・ファンであったからとのこと。佐々木は書いている;

 すると編集者がやってきて、 「村上さんは<神戸でアメリカン・グラフィティ>を書きたかったそうです」と言うじゃないか。
 なるほど。ウルフマン・ジャック ならぬ<犬の漫才師>が DJ の<ラジオ  N・E・B のポップス テレフォンリクエスト>か。 私は須磨の海辺のラジオ 神戸の建物を思い出した。 この局の人気番組は日曜夕方からの<電話 リクエスト>だった、 
 
私は<神戸でアメリカン・グラフィティ>というのが すっかり気に入った。 それなら私も自分なりの <神戸でアメリカン・グラフィティ>を描いてみよう そう決まると、あとは簡単だった。二日で仕上げた。手法は一種のモノタイプ(一点だけの版画)である。

一方、佐々木マキ(wiki)を読んでいると、下記あった;

実験漫画に行き詰った佐々木は、漫画よりも印刷条件がよく、また比較的自由に絵を発表することができることから絵本を描きたいと考えるようになり、その話を聞いた大学時代の恩師秋野不矩から福音館書店の当時の社長松居直を紹介される。

秋野不矩 [あきの ふく](wiki)。知ってる。西部邁の自伝に出てくる。きれいな絵だとわかったので、今度、浜松市秋野不矩美術館(wiki)に行きたいと思っていた。西部邁の自伝に下記ある;

秋野不矩さんがリーダー、 私がマネジャーということで、  最年少は十三歳、 最長老は(不矩さんの)七十七歳という 複雑な構成の十四人の団体によるインド旅行が企てられたのは、私の発案によることであった。不矩さんが、 周囲の者たちにインドを 味わせてやりたいと切望しているようにみえ、で、 それに少しでも力添えできればとの趣旨でインド行きを企画したわけである。 

その旅行は最初から最後まで失敗だったのである。 要するに、 インドを「見開かれた眼」でまじまじとみつめるものが少なかったということが原因となり、 参加者の意思がてんでばらばらになったのだ。 事実、 その旅の途中で「皆して思わずインドを語る」といったような場面など一度も生じなかった。 (西部邁、「鄙びと雅びが渾然となって」、『サンチョ・キホーテの旅』)

そして、バトンは西部邁から村上春樹に渡らないのだが、西部が村上について語っている/番組企画上語らされているのがこの動画で見られる;

YouTube 西部邁・佐高信の学問のススメ 村上春樹 『1Q84』について、語っている/番組企画上語らされている。

■ 今週読み終えた物語:積読(死蔵)36年、あるいは、化石燃料の使用停止

今週、村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を読んだ。この作品は、1985年。おいらは、1986年に『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』を読んだ。1986年に突然村上春樹を知ったのだ。この後、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を買った。おもしろくないので、読まなかった。内容も知らなかった。聞くに、新刊の『街とその不確かな壁』は、1980年に発表された『街と、その不確かな壁』の「書き直し」とのこと。なお、『街と、その不確かな壁』の別の「書き直し」が『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』と最近しった。別に、おいらは、村上春樹マニアではないので、知らなかった。ところで、『街とその不確かな壁』はいずれブックオフで100円になったら読もうと思っていた。なので、まずは、死蔵されていた、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』でも読もうと考えてた。6月あたま頃。そうしたら、6/10に、なぜかしら、なんと、『街とその不確かな壁』が、ブックオフで950円で売られていた。さらに、スマホアプリで100円引なので、実売価格850円。買った。ごめんよ、村上春樹と新潮社。今、Twitterで、ブックオフを利用するのはしかたがないにしても、買ったと公表するなとの意見が飛びかう。ゆるしてください。買った本は、新品同様であった。もちろん、線引き、汚れ、折れなど全くなかった。なお、この日、おいらが買った品以外に5-10冊程度『街とその不確かな壁』は並んでいた。売値は2,200円だった(定価2,700)。なぜ、この品だけ中古価格の半額であったのか、今だに、謎である。

『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』。やはり、おもしろく、飽きることなく読んだ。したがって、若いころ読めなかったおいら、面白く思わなかったおいらは、自分が変わったのだ。「安田講堂の生き残り」という表現とか全共闘崩れの雰囲気を示唆する物語と再認識する。もっとも、安田講堂では、誰も死んでないし。というのもは大人げないので、「安田講堂の生き残り」とは、安田講堂で挫折した者どもでその後の人生をがんばっている人たちということなのだろう。プロット毎は大変面白く、読ませる。ただし、それがどう統合されて物語を形成しているのか?わかりずらいとの評がある。確かにそうだ。そして、面白いプロットを統合して物語をはっきりさせるのが読者の「楽しみ」だ。ただし、よくよく考えなければならない。村上作品は読みやすい。だから、容易に読み終わってします。でも、自分で考えて統合して物語を確認しないといけない。さらには、繰り返し読むと、統合が熟し、物語が違って見えてくる。

鼠と影:この『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』は1985年(阪神タイガースが優勝し、日航ジャンボ機が堕ちた)の作品。一方、鼠が死ぬ『羊をめぐる冒険』は、1982年。つまり、鼠が<<村上世界>>から消えて、影が登場する。もっとも、前述の『街と、その不確かな壁』を除いて。『街と、その不確かな壁』には、おそらく、鼠は出てこないのだろう。

<<村上世界>>における、鼠と影の意味、その役割分担を考えなければならない。なお、江藤淳は「全共闘」運動、あるいは、"68年騒動"の瓦解の直前に云っている;

間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる。  江藤淳、 『「ごっこ」の世界が終ったとき』、初出、『諸君!』 1970年1月号

つまり、「全共闘」運動、あるいは、"68年騒動"に挫折したものたちが書くであろう小説について、あらかじめ批判しているのだ。

村上春樹の初期作品の登場人物たちは、「全共闘」運動、あるいは、"68年騒動"に挫折したものたちに違いない。そして、村上春樹は正面から「」を登場させたのだ。おいらは、村上は江藤のこの文章を知っていると思う。そして、村上の作品は江藤への事前批評への応答だと妄想している。

『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』を読んで気づいたのが、石炭すなわち化石燃料を、堂々と!!!(???)、使用している。一方、『街とその不確かな壁』では、化石燃料は使用されず、薪(林檎の木)が使われている。俗な『街とその不確かな壁』評で、世界の評価に村上はどう対応するか見ものだというものがある[1]。性や暴力などの表現、あるいはテーマが、(広い意味での)ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)=ノーベル賞にふさわしい思想に反しないこと、あるいは、整合しているかということ。化石燃料追放は、その路線?とおいらが下種に勘ぐってしまった。

 

 



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