女性の美とはなんだろう?
最近美しくなることを目指そうと決意して、そういうことを考えていた。
そしていざその世界に入ってみようとちょっとでも調べてみると
エステに美容整形に、高級化粧品やらなにやら
いくらでも女性の美を応援し、そこにお金をかけさせるシステムがあるのに
この年になって今頃気づく。そしてもう一つやっと気づいた。
ちょっとでも美しくなるために、みんなそこまでお金をかけていたのかと。
それでもある時モデルさんたちが集まるイベントに参加して
彼女たちを眺めながら私は考えさせられた。
努力してお金をかければある程度の美は手に入るといえるだろう。
うまくお化粧することも、肌質改善することも、
脚をキレイに見せることも、髪の毛をふわっとさせるとも
技術とお金があればなんとかなる部分は大いにある。
でも だけど 気品だけは別なんだ。
そしてその場で痛感していた。気品はお金では買えないのだと。
今日は日頃からお世話になっている茶道の先生が
教授に昇格されたとのことで、そのお祝いの茶事が
帝国ホテルの茶室で開催された。あの帝国ホテルで
お茶会をするというのは誰にとっても特別なことであり、
先生も相当に気合いが入っていたのだろう。
今日の先生はいつものお茶会ともまた違い
びっくりするほど美しかった。
まるで「日本の美」というのをイメージ化すると
それがそのまま先生の姿になるかのように
立ち居振る舞いからお点前、ちょっとした笑顔に至るまで
先生は美しさそのものだった。
その美の姿は私が最近近づこうと試みていた女性の美とは異なっていた。
これまで私が見てきたもてはやされるような女性のよさは
スタイルが良く、胸も大きく顔は派手で背は高く、ハイヒールを履き
もちろんセクシーな魅力があって、外見的な魅力を武器に
男たちの目を惹きつける、そんな感じの女性像が「うまくいく女性像」として
様々なメディアに映っていた。
ところが先生の美は圧倒的だが、前述の美とは全然違った分類なのだ。
そしてそれを言い表せる言葉が見つからない。
皆先生の立ち居振る舞いやお点前に(後ろ姿しか見えなかったという
人でさえ)あまりの美しさに驚いていたというのに、
それを表現する言葉がでてこない。私は人間国宝のようだと言って
先生はそれを笑っていた。他の人は身も心もしびれたと言い、
なんて言い得て妙なんだ、と私はその人の表現力に驚いていた。
でも他に言葉が見つからない。あの美しさは一体なんといったらいいのだろう?
ひとつは引いた美学のようだった。
雑誌をきらびやかに飾るモデルのように
「私を見て!キレイでしょ!」という、息子に言わせると
「自分をスターだと思ってる感がハンパない」感じとは全然違う。
謙虚さ、控えめ、でも動きに一切無駄がなく、選んだものにも
一切の迷いやノイズがない。茶道の動きは計算されたマイナスの
美学だという人もいる。ややこしいように見えるお点前の順番も
実際にはそれが一番理にかなっている、無駄のない動きらしい。
先生には飾り立てたところが一切ない。着物も遠目で見ると
非常にシンプルで、振袖の真逆といえそうなほど柄がない。
白シャツを着こなせる人が少ないのと同様に、あれほど
シンプルな着物をきてこんなに美しく見せられる人も
本当に珍しいだろう。そういえば柳宗悦が言っていた。
井戸茶碗の美しさはその飾り立てない素朴な姿勢にあるのだと。
美を追求し、名声を求めていった茶碗のいかに醜いことか。
先生の姿はそれに通じるものがある。
きちんとした暮らしの積み重ね、きちんとした生き方の積み重ね。
そこからにじみ出るものがある。だから存在そのものが美しい。
飾り立てる美しさにはいつか飽きる日が来るかもしれない。
京都の街中によくある、お寺の財力を示す飾り立てた人工的な美しさも
数日見ているとだんだん疲れてくるものだ。
それに対して京都周縁部にあるお寺だと、もっと自然で
人の心を打つ美しさに出会いやすい。
雄大な自然と溶け合った奈良のお寺や、時とともにより味わいの増す
わびさびを感じさせる寺院のように、気をてらわず、落ち着いていて
来る人を包み込んでくれるような優しさと余裕がある
そんな美は美しいのにあたたかい。
美 というのは一体どこから来るのだろう?
世の中の多くの情報は外見を飾り立て、変えることを訴えている。
けれどパッと一瞬人の目をひく派手な美しさと
じんわりと人の心を打つような、いつまでも心に残り
また来たい、会いたいと思わせるような美しさは全然違う。
そしておそらく先生が茶道の先生であることからも、
それが日本文化が本来持っており、ジャポニズムの頃に
世界を震撼させた美なのだろう。
それは浅草の多くの土産物屋の嘘くささとも異なっている。
飾り立てて白く塗りった舞子さんの美とも異なっている。
茶禅一味。茶は本来は禅と切っても切り離せない関係だ。
禅は本来多くのものを所有しないし、身体とともに魂を鍛えていくわけだ。
だから茶の美、というのは禅寺の美に通じているのだろう。
観光客向けでない真の禅寺は、きっと真実を追求しているから
美しい。噓いつわりでもその場かぎりのごまかしでもない、
先生の口癖である、「きちんと」大切なことをごまかさずに
「きちんと」日々を重ねていく。そのことで生まれる
人ととなりの美しさが、服から滲み出ているのかもしれない。
気品だけでなく 美しさとは きっと存在そのものから
滲み出るものなのだろう。小手先の美でも気をてらったものでもない美
日本にその伝統があるのなら それを失ってはいけないと思う。
私は本当に驚いた。こんな美がまだあるのなら、
それは守り伝えなければいけないだろう。
先生の美は日本の職人さんの美に通じるものがある。
真実を追求し、自分が本当にいいと思ったものに
一心にどこまでも向かっていく。
メディアにもてはやされるのでも、パッと華々しく人目をひくのでもない
日本の独特の美しさ。もっと大事にしたいと思う。
最近美しくなることを目指そうと決意して、そういうことを考えていた。
そしていざその世界に入ってみようとちょっとでも調べてみると
エステに美容整形に、高級化粧品やらなにやら
いくらでも女性の美を応援し、そこにお金をかけさせるシステムがあるのに
この年になって今頃気づく。そしてもう一つやっと気づいた。
ちょっとでも美しくなるために、みんなそこまでお金をかけていたのかと。
それでもある時モデルさんたちが集まるイベントに参加して
彼女たちを眺めながら私は考えさせられた。
努力してお金をかければある程度の美は手に入るといえるだろう。
うまくお化粧することも、肌質改善することも、
脚をキレイに見せることも、髪の毛をふわっとさせるとも
技術とお金があればなんとかなる部分は大いにある。
でも だけど 気品だけは別なんだ。
そしてその場で痛感していた。気品はお金では買えないのだと。
今日は日頃からお世話になっている茶道の先生が
教授に昇格されたとのことで、そのお祝いの茶事が
帝国ホテルの茶室で開催された。あの帝国ホテルで
お茶会をするというのは誰にとっても特別なことであり、
先生も相当に気合いが入っていたのだろう。
今日の先生はいつものお茶会ともまた違い
びっくりするほど美しかった。
まるで「日本の美」というのをイメージ化すると
それがそのまま先生の姿になるかのように
立ち居振る舞いからお点前、ちょっとした笑顔に至るまで
先生は美しさそのものだった。
その美の姿は私が最近近づこうと試みていた女性の美とは異なっていた。
これまで私が見てきたもてはやされるような女性のよさは
スタイルが良く、胸も大きく顔は派手で背は高く、ハイヒールを履き
もちろんセクシーな魅力があって、外見的な魅力を武器に
男たちの目を惹きつける、そんな感じの女性像が「うまくいく女性像」として
様々なメディアに映っていた。
ところが先生の美は圧倒的だが、前述の美とは全然違った分類なのだ。
そしてそれを言い表せる言葉が見つからない。
皆先生の立ち居振る舞いやお点前に(後ろ姿しか見えなかったという
人でさえ)あまりの美しさに驚いていたというのに、
それを表現する言葉がでてこない。私は人間国宝のようだと言って
先生はそれを笑っていた。他の人は身も心もしびれたと言い、
なんて言い得て妙なんだ、と私はその人の表現力に驚いていた。
でも他に言葉が見つからない。あの美しさは一体なんといったらいいのだろう?
ひとつは引いた美学のようだった。
雑誌をきらびやかに飾るモデルのように
「私を見て!キレイでしょ!」という、息子に言わせると
「自分をスターだと思ってる感がハンパない」感じとは全然違う。
謙虚さ、控えめ、でも動きに一切無駄がなく、選んだものにも
一切の迷いやノイズがない。茶道の動きは計算されたマイナスの
美学だという人もいる。ややこしいように見えるお点前の順番も
実際にはそれが一番理にかなっている、無駄のない動きらしい。
先生には飾り立てたところが一切ない。着物も遠目で見ると
非常にシンプルで、振袖の真逆といえそうなほど柄がない。
白シャツを着こなせる人が少ないのと同様に、あれほど
シンプルな着物をきてこんなに美しく見せられる人も
本当に珍しいだろう。そういえば柳宗悦が言っていた。
井戸茶碗の美しさはその飾り立てない素朴な姿勢にあるのだと。
美を追求し、名声を求めていった茶碗のいかに醜いことか。
先生の姿はそれに通じるものがある。
きちんとした暮らしの積み重ね、きちんとした生き方の積み重ね。
そこからにじみ出るものがある。だから存在そのものが美しい。
飾り立てる美しさにはいつか飽きる日が来るかもしれない。
京都の街中によくある、お寺の財力を示す飾り立てた人工的な美しさも
数日見ているとだんだん疲れてくるものだ。
それに対して京都周縁部にあるお寺だと、もっと自然で
人の心を打つ美しさに出会いやすい。
雄大な自然と溶け合った奈良のお寺や、時とともにより味わいの増す
わびさびを感じさせる寺院のように、気をてらわず、落ち着いていて
来る人を包み込んでくれるような優しさと余裕がある
そんな美は美しいのにあたたかい。
美 というのは一体どこから来るのだろう?
世の中の多くの情報は外見を飾り立て、変えることを訴えている。
けれどパッと一瞬人の目をひく派手な美しさと
じんわりと人の心を打つような、いつまでも心に残り
また来たい、会いたいと思わせるような美しさは全然違う。
そしておそらく先生が茶道の先生であることからも、
それが日本文化が本来持っており、ジャポニズムの頃に
世界を震撼させた美なのだろう。
それは浅草の多くの土産物屋の嘘くささとも異なっている。
飾り立てて白く塗りった舞子さんの美とも異なっている。
茶禅一味。茶は本来は禅と切っても切り離せない関係だ。
禅は本来多くのものを所有しないし、身体とともに魂を鍛えていくわけだ。
だから茶の美、というのは禅寺の美に通じているのだろう。
観光客向けでない真の禅寺は、きっと真実を追求しているから
美しい。噓いつわりでもその場かぎりのごまかしでもない、
先生の口癖である、「きちんと」大切なことをごまかさずに
「きちんと」日々を重ねていく。そのことで生まれる
人ととなりの美しさが、服から滲み出ているのかもしれない。
気品だけでなく 美しさとは きっと存在そのものから
滲み出るものなのだろう。小手先の美でも気をてらったものでもない美
日本にその伝統があるのなら それを失ってはいけないと思う。
私は本当に驚いた。こんな美がまだあるのなら、
それは守り伝えなければいけないだろう。
先生の美は日本の職人さんの美に通じるものがある。
真実を追求し、自分が本当にいいと思ったものに
一心にどこまでも向かっていく。
メディアにもてはやされるのでも、パッと華々しく人目をひくのでもない
日本の独特の美しさ。もっと大事にしたいと思う。