いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第419週

2022年11月26日 18時00分00秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第419週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の大きなもの

真ん中に比較用の小粒みかんを置いた。9kg、1,720円。

■ 今週の御公家さま集団

右傾化傾向にある現在の政界には、祖父の目指した”穏健な保守政治”、宏池会的政治への待望論があるが...」と2016年に大平正芳の孫娘が語った。あれから5年の去年、岸田政権発足。宏池会だ。なんとか倍増だの、なんとか田園構想だの、パワーワードと御当人たちだけが信じてる昭和の言葉を掲げるも、何もせず、ついには、宏池会の大臣が相次いで辞任。ふたりとも官僚出身。そのうち一人は池田勇人の孫娘の婿だという。本流中の本流がまぬけ

■ 今週の「危険なテロリスト/暗殺者、人殺し」@キャノン認定の子孫

初代総理大臣の伊藤博文は、若い頃は攘夷(じょうい)(排外主義)思想に傾倒する危険なテロリストだったことをご存知でしょうか。

文久2年(1862年)11月、イギリス公使の殺害計画を企てたことで、伊藤は高杉晋作らと長州藩から謹慎処分を食らっていました。しかし12月12日、謹慎中の身でありながら性懲りもなく品川御殿山に建設中のイギリス公使館に侵入、焼き払ってしまったのです。もともとイギリスは品川の東禅寺を公使館として使用していたのですが、攘夷派に2度も襲撃され死傷者を出したので、御殿山に公使館を新築していたところでした。

この焼き打ち事件から9日後の12月21日夜、伊藤は同志の山尾庸三と共に、国学者の塙次郎(和学講談所をつくった保己一の子)を江戸の九段坂で暗殺したのです。塙は、老中の安藤信正の命で廃帝の調査をしていました。すると、孝明天皇を廃すため幕府が塙に前例を調べさせたという噂が立ち、伊藤は「そんなことに手を貸すとはけしからん」と激怒し、犯行に及んだといいます。 (ソース

キヤノンITソリューションズ株式会社

松本剛明総務相は伊藤博文(人殺し)の「」(名前不明)の庶子、朝子の系統だそうです。嘘つきと報道された藤崎一郎さんも同じく、朝子系統とのこと。ネットでキャノンのweb site が上述のように、テロリスト、暗殺者認定と喧伝を行っています。

■ 今週借りた本; 堀田江理、『1961 アメリカと見た夢』

 私が初めてアメリカに行ったのは昭和37年(1962年)のことだ。プリンストン大学の研究員として訪米したのだが「なんと豊かな国だろうか」と思った。アメリカはケネディ大統領が就任し、国力の絶頂を極めている時代だった。 江藤淳、『南洲随想 その他』、「失敗を選ぶ」(初出 1998年)。

堀田江理の『1961 アメリカと見た夢』は、1961年の大学生の米国旅行に着想を得たエッセイ集。その旅行とは、国際政治学者で当時ワシントンDCにいた徳野軍治や住友銀行頭取の堀田庄三の息子ら大学生計4人が1961年10-12月に米国の東西両海岸をバスで往復した旅行。4人は細野徳治(早稲田2年)、堀田健介(慶応4年)、宇津木琢弘(慶応3年)、増尾光昭(東大3年)。堀田健介がこの本の著者、堀田江理の父。米大陸での移動手段はバスで、当時Greyhound Lines社の「99日で99ドル」乗り放題を利用。この旅行の第一目的は、ワシントンDCでの、徳野軍治がアレンジしたケネディ司法長官との面会。他目的は調査・研究で、特にケネディー政権が打ち出した「平和部隊」の研究と現地学生との対話。

『1961 アメリカと見た夢』は1961年の大学生の米国旅行を看板としていそうにみえて、この本は紀行文、家族史、自分史、戦後論、アメリカ評論ではない、という。では何かというと「一九六一年の夢に照らされて、現在の我々の視界が少しでも明るく、大きく広がり、さらに考えたり、悩んだり、楽しんだりするきっかけになるエッセイなのだという。さらに、「この本の目的は、アメリカそのものを語るだけにとどまらず、アメリカが、外の世界に発信してきた理想像やメッセージとは何かを考えるところ」とのこと。

 <堀田江理、『アメリカと見た夢』の章立てと記載内容メモ>

本書は、1961年の旅行の立ち回り先の土地柄、風土、エピソード、さらには堀田江理が想起することが書かれている。本書の内容のメモを下記表に示す。堀田江理が想起することの事柄は玉手箱のようでもあり、幕の内弁当のようでもある。つまり、必ずしも諸事項の論理的関連性があるわけではない。さらには、1961年の旅行との直接のつながりなはいアメリカ事情が書いてある。右端の欄の「言及作品など」はアメリカを語る際に出てくる作品(アメリカが、外の世界に発信してきた理想像やメッセージ

の亊例)などである。


4人の旅行経路。グレイハウンド バスで。行きは、北の方をニューヨーク、ワシントンへ。帰りは南の方を通り、ロスアンゼルスへ。

<4人の「高踏派」的?「アメリカ像」>

4人の中の堀田は「アメリカに対する大きな憧れをもたらした旅行」と云ったとされる。その「憧れ」とは単に下記のような「american way of life」ではなかったらしい。おいらは、「1961年のアメリカと見た夢」と聞くと、下記イメージを想起する。江藤淳のように「なんと豊かな国だろうか」と4人が感嘆したとの記録は著者(堀田江理)によって報告されていない。ただ、「戦後にいくら日本の栄養事情が改善されたとはいえ、四人が見たアメリカは、その食べ物だけをとっても衝撃だったはずだ。宇津木の旅日記には、ハワイの農園で口にした「忘れられない」パイナップルの味を皮切りに、食事に関する記録が多くある。」とあり、「心を打たれる」と著者は書いている。でも、本編では特に言及はなく、日米の生活差をどう認識していたかの言及はない。なお、1960年に米国のGNPは日本の12倍である。

さらに、下記書いてある;

ある午後、宇津木と細野は、当時「世界一大きいデパート」と豪語していた、シカゴが本拠地の百貨店シアーズに買い物に行っている。お土産用の革鞄や、パーカー社のボールペンを購入したが、大きな機械類が記憶に残ったくらいで、全体を見た感想は、日本のデパート程の品数がない」だった。p84(第3章、憧れの「国際人」)

米国のデパートはたいしたことないと報告している。なお、百貨店シアーズを、おいらは、2年前に知った。知ったいきさつは、日本敗戦直後、占領軍の家具、生活用品(American way of life !)について調べていたら;

敗戦後、米占領軍の住宅を設計したのは、太平洋陸軍總司令部技術本部設計課、ヒーレン・S・クルーゼ少佐 (Heeren S. Kruse) という人と知る。少佐とはいっても徴用/出向してきた建築家 or 工業デザイナー。"シカゴに本拠地があるシアーズ・ローバック⑤のチーフデザイナーであった" (愚記事

敗戦後、日本人が見て、憧れたAmerican way of life ! の本家が、シアーズだったのだ。宇津木と細野はは、そのシアーズを、大したことない、と云ったのだ。

これは4人の境遇を端的に表しているのかもしれない。つまり、この旅行での所持金は、現在の貨幣価値にして、ひとり当たり170万円ほど。しかも、この持参金は政府により外貨持ち出し制限で制限された金額であり、彼らが本当に出せたカネの上限ではない。もっと、出せたに違いない。さらに、航空機費用、帰りの船費用がかかったはずだ。この渡航費は明記されていないが、「1960年代中盤の欧州への航空券代は当時の若手研究者の年収の額ほどであった」など状況情報から推定して交通費だけで100万円単位であろう。こういうお金を息子のためにポンと出せる家。そもそも、堀田の親は住友銀行の頭取であり、敗戦後は進駐軍兵士の事業の相談に乗ってやっていたくらいの余裕である(本書に出てくる)。占領軍に位負けしていた一般国民や鎌倉で近所にピクニックにやって来た米軍家族に「物乞い」した一介の(「重役にもなれず世間知らず」な)銀行員の息子でバラックに住んでいた江藤淳とは違うのだろう。

何より、著者は、本書の最後で、旅行を終えひとりで帰る細木の後ろ姿に対し「我々がアメリカと見続けるべき夢は、物質的豊かさでも、見せかけの自由でもなく、まさにこの後ろ姿が象徴するなにかではないか」という。

この『アメリカと見た夢』は難しい本である。特に、「夢」が何だかわからない。

<著者・堀田江理の「アメリカ像」>

著者は米国は理解しがたいという。その著者の「アメリカ像」、あるいは、著者の政治的立ち位置を端的に示す文章を示す;

(前略) BLM(Black Lives Matter 黒人の命も大切)の抗議運動に火がついた。各地で行われるデモでは、参加者がおおむね距離をおき、感染予防のマスクを着用する姿が目立っていた。その一方で、ドナルド・トランプの大統領再選を望む支持者たちは、マスクを着用せずに大集会を催し続けた。選挙後も、頑なに敗北を認めるトランプに扇動され、「バイデンが不正に票を盗んだ」( Stop the steal) とがなり 立て、挙句の果てには、米連邦議会議事堂に乱入し、死者を出すほどの大混乱を引き起こした。ここでもっとも注目すべき点は、 BLM とトランプ支持、いずれの抗議運動も、アメリカが象徴し、守るべきとしている「自由」と「権利」の名のもとに行われたことだ。
 アメリカ社会の抱える問題の根本には、理想と現実のギャップがある。土地の強奪、奴隷制、女性・マイノリティー差別などの歴史が織り成してきた現実は、アメリカ建国の、すべての人のための「生命、自由、幸福追求」という理想とは、明らかにかけ離れている。 (まえがき)

理想と現実のギャップ」というが、これは米国のはじまりからしてそうだ。そもそも、米国の建国の父とされている、人の平等を唄った大統領たちが奴隷主であり、先住民を掃討して米国をつくった。

 (4人の日本人大学生の)一行は、郊外にある、ジョージ・ワシントンのプランテーション(大規模農園)、マウントバーノンにも足を延ばした。私も高校時代、家族旅行でここを訪れたことを思い返す。そして、それが奴隷労働によって建てられたことを知り、戸惑ったことも記憶に蘇る。奴隷所有主としてのワシントンに、「そういう時代だった」とか、「歴史を通して、世界のあらゆる場所で奴隷制が存在した」という一般論では済まされない、大いなる矛盾と偽善を、感じたからだ。何せワンシントンといえば。「桜の木」の逸話で語り継がれる正直者で、まさに人は「みな平等に創られた」と宣言した人々が建てた国最の、初の大統領だったのだ。p121

戸惑ってどうしたのか?今に至るまで米国の宿痾である「理想と現実のギャップ」を、現時点で、どう了解するかは本書では明解に述べられていない。

さらには、奴隷主ジョージワシントン、強姦魔(rapist)であったトーマス・ジェファーソンについては言及されているが(繰り返すと、どう了解するかは本書では明解に述べられていない)、本書では原爆や先住民からの土地の強奪のことは話題になるが、「ジェノサイド」という概念は出て来ない。なお、本書と同じ出版社からの中野耕太郎の本では、「核兵器によるジェノサイドが行われた」とある。ちなみに、その新書の書名は『20世紀アメリカの夢』である。本書と同じく、「アメリカ」と「夢」が鍵語だ。

一方、「長い目でみれば受け入れがたい価値観を表現する芸術や、記念碑が、どこまで保存され、どこまで撤去されるべきなのだろうか」と問うてセオドア・ルーズベルト像;黒人とインディアンを従える像の撤去問題を紹介している。撤去予定を是としている。ところで、著者の父が留学したリベラルな校風のオバリンの大学が奴隷の逃亡を助けたことに言及している。しかし、本書でたくさんの有名大学の名が出てくるが、その少なからずが大学として奴隷制に関与し、奴隷制で利得を得ていたことは何ら言及されていない。

本書は4人の旅行をエッセイの発想の根拠としながらも、米国の現状についても述べている。上記の「まえがき」の引用にあるようにBLM運動についても言及している。ところで、このBLM運動の理論的背景として、2019年に提案さた「1619 プロジェクト」史観がある、とされる [例えば]。「1619プロジェクト」の歴史観の"斬新さ"は、1776年のアメリカ革命、あるいは、独立革命を植民地人が奴隷制を維持するために行ったことであるという歴史認識である。この歴史観、あるいは類する思想に基づき著者が言及しているセオドア・ルーズベルト像(人道に対する罪的な所業の顕彰)撤去問題も生じた。さらには、米国の宿痾である「理想と現実のギャップ」を解決しようとする歴史観と思想のひとつとして「1619 プロジェクト」がある。すなわち、1619年に連行されてきた奴隷とその子孫こそが人権保障の実現を実行する民主化運動を進めていくのだ、という思想である。この堀田江里、『アメリカと見た夢』には人種問題:黒人問題、日系人問題が多く語られているが、「1619 プロジェクト」は全く言及されていない。 むしろ、語られているの「文化大革命」への危惧である。

<「文化大革命」に怯える>

おいらにとって、本書で一番興味深かったのが、「ウォーク」批判。「ウォーク」現象そのもではなく、著者の取り上げと態度に。

(前略)近年のアメリカでは、トランプイズムに対する反動なのか、「ウォーク」(woke)な考え方が、若年、青年層で支持され、バーチャル社会で不穏なほどの影響力を行使し、現実の社会まで作り変えている。ウォークとは、人が社会問題、それも特に人種、セクシャリティ、ジェンダー問題について、目覚めた状態を指す。差別を問題視し、その廃絶を求める点では発展的であるが、行き過ぎた「ウォークな人々」が、バーチャル社会の思想警察さながらに幅を利かせ、気に入らない意見を述べたり、問題提起したりする人を糾弾し、その存在ごと抹殺しようとする傾向が顕著になってきている。ウォーク警察の標的には、告白されて当然といった人もいれば、何が問題なのか曖昧だったり、とんだ曲解、誤解をされて、不当に吊るし上げられる人もありで、さまざまだ。にもかかわらず、一度告発されれば、言語道断で釈明や議論は許されず、真実がますますうやむやになる。この世界の極刑は、告発対象を一方的に、徹底的に叩きのめし、鬱憤を晴らした後にはその存在そのものを「無視」イコール「キャンセル」することで完結する。 p189

 このインターネットから始まった、社会全体の「思想警察」化の流れを、一体誰がコントロールしているのか。誰がその中枢にいる「ビッグブラザー」なのか。それが判然としないからこそ恐ろしく、たとえ意見をしたくとも、たいていの人は、何か間違ったことを言うと自分も袋叩きに合うのではないかと二の足を踏み、ますます口をつぐむことになる。そしてその傾向は、個人レベルに限った話ではなく、ここ数年間の「ニューヨークタイムス」や「ニューヨーク・タイムス」を始めとする主要メディアの報道姿勢にまで、影響を及ぼしている。さらに大学のキャンパス、高校、そして小中学校でも、学生たちの反乱を恐れる経営陣や一部教員たちが、とりあえず「ウォーク」派の若者の意見に近寄り、へつらうことで緊張を回避しようとする傾向が見られる。言論の自由を尊び率直術率先すべき人々が、聞き慣れない意見を「害」だ、「差別だ」、「中傷」だと事あるごとに告発し、議論を封じる勢力に迎合していては、状況は悪化するのみである 。p191

<著者・堀田江理の「アメリカ」への対処策>

 このような死者を出す侵入騒動が起きてしまった以上、後戻りはできず、とりあえずの策として、警備の壁が一層厚く、高くなるのも必至だ。しかし再発を防ぐには、議会の警備をよりいっそう厳しくすることよりも、民主主義についての教育の徹底を優先する方が重要かもしれない。 p120

民主主義についての教育の徹底

<「帝国」>

堀田江理、『1961 アメリカと見た夢』の帯には、父はあの年、「帝国」の絶頂を歩いたーとある。本文にも、「帝国」の語は出てくる。ただし、著者は「帝国」の概念を自分の視点としては明確に定義せず、こういう「帝国論」もあります、ああいう「帝国論」もありますと諸説を解説することで「アメリカそのものを語る」。そして、「招かれた帝国」というルンスデスタッドの説を紹介している。ベルリン封鎖のとき当地を訪れたケネディ大統領がベルリン市民に歓迎される写真がこの本の表紙だ。

  いうまでもなく今日のアメリカ社会は、国内的にはコロナ対策、治安維持、移民、マイノリティ関連の問題などが山積みだ。だが過去60年の間に、より多くの米国民の人権や自由が認められてきたことも、たしかである。その一方で、国際的には、アメリカの失墜は否めない。一九六一年、絶頂期にあったアメリカ帝国は、二〇二一年、ますます衰亡の一途をたどっているかのように見える。(中略:衰亡の例として2020年の米軍のアフガニスタンからの撤退が言及されている)

 四人の旅人の調査対象であった、一九六一年にスタートした平和部隊にも、当初より「帝国主義的だ」という批判が向けられていた。しかし六十年経った現在も、平和部隊は存続している、それはこのプログラムがおおむね、「招かれた」。「良い」タイプの帝国主義を行ってきたということなのだろうか。p275

 本書は1961年の米国と現状を語るのであるが、米国(アメリカ帝国)の衰亡を語るのに、対外策として「平和部隊」のみを挙げている。これは1961年の4人の旅行と平和部隊が関連するからだ。4人は米国の対外軍事行動に、もちろん、関係ない。だから、2021年まの米国の衰亡について、ベトナム戦争やイラク戦争など一番米国の衰亡に寄与したことを無視できるのが、この本の視点、つまり、1961年4人の旅とは直接関係ないことは無視してでも「アメリカそのものを語る」ことができるからくりである。一方、1961年4人の旅とは直接関係ないことでも著者が語りたいことは「自由」に語れることも本書の特徴である。

<DVに耐えるアメリカ国内の理念に預かれない者ども>

 日系人に生まれついたがゆえに、アメリカ市民としての権利を剥奪され、あらゆる物を失い、グラウンドゼロからの人生の再建を迫られる経験をしたからこその、(党派を問わず日系人政治家を支援したことの理由は)切実な思いだったと想像できる。アメリカの掲げる民主主義の矛盾をとことん知り尽くし、裏切られてもなお、その根本理念の尊さを信じ続け、自分にできることはやり尽くすという、常に前向きで積極的な新たにの人生観の表れだろう。p224

<高踏派4人の著者によるまとめ>

 明治維新以降、列強に「追いつけ、追い越せ」と掲げたスローガンを、戦後もがむしゃらに、今度はアメリカを第一の理想として追い求めた結果が、現在の日本なのだろうか。それは初めから、蜃気楼を追うような試みだったのではないのか。四人が旅をした頃のアメリカ黄金時代の素晴らしさでさえも、元々「幻影」だった。かぎりない豊かさや自由は、多くのアメリカ人にとっても理想であり、夢であり、現実ではなかったのだ。うわべの華々しさ、眩しさを通り越したところに見えたのは、「月賦払いで無理をしても車は2台欲しい」とか、「ジム・クロウ法を廃止しても、人種差別は続ける」など、束の間の訪問者の目にも、大いに危なっかしく、矛盾するアメリカの内実だった。四人はそれを見たことで、「美しい新世界」の呪縛から幾分かは解放され、それぞれが自分で見て、考えることを学んだのかと思う。p168

<4人のその後>

「(前略)小船に乗り移り横浜港へ向かう。他の三人の家族はで迎えに来ていたが、我が家族は誰も来ず。ひとり桜木町駅から京浜東北線で帰宅」 
 細野が淡々と荷物を携え、ひとり電車で家路につく後ろ姿が目に浮かぶ。そこには小児麻痺を生き延び、杖や装具を使っても自立した生活を送ることに誇りを持った、アーサー・カミイの後ろ姿も重なる。我々がアメリカと共に見続ける夢は、物質的豊かさでも、見せかけの自由でもなく、まさにこの後ろ姿が象徴する何かではないか。ひとりで考え、歩き、生きる力強さは、いうまでもなく、心のありかたの比喩だ。それは年齢に関係なく、また心体能力に関係なく、頭が動くかぎり、誰もが見続ける夢でもある。 p270

4人の旅も終わり解散するのだが、著者が注目するのは自分の父ではなく、ひとり行く細野だ。高校生以来、米国に馴染んだ著者も、ついに、米国的母親のエートスを得たのか?と空想した。江藤淳の次のくだりを思い出したからだ;

エリクソンは米国の青年の大部分が母親に拒否されたという心の傷を負っているという。(中略)日本の母と子の密着ぶりと米国の母子の疎隔ぶりのあいだには、ある本質的な文化の相違がうかがわれるはずといのである。(中略)エリクソンによれば、米国の母親が息子を拒むのは、やがて息子が遠いフロンティアで誰にも頼れない生活を送らなければならないことを知っているからだという。そういう息子のもっとも純粋なイメージは、やがて目的地に着いたら屠殺される運命の仔牛の群を率いて大草原を行くカウボーイの孤独な姿に反映している
≪ゆっくり行け、母ない仔牛よ   せわしなく歩きまわるなよ   うろうろするのはやめてくれ ・・・ それにお前の旅路は  永遠に続くわけではないぞ  ゆっくり行け、母ない仔牛よ  ゆっくり行け≫
江藤淳、『成熟と喪失』

4人の内、細野はジャーナリストになり、他の3人は実業界に入った。調査したはずの「平和部隊」とのかかわりはわからない、本書には書かれていない。特に、細野と堀田のその後の人生の軌跡は興味深く、インタビューでも読みたい。細野はその後ベトナム、アメリカ本国とジャーナリストとして関わる、本当に「アメリカ帝国」と対峙したはずだ。もっとも、本人は 「アメリカ帝国」とはいわなかっただろうが。堀田はバブル期、すなわち、日本の銀行が巨大化したときに北米勤務。まさか、1961年に将来日本円が3倍も4倍も価値が上がるとは夢想だにしなかったであろう。この「夢」は、堀田江理、『1961 アメリカと見た夢』に何ら言及がなく、下記のごとくあっさりした「4人の大人人生」まとめである;

彼らが大人として生きる日本は、なんとも目まぐるしく変貌していく社会だった。すぐ先には敗戦からの復興を記念する東京オリンピックと新幹線開通があり、やがて高度経済成長期、バブルへと続く。だがそのバブルはあっけなくはじけ、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災を筆頭に、空白の10年、20年の訪れを象徴する事件や出来事が重なる。 p267

<著者の「日本像」>

 日本の近現代、そしてその中でアメリカが担ってきた役割や、及ぼしてきた影響を考えると、どうしても頭に浮かんでくるイメージがある。葛飾北斎の富嶽三十六景からの一図「神奈川沖裏波」である。
 常々、私はこの大海原に繰り出す漁船を、開国以来の、日本という国家のメタファーだと解釈してきた。四方を海に囲まれた国、日本が、危険を承知で大海に挑み、波に飲まれそうになりながらも、それに乗って生き抜こうとする様子を、的確に表現していると言ったらよいのだろうか。本書を書き終えて新たに思うのは、この図が、より個人的な人生を象徴しているのかもしれない、ということだ。人の人生を、荒波に立ち向かう航海に例えるのは、大いに月並みで、陳腐で、センチメンタルかもしれない。だがそれが現在の私の正直な気持ちであり、一九六一年の旅人たちが見た、自立を尊ぶアメリカのメッセージとも、共鳴するように感じる。p276

さっきの細木のひとり行く後ろ姿に感動することも、この荒波の小舟によって象徴する「個人的な人生」も、この著者は、現在何か精神的危機にあるかと思ってしまう。そんなに個人的、孤独に、ひとりで生きていかねばならないのだろうか、アメリカでは?

<与太話;鉢植え大名と根無し草(uprooted)家族>

本書に著者の父がが戦時中に滋賀県高島郡新義村に疎開していたとある。おいらはピンと来た。堀田と滋賀県高島郡新。堀田正敦;幕府の若年寄でした。当初のボスは松平定信。自分の領地は、最初は近江堅田藩。著者の祖父であり住友銀行頭取であった堀田庄三についてのネット情報では、「愛知県名古屋市に牛田正太の二男として生まれ、堀田家に養子入りするwikipedia)」とある。三河武士のあの堀田家に類する家系であるという空想は否定はされない。空想はこうだ;堀田庄三が入った養子先の堀田家は近江堅田藩と何らかの縁があり、戦時中に家族の疎開先とした。もちろん、著者がお武家さまに由来するかなどわからない。ところで、江戸時代に日本全国に三河武士=徳川家家臣が収める領地、藩がたくさんあった。そういう藩を治める大名は「鉢植え大名」と呼ばれた。「鉢植え大名」とは本来の土地から切り離され、鉢植えの木のように各地に転封し、その地を治める。

さて、『1961 アメリカと見た夢』の著者は高校生の時(1980年中半の日本のバブル絶頂であり、日本の銀行が世界順位の最上位に並んでいた時代)に父親の銀行員に連れられて米国に渡り、今も日本人とのこと。これは、アメリカについての教科書に出てくる「the uprooted」(根こそぎにされた人たち)とは対照的だ。「the uprooted」のイメージは下記;

 ある家族と全財産。欧州での「文明」を絶やして、アメリカ人になるのだ。

「the uprooted」(根こそぎにされた人たち)と「鉢植えの人たち」は違う。「鉢植えの人たち」は鉢の中の土に根を生やしている。

 ベンサムの国際法解釈を持って「国際人」とは何かを考えてみると、それは、さまざまな社会の掟や慣わしの違いを把握しつつ、それらを超えた共通点を見抜き、自らの立つ基盤をも、より広く築ける人のことを指すのであろうか。ほぼ成り行きに任せてきた人生だと思っているが、多分、私自身、そんな人になりたい気持ちに導かれ、進んでは迷い、走っては転ぶことを繰り返すのかと、考えたりする。p106

「the uprooted」(根こそぎにされた人たち)は、「さまざまな社会の掟や慣わしの違いを」根絶やしにして、アメリカ人という共通点を持ち、それが世界的に普遍的なものと思っているのではないか。

<アメリカを語り、思わず日本を示す『1961 アメリカと見た夢』、あるいは、アメリカの夢と日本の現実:nepotism=縁故主義>

この旅行は、「形式的には、細野が理事長を務める日本外政学会からの派遣という形をとることになった」と本書にはある。さらに、「何が細野軍治を突き動かしたのだろう。愛息の見聞をひろめるための「グランド・ツアー」として旅の実施に奔走した、という穿った見方もできるかもしれない」とある。穿ったというより、そのまんまというべきだろう。公私混同である。

もっとも、細野軍治は公私混同でも何でも日米関係の保持人材を育てたかったのだろう。細野軍治は松本重治の友人であり、外交問題評議会のメンバーであり、その人脈もこの1961年の旅人のホストになっている。この日米人脈の要員リクルート、維持が細野軍治の関心事・目的・任務だったに違いない。なお、「松本重治」、「外交問題評議」と聞くと<その筋のマニアさん>には興味を引くかもしれない。イエズス会も出て来るよ。

当世日本の首相は、すなわち、息子を秘書官にした首相は、宏池会という政治派閥に属する。宏池会とは池田勇人が創設した政治派閥である。池田勇人は吉田茂の片腕で、サンフランシスコ講和条約に出席、戦後の日米体制(日本が軍事主権を放棄した事実上の「保護国」とする属領・日本と「アメリカ帝国」の関係)を築き、維持した。1961年の旅のひとり堀田健介は住友銀行頭取で住銀の法皇と称されとされる[wiki]堀田庄三は、「戦後、政治家、経済人との親交を結び、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作と続く保守本流との関係」を深めたとされる。

つまりは、1961年の旅のひとり堀田健介は敗戦後日本、対米従属下日本の「えすたぶりっしゅめんと」[1]の後継者を期待されている青年たちのひとりだ。

住友銀行頭取で住銀の「法皇」と称されとされたとされる堀田庄三の孫娘さまであらせられる著者は、歴史研究者としての知的誠実さからか、あるいは、育ちの良さの脇の甘さからなのか、堀田健介がNYやサンフランシスコで「接待」を受けていることを報告している。頭取の息子さまが来るのだから、日本人の心情としては当然だが、これは、公私混同である。

本書の魅力はこの1961年の旅行の事情である。そして、米国での旅行を語りながら、日本人・「えすたぶりっしゅめんと」の性情をよく描いている

[1] 著者の母親の家系はネット(wikipedia)で公知となっている。その関連wikipediaの参考文献に「結婚で固められる日本の支配者集団」とある。書名より、その惹句がこの著者の出自を端的に示す。

なお、著者の考え(世界観、思想)が書かれたくだりがp14にある。

国府田(農業経営を成功させた日系人移民1世)のチャレンジ続きの人生がそうであったように、自由や成功を確保するには、苦労がつきものだ。そして努力や苦労をしたとて、必ず成功するわけではない。「すべての人間は平等に作られた」のではなく、はたまたすべての人に、公平なチャンスが与えられるわけではないのだ。

つまり、「すべての人間は平等に作られた」という米国建国の理想を肯んじてはいないのだ。

<捨て鉢>

捨て鉢という言葉を使っている人は、おいらは、この著者しか知らない。『1941 決意なき開戦 現代日本の起源』でも使われている、捨て鉢。この「捨て鉢」という言葉は、真珠湾攻撃を含む日本の対英米蘭戦争を表現するのに使われている。

この「捨て鉢」という言葉は、昭和天皇が、1941年7月に永野軍令部長(海軍)との謁見での日米戦争の可能性を聞かされて、謁見後に内大臣の木戸に語った発言(「斯くてはつまり捨てばちの戦をすることにて、誠にお危険なり」)に含まれる言葉とのこと。

そして、本書でもp233では、真珠湾攻撃を評価する言葉として使われている。一方、真珠湾攻撃と2001年の911テロについて、「捨て鉢」という言葉を使っている。その趣旨では、真珠湾攻撃と911テロの性質の相違に言及している。この比較の時は「捨て鉢」を911テロに当て嵌めている。もし、堀田が筋を通すのであれば、既に真珠湾攻撃を捨て鉢と表現したのであるから、両者は捨て鉢であり、捨て鉢攻撃を行った主体が国家かテロ組織の違いかであると書くべきであろう。

夜になる頃には、ニュースキャスターさえもが、ツインタワーへの自爆攻撃を、真珠湾攻撃に擬えるようになっていた。
 その展開を目の当たりにしながら、私はますます混乱した気持ちになった。軍事標的を攻撃した国家間の争いと、捨て鉢のテロ行為が同系列で語られることの違和感を、まず一番に感じた 。 p264

にもかかわらず、なぜ捨て鉢の戦争が戦われたのか、つまりなぜ日本が真珠湾攻撃を仕掛けたのか、誰がどのようにしてその決断へと日本を導いたのか、他に選択肢はなかったのかーこうした「そもそも」の問題が、一般的に掘り下げられて論じられることは、少ないように感じられる。より多くの人が、自分たちの国が背負う歴史に対峙すべきという意味で、「真珠湾を忘れるな」は皮肉にも現代の日本人にこそ使われるべきスローガンなのかもしれない。  p233

<著者の戦後日本像>

最大の皮肉は、戦後日本の民主主義が、たくさんの命、そしてほぼすべての物を失ったすえに、やっと手に入れたものだった点だ。 p262

うーん。