いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

(おいらの中で)針生一郎と津村喬がつながった 、ビンゴ!、or, ”針生・津村塾”

2016年08月18日 19時48分44秒 | 日本事情

 愚ブログでたびたび言及している針生一郎(関連愚記事群)。主記事は、2015年春の仙台での『わが愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術 』愚記事)。その頃から針生一郎の本を少し読み始め、針生一郎が1973年というとっくに絶頂を過ぎた文革見学のため中国に行ったと知る(関連愚記事; 1973年針生一郎訪中ご一行さま11名のうち、あと1名がわからない

 一方、30年前から名前は知っていたが、ただのバカ左翼だろうと思って(関連愚記事;[呉智英]津村の問題だ。[絓秀実]津村の問題なんだよ。)、全くその本を読んだことがなかった津村喬。今では、1968年のイデオローグ[Google]とされているらしい。

なお、針生一郎は晩年のインタビューで、「美共闘だけじゃない全共闘のシンパあるいは元締めみたいに見られた時期がある」と回顧している。

針生:無本の本を読むというものの延長なんです。美術も演劇も。僕はかなり読むんですよね。絵なら絵、あるいはその作家の文章ももちろん。だから昔は美術 の方が手間と時間がかかるという感じだった。中間点を言えば、美共闘だけじゃない全共闘のシンパあるいは元締めみたいに見られた時期がある。例えば60年 安保あるいは70年のベトナム反戦運動、全共闘の頂点みたいなときには、僕は文芸評論家でも美術評論家でもなくて、政治思想を語るためにNHKとか朝日新 聞とかマスメディアの第一線に引っ張り出されるということが多かった。ところが浅間山荘事件というので、あれから全共闘の転向が始まったと言われますが、 マスメディアの方も、彼は全共闘寄り過ぎるというので、少なくとも政治や思想に関してはパージした。あるいは文学に関しても。だけども美術というのは、大 阪の万博あたりを契機としてその頃から企業メセナ、あるいは政府の文化芸術予算みたいなものがかなりあった。美術というのは一点売れれば100万くらいの 金が動いたりするので、コレクターあるいは美術館、パトロンが成立する場合に、資本や権力と無縁ではありえないわけだ。そういう社会制度にわたる面を論じ るのは、僕しかいないというところがあって、僕は浅間山荘前後だってテーマを自分で限定した覚えはないんだけど、むしろマスコミによって美術批評家として もりたてられたという実感がある。
(針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日)

さらには、『1968年の世界史』(出版元紹介site)という本において、「日本の68年 【「全共闘」・「美共闘」 の可能性と問題点】」という項を針生一郎が担当していると今知った。

ところが、1968年革命研究家の絓秀実さんの『革命的な、あまりに、革命的な』(略して、革あ革というらしいが)には、針生一郎の名は一度でるのみ。それも、赤瀬川原平の模型千円札裁判の弁護側証言者として、滝口修三、中原祐介とひとからげにされて言及されているのみである。一方、2012年の『反原発の思想史』には反博運動、つまり1970年の大阪万博反対運動に針生が関与していることなどが言及されている。つまりは、絓秀実さんの津村喬言及に比べ、針生一郎の扱いは軽い。


万博、裏の顔; でも、裏の顔があったとは、今回、実際に行って、初めて知った。

そして、ふたりは接点があったと知る;

 文化革命塾は七三年夏に、新日本文学会の講座として出発した。
 新日本文学会というのは敗戦直後にできた文学者の団体で、宮本百合子や中野重治が中心になってよびかけたものだ。つまり、共産党系の文学者団体としてできたものだった。それが六〇年代になって共産党の眼に余る政治主義的ひきまわしと対決して絶縁した。花田清輝が編集長として中心的な役割をしていた時期もあり、武井昭夫が強力なイニシャティヴを発揮していたときもある。
 私はたしか七一年ころに、深い考えもなく誘われて参加した。(中略)
 私がもう少し実感をもって新日本文学会にかよえたのは、文革塾の時期だった。文革塾「紀要」のあとがきから引用する。
 「針生一郎氏が、一時期隆興を見た大学解体=自主講座運動の全体としての退潮と日本文学学校[新日本文学会が運営する]の停滞の現実の中で、私塾運動が大きな意味をもちうるのではないかと提案したのがキッカケで、それをまず講座の形で実験してみようとしたのである。明治前半期には、官製普通教育を民権派の私塾派の私塾が圧倒していた。維新そのものが、既成のコミュニケーション秩序をうちやぶる教育革命なしにはなかった。今日における、われわれ自身の文化革命とはなんだろうかということを徹底的に語れる場をもつことで、次の時代への文化・教育戦線のありかたを展望してみたい、というのがこの新たな私塾運動の狙いであった。針生氏からのお誘いを受けて私も参加し、”針生・津村塾”として発足した。
津村喬、第5章 革命のメディアからメディアの革命へ、『全共闘 持続と転形』、1980年、五月社

それにしても、林彪が死に、毛沢東とニクソンが野合し、毛沢東主義を自称する連合赤軍による浅間山荘銃撃戦とその後に判明したリンチ殺人が明らかになった1973年に、まだ、文化大革命路線を信じていたのだ。