いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

①育ちすぎてはいけない;②山本市郎さんは秦城監獄にいたのではないか?

2014年05月07日 19時44分40秒 | その他

▼ ①育ちすぎてはいけない


トウの立った筍

▲②山本市郎さんは秦城監獄にいたのではないだろうか?

1973年の出来事についての山本市郎さんの回想;

 私は、正門の傍の事務所で、五年半前に預けた腕時計や煙草などを返してもらって、そのジープで、また東郊の工場へ帰ってきた。五年半もいたにしては、いやにあっけない帰り方であった。(中略)
 私は、この中にいたときは、一体、ここは北京のどの辺にあたるのだろうか、帰るときに、一つよく確かめよう、と思っていた。ところが、迎えにきた保衛科の科長は、私の仲のよい友人であったので、車に乗るや否や、二人で夢中になって、工場のその後の様子を語り合っていて、「あっ、いけない」とジープの幌から外を覗いたときは、車はもう東単(北京中心部の地名)を過ぎていた。「しまった」と思ったが後の祭りで、とうとう私は、五年半いた故郷の、正確な地理的位置を確かめずに帰ってきてしまった。
   山本市郎、『北京三十五年 下』、10 その後の北京、 五年半ぶりのシャバ

トウの立った筍とは全然関係ない話。山本市郎、『北京三十五年』 上、下を読むと、山本市郎さんは文革(文化大革命)期には、拘束されている。結局、五年半、「刑務所」に入れられた。拘束された理由は外国のスパイということだ。1968年の春に山本市郎さんが高級技術者として勤める工場が「奪権派」(=文革に乗った造反派)に支配される。そういう状況で、日本人である山本市郎さんはスパイ=「国際間諜」としてやり玉にあがった。ただし、この山本市郎、『北京三十五年』 上、下は一貫して「おとぼけ」で飄々としている。その基調はあの文革期の拘束、監禁という受難の経験もおとぼけで記述している。

1968年の出来事についての山本市郎さんの回想;

(前略)こんどは(「国際間諜」の山本さんを糾弾する労働者集会:いか@註)参加者たちに向かって、私の「罪状」を摘発するように何遍も呼びかけた。講堂を一杯に埋めた人びとは、しばらくは黙っていたが、そのうちに二人が手を上げた。
 一人は、「この前の休日に、天安門の前で、日本からきたらしい男と二人で、車で走り過ぎるお前を見たが、一緒に乗っていた、あの男はだれで、どこへ行ったんだ」ときいた。
 もう一人は、「毎晩、自宅で、日本から来た連中とおそくまで話していることが、近所の人との報告でわかっているが、何を話したのだ?その内容をみんな言え」といった。
 いくら質の低い大会でも、これでは摘発にも糾弾にもならない。主催者側は、形勢面白からず、とみて、あわてて閉会を宣言した。ただ、アンプにオーバーロードをかけて、さんざんピークを出しただけで、たいへん気勢の上がらない大会であった。
 それが終るとそのあと、この「国際大間諜」をほっぽり出しておくわけにはいかないので、正門の傍の門衛控え室を空け、そこへ私を閉じ込めて、二、三人番人がついた。

この後、山本さんはこの工場でひと月閉じ込められる。文革物語に必須の三角帽とか、遊街とか、ジェット機式腕のねじ上げとか、殴打とか、牛小屋とか全然出てこない。全然、積極的受難(習仲勲の受難、薄一波の受難 ; 積極的受難主義!)をしていないのだ。そして、持て余したのか、工場の「奪権派」(=文革に乗った造反派)の親玉が、山本さんを政府の公安部門に引き渡す。そして、山本さんは東交民巷(北京中心部の地名)から「窓にすっかりブラインドを下ろした黒いベンツ」に乗せられ、北京郊外に連れていかれる。そこは、立派な「刑務所」であった。前述のとおり、五年半この監獄で過ごすのだ。でも、この監獄生活も、「おとぼけ」で飄々としている基調で記されている。

毎日の食事も、たいへんよかった。
朝は、米から作ったお粥に、ゆで卵が三つか四つ付いて、それに中国式の醤豆腐(中略)が添えてあった。昼と夜は、季節の野菜と肉との中国式炒めものに、簡単な湯(汁物)で、主食は、饅頭か米飯かウドンを、適当に料理場の方で見はからって運んできた。いずれも量が非常に多く、私にはとても全部は食べ切れず、減らしてもらうのに苦労した。

結局、田中角栄が北京に来た1972年から丸1年して、山本市郎さんは釈放される。その場面が上述: 1973年の出来事についての山本市郎さんの回想;。この1980年に出版された本では、この場所がどこであったか最後まで書かれていない。山本市郎さんも後々、あそこがどこだか確かめることができなかったのであろうか?

そして、現在、おいらは気づいた。この山本市郎さんが五年半いた監獄こそ、秦城監獄ではないだろうか?


薄煕来が収監されると予想される「秦城監獄」の実態

 

wikipedia [秦城監獄]

揭密秦城监狱里贪腐高官们的监狱

上リンク in English

なお、秦城監獄は、北京市 昌 平  区にあるとされる。

伊藤律が拘束されていたのもここだ。

伊藤は1960年に秦城監獄に移送され、文化大革命中は軍隊の占領下で迫害を受けた。この間、伊藤は健康を悪化させ、右目と右耳がまったくきかなくなり、腎不全に罹患した。 (wiki

1979年に釈放されるまで、秦城監獄にいた。つまりは、山本市郎さんと伊藤律は同時期に秦城監獄にいたことになる。

しかしながら、当然、山本市郎さんは伊藤律には会っていない。もっとも、戦中に大陸に渡った山本市郎さんは、伊藤律って知らないし、彼の存在の意味がわからないだろう。そこで、山本市郎さんは伊藤律には会っていないとなぜわかるかというと、山本市郎さんは他の囚人には誰にも会っていないのだ。この監獄における管理の特徴は、囚人を管理する人々が囚人を他の囚人と会わせないことに細心を払っていたのだ。山本市郎さんは書き残している;

私が、部屋を出て構内を歩くときは、どこへ行くのでも、必らず前に一人と後ろに一人の番人がついてきた。はじめは、私を警戒するための番人と思っていたが、そうではなかった。私が、このなかにいる、ほかのお客さんと途中でぶつかって顔をあわせるのを防ぐためであった。これだけの広い構内に、これだけたくさんの建物が建っているのであろうから、長期宿泊のお客さんも相当いるはずであるが、五年半の滞在中に、私は、一度も彼らと途中で正面から顔をあわせたことがなかった。みな、この二人の番人のお陰であった。
山本市郎、『北京三十五年 下』、9 文化大革命期の北京

江青が拘束されて、結局自殺したのもここだ。


靴ヒモも結ばず… 中国誌が明らかにした江青女史の日常生活

▼ 続、①育ちすぎてはいけない

 後日、切り倒されていた;

■ 補遺

 北京三十五年は、円本=amazonで1円!である。 酔狂な支那通の御仁は、宜しく読むべし。