札幌の市街を散歩した。東京の台地ー沖積平野での散歩で「坂」や「橋」は歴史を超えた地理上の特異的な特徴物となる。今回の札幌散歩は「坂」はなく、「橋」も最初のひとつだけ。
札幌散歩紹介の前に横浜と比較して札幌の特徴を示す。札幌も横浜も幕末まで街ではなかった。でも、流民の街となり今では多くの人が住んでいる。3代続けば江戸っ子で、3日住めばなれるのがハマっ子らしい[google]。札幌についてはわからない。でも、和人はみんな流民には違いない。
左、札幌、右、横浜。札幌地図の赤線は今回の散歩経路。右横浜の地図では過去の横浜散歩地域;①横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区、②横浜散歩;JR石川町駅⇒港の見える公園⇒元町公園⇒石川町駅、③本牧台地散歩
札幌は広くて、平坦。戦災や天災を免れていることも横浜と違う。
札幌の一番古い市街地は豊平川の西につくられた。平坦地。創成川は人工の堀。札幌の一番古い市街地は「坂」や「橋」がない。
札幌という地名の語源はアイヌ語で乾いた広い土地という意味らしいので、まさに「坂」や「橋」がないのだ。乾いた広い土地は扇状地の特徴。扇状地は水はけがいい、だから、豊平川のような大きなもの以外、川がないのだろうと思っていた。でも、ちょっと違うようで、そのことは最後に書く。
1;地下鉄中島公園駅、5;西11丁目駅、6;大通駅
■ 1.中島公園
JR札幌駅から北に延びる駅前通りが札幌の一番に繁華した通り。その北のどん突きが中島公園。
中島公園は通勤者が多いと以前から気付いていた。
奥に見えるのがパークホテル。中川一郎が自殺したホテル。
最初で最後の橋を渡る。鴨鴨川を跨ぐ。鴨鴨川は豊平川から中島公園へ水を引く川。その鴨鴨川は創成川へと流れる。
■ 2.中島公園を出る。
中島公園を出て、通りへ。
南9条西7丁目。
電車通り。東本願寺前停留所付近。
■ 3.東本願寺
明治三年の文字が見える。
東本願寺の門から北を見る。明治4年からずっとこの道幅。
門から北上して振り返る。道庁から北への道のどん突きが東本願寺とわかる。
赤丸が東本願寺の門。北からの道がどん突きになっていることがわかる。「Z」が明治4年の札幌条理制市街の南西端。
明治4年の札幌条理制市街。「Z」は上図の「Z」の位置。「本願寺」の字が見える。
■ Z から西へ
東本願寺より西は明治5年に条理の外。
このあたりは昔何であったのか?
この条理の外が何であったか今回調べてわかった。
明治30年の地図(現今札幌市街之圖 [部分]、『札幌沿革史全』)
東本願寺の西は屯田兵村だったのだ。初めて知った。そして、その屯田兵村は「山鼻村」。つまり札幌の外。
札幌市街の条理と山鼻屯田兵村の条理が少し低角度でずれている。dislocation lattice!
<<北海道巡行屯田兵御覧>> 高村真夫 画、北海道庁献納、通し番号42 (聖徳記念絵画館)
藻岩山が見えている。札幌市街の方から屯田兵村を見ている。
■ 4.石山通
石山通に出る。
石山通を北上。大通り方面へ。
中央区役所とプリンスホテル。
パチンコ屋。
開店前に並ぶ「札幌っ子」。
南3条西11丁目 Google(うの理容所)
■ 5.大通り西11丁目
大通り西11丁目
大通り公園
黒田清隆像。 ★大砲をぶっ放して民間人殺傷;★酒に酔って妻を惨殺 ⇒https://nihonshi.hatenablog.com/entry/kuroda-kiyotaka
山之内製薬の後継。このビルの広告は昔は山之内の看板が出てた。雪まつりの絵葉書に映っていたものだ。
丸井今井、残ってますね。おいらががきんちょの頃、札幌パルコ開店の数年後、バブル景気の前(?)、「大通りヘップバーンなのね。」という(当時としては)ぶっとんだ広告を打って、つぶれかけた。新たに就任した今井一族の新社長の展開だった。その社長は、つぶれかけたので、交代した。
ネットでのパクリもの
大通り4丁目付近。北洋銀行本店。1997年に拓銀が破綻するまで、拓銀本店はここにあった。
その後、拓銀本店の建物(2代目)は21世紀に入っても残っていたが、2006年頃、建て替えとなったらしい。
2代拓銀本店;1960年/昭和35年建設 (ネットでの拾い画像)
初代拓銀本店;1909年/明治42年建設 画像ソース
この初代拓銀本店の建物は敗戦時もあった。敗戦時における "札幌の「第一生命ビル」"=占領軍の司令部(米第10軍第77師団の司令部 [ブルース少将])であった。ブルース少将の wikipediaを見ると、Bruce served as the military governor of Hokkaidō (軍政北海道知事)とある。今調べると、初代北海道(民選)知事は田中敏文(1947~1959)。
おいらは、札幌で生まれ育ち小学校3年か4年でクロダキヨタカなどを授業で知った。でも拓銀本店が進駐軍司令部であったとは親族などから全く聞いたことがなかった。30過ぎて、初めて知った。
駅前通りを札幌駅を望む。
▼ 消えた札幌の川
この散歩を終えてこのブログ記事を書くまで全く知らんかったこと。あるいは、思い込んでいたこと。
今の札幌市街地、しかも大通りより南の扇状地の地域には結構川が流れていたと。その川は札幌市街建設で消えたのだ。
明治四、五年の地図(明治四年及五年札幌市街之圖 [部分]、『札幌沿革史全』)
東本願寺のあたり、北へ向かって川が流れている。この川は明治30年(上に既出の地図)には消えている。つまり、開拓使による札幌市街造成時には結構な数の川が札幌を流れていたのだ。
おいらは、このブログ記事を書くまで、すなわちネットで調べるまで、知らなかった。札幌中心街は扇状地だから水はけがよく、川が発達しないと思い込んでいた。なにより、サッポロ=乾いた広い土地なのだから、川はないと思い込んでいた。違った。
今はないその川は、チェプンペッ川(google)なのだと。
おしまい。