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2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(1)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 主として『レイテ戦記』に基づき、一部他の資料から補足しながら、レイテ戦における第26師団の動きを追跡してみる。

<符号>
 A:軍、野砲兵聯隊。Ab:砲兵大隊。As:独立砲兵聯隊。B:旅団。Bs:独立混成旅団。D:師団。FA:航空軍。FL:野戦病院。i:歩兵聯隊。ibs:独立歩兵大隊。is:独立歩兵聯隊。K:騎兵聯隊。KD:騎兵師団。P:工兵聯隊。SO:捜索聯隊。T:輜重兵聯隊。ⅠⅡⅢ:大隊番号。
 【今堀】:今堀支隊の動向、【斎藤】:斎藤支隊の動向、【重松】:重松大隊の動向、■日本軍の概況、○米軍の概況、【US】:米軍の動向。
 なお、『レイテ戦記』にならい、「聯隊」の表記は日本軍に、「連隊」の表記は米軍に適用する。

<出典>
 文末の(04)・・・・以下は、『レイテ戦記の』各章である。(04) 「4 海軍」、(09) 「9 海戦」、(12) 「12 第1師団」、(13) 「13 リモン峠」、(14) 「14 軍旗」、(15) 「15 第26師団」、(16) 「16 多号作戦」、(17) 「17 脊梁山脈」、(18) 「18 死の谷」、(19) 「19 和号作戦」、(20) 「20 ダムラアンの戦い」、(21) 「21 ブラウエンの戦い」、(22) 「22 オルモック湾の戦い」、(23) 「23 オルモックの戦い」、(24) 「24 壊滅」、(25) 「25 第68旅団」、(26) 「26 転進」、(27) 「27 敗軍」、(28) 「28 地号作戦」、(29) 「29 カンギポット」、(30) 「30 エピローグ」。
 また、<年>は太平洋戦争年表(『レイテ戦記』巻末)、<重>は「重松大隊の戦記」、<雨>は「第一師団戦闘行動経過表」。

------------------------------------
 ■師団長幕僚以下、高級将校は皆戦死しているから詳しいことは伝わらない。ただし、聯隊ごとの戦記は比較的早く、昭和33年に刊行されている。(15)
 ■「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」(15)
 ■マスバテ島漂着部隊とは、レイテ島へ輸送中に空襲を受けてマスバテ島に避難し、終戦時まで山中に残った部隊約200名のことである。(15)

【昭和10年】
2月
 ■熱河省で歩兵2個連隊を基幹として11Bsが編成された。(15)

【昭和12年】
10月
 ■11Bsは、静岡から名古屋、岐阜にいたる東海、中部地方の第3師団管区から現役兵をもって補充され(下士官は主として久留米)、師団に昇格した(26D)。11is、12is、13isを基幹とし、歩兵各聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、「山西省の八路軍と対峙、対ゲリラ戦の経験を持つ歴戦の部隊であった」(15)

【昭和18年】
10月20日
 ■16D20i、レイテ島討伐。<年>

【昭和19年】
3月8日
 ■インパール作戦開始(7月退却)。<年>

3月12日
 ■牧野中将(16D長)、D司令部(ルソン島ロスバニヨス)に着任。<年>

4月13日
 ■16D司令部、レイテ島進出。<年>

6月9日
 ■マリアナ沖海戦。<年>

7月初旬~
 ■1Dと同じく対米作戦参加の内命を受けた26Dは、対戦車肉薄攻撃、輸送船舷側の昇り降りなど、南方派遣部隊としての訓練を行った。(15)

7月7日
 ■サイパン島の日本軍全滅。<年>

7月13日迄
 ■原駐地厚和、大同に集中を終わった。(15)

7月24日
 ■捷号作戦が決定された。うち、捷1号は比島を対象とする。(04)
 ■比島派遣14Aが昇格して第14方面軍となり、26D(蒙彊)、8D(満州)、戦車第2師団が戦闘序列に入った。ルソン島中南部の防備を強化するためである。(04) また、ビサヤ、ミンダナオ方面の警備に当たっていた師団、混成旅団を集めて35Aを創設した。35Aは第14方面軍の隷下に入った。(04)
 ■1D(満州)は上海に移された。状況によって、随時、比島あるいは南西諸島に派遣できるよう準備された。(04)

7月28日
 ■鉄路釜山に着いた。そこで師団長が交替した。山県栗花生中将が転補された。(15)
 ■第14方面軍、第35軍新設。<年>

8月8日
 ■26Dは輸送船「玉津丸」「日昌丸」等(8隻、(12))に乗船した。(15)

8月9日
 ○米軍、ダバオ空襲(撤退後初めての攻撃)。<年>

8月10日
 ■九州の伊万里湾で30数隻の大輸送船団を組んで出航した。台湾の馬公を出る時は、改装空母「大鷹」ほか12隻の護衛が付いた。(15)
 ■バシー海峡で、敵潜水艦により、護送空母「大鷹」、駆逐艦1、輸送船6が撃沈された。この頃、目的地に到達するもの平均45%という数値になっていた。(12)

8月22日
 ■ルソン島マニラに着いた。1Dより早い。当時、マニラの状況はそれほど悪化していなかった。(15) 26Dの任務は、リンガエン湾から東海岸バレル湾にいたる中部ルソンの警備だった。(15) しかし、給養はきわめて悪く、副食は腐ったような水牛の塩汁ばかりだったので、下痢患者、栄養失調者が増えた。移動中、道傍の養魚場の魚をとろうとして、補充兵の警備員に叱られたりした。(15)
 【重松】重松大隊(Ⅲ/13is、大隊長重松勲次少佐)、マニラ港入港。停泊すること1日半で下船。リンガエン湾の警備に就いた。<重>

8月27日
 【重松】中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐。警備と演習に明け暮れた。<重>

9月9日
 ○ダバオ大空襲。<年>

9月17日
 【斎藤】齋藤二郎大佐、海没した安尾大佐の後任として、聯隊長(13is)に着任。<重>

9月21日
 ○ルソン島に第1回目の大空襲があった。<年><重>

9月25日
 ○米軍、ペリリュー島上陸。<年>

9月29日
 ■グアム、テニアン両島の日本軍全滅。<年>

10月6日
 ■第14方面軍司令官山下大将着任。<年>

10月8日頃~10月7日
 ■マニラ集結命令。<重> 26D主力はマニラ付近に集結した。しかし、最初に出た命令は、波止場の荷揚げ作業であった。「こうして26師団の兵士たちは、決戦参加に先立ち、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた」(15)

10月10~14日
 ■<台湾沖航空戦><年>

10月17日
 ○米レンジャー部隊、スルアン島上陸。<年>

10月19日
 ■捷1号作戦発令。神風特別攻撃隊編成。<年>

10月20日
 【US】米軍、レイテ上陸。<重>
 ■大西滝治郎中将(第1航空艦隊司令官)、特攻を決定。<年> ○米軍、レイテ島上陸(1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸)。<年>
 ■16D(牧野四郎中将)など約2万が配備されているのみ。師団司令部のあるタクロバン正面は手薄、敵上陸第1日で通信網を寸断され、集積物資の多くを失った。→戦況は上級司令部には伝わらなかった。(レイテ決戦決定)<年>

10月24~26日
 ■レイテ沖海戦(09)

10月26日
 ■レイテ島進出の命令が26Dに下った。(15)

10月28日
 ■レイテ島輸送の「多号作戦」が正式に決定された。(15)

10月30日迄
 ■26Dの諸隊は軍装検査を終えた。(15)

10月31日
 【今堀】26Dの先遣部隊、今堀支隊(12is(Ⅱ欠)1,000名、(12))は、1Dとともに出航した。(15)

11月1日
 ■1D(片岡薫中将)主力、オルモック上陸。<年>

11月1~4日
 【今堀】11月1日朝、今堀支隊は、1Dとともにオルモックに到着。午後のうちに上陸を完了した。(12) 今堀支隊所属の野砲4門も上陸した。(17) 今堀支隊は、ドロレスから、水と食糧を求めてまずダナオ湖をめざした。(17) ダナオ湖は、ドロレス=ハロ道から約2キロ南、周囲6キロ、湖面標高800メートルで、折しも雨季と悪路が重なり、ゲリラの襲撃とあいまって苦難の行程だった。(17) 「作戦する前から、蛙やとかげを探さなければならないとは悲惨」な状態だったが(17)、脊梁山脈を越えて(15)、ダナオ湖からハロ側へ3キロ下り(17)、「今堀支隊は脊梁山脈中の小径を抜けて、4日までにハロを見下ろすラアオ山に進出し、後続の師団主力の到着を待っていた」(12)

11月2日
 ■第35軍司令官鈴木中将、レイテ島進出。<年>

11月2日頃
<ダムラアンの戦い>
 ■先着41i(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、1個大隊がブラウエン道に先遣されたが、主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月3日~
 【今堀】11月3日以来、今堀支隊はハロ西方のラアオ山上にあって、4日以来(13)ハロの米長距離砲陣地に斬り込み隊を送り(21)、155ミリ長距離砲を破壊した(17)。 今堀支隊と10キロ離れた552高地に第1聯隊(1D)が東南2キロにわたって展開し、その西北「三ツ瘤高地」東南の脊梁山脈に49聯隊(1D)が展開していた。(13)
 【US】今堀支隊と対峙したのは、米24Dである。(14) オルモック東北方、ラアオ=マムバン山の線で、ハロの米1KD(後に24D)と対峙した。(23) なお、今堀支隊所属の野砲1個大隊は、山路運搬不能なので、ドロレスに待機し、ダムラアンの戦いに加わった。(20)

11月4日
 【重松】102D所属の1個中隊が加わった。徒歩道打通のため師団工兵も加わっていた。(21)

11月5日
 ■○<リモン峠にて日米交戦><年>

11月7日
<ダムラアンの戦い>
 ■35Aは、とりあえずオルモックにあった364大隊(55B、10月27日上陸)の1個中隊をカモテス海に沿って南下させたが、撃退された(10日までに)。(20)

11月8日
 ■最高戦争指導会議、レイテ決戦続行決定。<年>

11月8~11日
 ■「多号作戦」第3次、第4次輸送が実施された。(15)
 ■11月8日に組んだ船団は、11月1日に1Dの輸送を成功させた方式を踏襲したものだった。輸送船は26Dを乗せた「金華丸」「高津丸」「香椎丸」を主体とした。(14) 11月8日から9日にかけて、1Dの追求部隊は1,500トン級輸送船3に乗って先発した。荒天を利用し、22ノットの高速を生かして、素早く軍旗及び人員の輸送に成功した。(14) 9日、26D主力、オルモック上陸。
 【重松】11日払暁を期し上陸すべき準備をしたが、夜明けとともに米海軍機が反復攻撃、艦艇発動機故障等により不成功となり、携行兵器のみで上陸。オルモック街道を急遽。師団主力とともにドロレス(オルモック北方)付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。<重> 重松大隊は重機関銃以下を揚陸し、後に迫撃砲6門増加。<重>

11月9日
 ■レイテ島は雨季に入った。<雨> この年のレイテ島の雨は例年より多かったと言われる。(21)

11月9日
 【US】午後、「米軍が絶対優勢にあるレイテの空の下では信じられないことだが、3隻の日本快速輸送艦がオルモック港に着き、1,000名以上の新手部隊の揚陸に成功した。さらに大型輸送船3、護衛艦多数よりなる別の船団が、レイテ西岸を南下、第5空軍の攻撃にも拘わらず1隻も撃沈されずにオルモック湾に入った」という「ぞっとするような報告」を米第6軍司令官クルーガー中将は受けた。これは軍旗とともに主力を追求中の1Dの残部3大隊と26Dの主力であった。(13)
 ■しかし、平均速度12ノットの本隊の方は、11月1日のようにはうまくいかなかった。レイテ島周辺の航空状況は9日の間に一変していた。(14) 「残念ながら26師団を乗せた輸送船団は、米機の爆撃と大発の不足により重火器を揚陸出来ず、兵員1万を上陸させることが出来ただけだった」(13) 上陸した26Dの兵士約1万名は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった。(16) 重火器、トラックと燃料その他軍需資材(6,600トン、(16))多数は揚陸できないまま、輸送船は撃沈された。「この日からレイテ島の補給は枯渇し、敗勢が現れてくる」(14)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■先遣今堀支隊のいるラアオ山からハロへの溢出が予定されていた26Dは、方面軍命令により、急遽1個大隊(重松大隊)をアルブエラ方面へ派遣した。マホナグ、ルビを通る土民道によって脊梁山脈を越え、ブラウエン方面の偵察と攻撃準備を行うためである。(16)
<ダムラアンの戦い>
 【US】この頃、米7師団の先鋒1個大隊がアルブエラの南20キロのダムラアンまで北上していた。(16)
 ■「この敵と対抗しながら、ブラウエン攻撃を実施するという面倒な任務が、手ぶらで上陸した26師団に課せられることになるのである」(16) 11月2日にバイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。オルモックに対する直接の脅威なので、後にこれに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ダムラアンの戦い>
 【US】バイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。(20)

11月12日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】オルモックに対する直接の脅威なので、これに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■14方面軍は、「和号作戦」を35Aに下達。35軍は、26Dにアルブエラ~ブラウエン方面へ指向せよと命令した。26D主力はダムランを目指して進撃を開始した。<重>
 【重松】山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21) 夕刻、重松大隊は、和号作戦先遣隊としてイピル地区出発。タリサヤン川南岸を東進した。 <重> 11月13日~15日の間に、山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21)

11月13日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26Dの井上大隊(Ⅱ/12is)がダムラアン方面へ派遣された。(20) バイバイの敵の北上は35Aにとってさしあたり脅威であった。1個大隊(13is)がダムラアン方面に派遣された。(17)

11月14日
 ■26Dはオルモックに到着した。(17)

11月15日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊、マホナグ着。
 【斎藤】井上大隊の半分がカリダード付近で、他の半分がパラナス川付近で交戦した(互いの兵力を確かめ合った程度)。(20) 同日夕、13is主力(Ⅰ、Ⅱ)はイピルを出発、タリサヤン川(パラナス川の北7キロ、ブラウエンに向かう山径の分かれるところ)に向かった。(20) 1個大隊(13is)の先頭はパラナス川北岸に達し、米軍の先鋒と接触した。(17) 川岸から1キロ退いて、稜線に陣地を構築した。13isは野砲4門の配属を受け、アルブエラの南に布陣した。(17)

11月17日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】先遣井上大隊(Ⅱ/12is)は、斎藤大佐の指揮下に入り、斎藤支隊主力はパラナス川の線に進出した。(20) 斎藤支隊は、バイバイからカモテス海沿岸を北上中の米7Dの先頭とダムラアン(オルモック南方20キロ)で接触した。(19) 米軍の勢力は増大する傾向にあるので、さらに1個大隊を増強された。これは当時イピルにあった26Dの全力である。(19) 【重松】<ブラウエンの戦い>ルビ着。(21) 重松大隊は、マリトボから山に入り、脊梁山脈を越えて、その先頭は11月17日、全隊は22日、ブラウエンの西4キロの287高地に達した。(21) 287高地は、ブラウエンの西4キロ、ブラウエンの南でレイテ平野に溢出し、東流してドラグで海に入るダギタン川上流左岸の要地である。(21)

11月20日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】ルビ南東2粁に進出。この時一部の敵と遭遇し、これを撃退した。<重>

11月21日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】軍命令、26Dはアルブエラ方面の敵をカリダート以南に撃攘すべし。(20)

11月22日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊の尖鋭中隊は、287高地(ブラウエン西方10キロ)に進出した。(19) 重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊200名、102D)を掌握。<重>
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部はマリトボ(タリサヤン川南)に前進、作戦指導に万全を期した。(20)

11月23日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米第511降下連隊(1個大隊欠)はブラウエンを出発した。ダギタン川を遡行して脊梁山脈に入った。ダムラアンから北上する米第7師団と対峙する日本兵の背後を衝く作戦部隊だが、山中で散り散りになってしまった。しばしば26Dと交戦したが、統一指揮を失って分隊毎に単独行動をとったので、日本兵の損害も大きくなかった。(21) 当時西海岸にあった米軍の全兵力は、歩兵3個大隊、軽戦車1個小隊(2台?)。火力はリモン峠方面とは比較にならないほど貧弱なもので、11月23日時点で総数14門であった。砲兵はすべて前線から1,500ヤード後方、ダムラアン(オルモックの南20キロ)の町の南のバガン川の両岸に集結していた。(20)

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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(2)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
11月23日
<ブラウエンの戦い>
 ■第4航空軍は、「天号作戦」を発令した。「天号作戦」は、ふつう、後に沖縄戦の段階で行われた特攻作戦の総称である。「『決号作戦』『天号作戦』など、後に陸海軍の終末的決戦の名称が、レイテ戦の段階で現地軍によって使われているところに、決戦の気構えが窺われる」(19) 高千穂空挺隊による「天号作戦」も薫空挺隊と同じ飛行場殴り込み作戦だが、胴体着陸ではなく、落下傘降下による正攻法である。(19)
 ■南方総軍は、「和号作戦」を発令した。(19) 「天号作戦」が実施される翌日、26Dの1個大隊(=重松大隊)及び16Dの残部1,600名が飛行場を攻撃、確保する。あとから26D主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦果を拡大する、というもので、決行日を12月5日から10日までの間とした。(19) 「和号作戦」は、地上軍の作戦の呼称で、「天号作戦」と結合した全体がブラウエン攻略作戦である。(19) この頃、26D主力はまだ必要な軍需品を受け取っていない。(19)
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】斎藤支隊の実数は2個大隊、これに対する米軍も実施2個大隊であった。(20) 兵力は2個大隊ずつでほぼ均衡し、米軍の火砲数と補給が十分でなかたので、日本側が攻勢に出て、1週間にわたる激戦となった。斎藤支隊は、レイテ戦の経過中、もっとも巧みな戦いを戦った。(20) 1830、パラナスの戦いは26Dの砲撃から始まった。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■「リモン=バイバイ間100キロの間には、スペイン統治時から、山越えの徒歩道が二つあった。一つは26Dの先遣今堀支隊が通った道で、オルモック北方5キロのタンブコから右に切れ、ダナオ山の裾野中のドロレスを経て、アルト山(1,550メートル)の北を通って、ハロへ出る約30キロの道である。支隊は11月4日までに、ハロを見下ろすラアオ山(1,000メートル)マムバン山(1,300メートル)の中間の線に進出した」(17)
 ■「もう一つの脊梁山脈越えの山径は、オルモック南方10キロの町マリトボから、タリサヤン川を遡り、山中のルビを経て、ディナガット川の上流に降り、ブラウエンに出る20キロの道である。これも古い道であるが、脊梁山脈はこの辺では最も厚い。川は深い峡谷を付くって、道は錯綜している。むろん砲車は通行不能で、せいぜい山砲を分解すれば搬送出来ないことはないという程度である」(17)
 ■だが、この道があったからこそ、ブラウエン斬り込み作戦が採用されたのだ。(17) 作戦は、第4航空軍と協力して空挺部隊を降下させ、16Dの残兵、アルブエラから山越えに進出する26D主力とともにブラウエン地区の三つの飛行場を占拠するというものだった。「その規模は雄大、日本的奇襲の観念にも適い、レイテ戦の掉尾を飾るにふさわしい作戦であった。ただそれを遂行する兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった」(17)
 ■方面軍は予想もしなかったが、山道は荒廃して殆ど存在せず、徒歩道を作ることすら困難な状態だった。(21)
 ■26Dは、上陸以来工兵隊をアルブエラに派遣して、海岸道路に平行した野道を野砲道に改造しようとしていた。しかし、雨に妨げられて工事は進捗せず、作戦に間に合わなかった。「和号作戦」は砲兵を持たない斬り込み作戦なのであった。(21)  先着41聯隊(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、重松大隊(Ⅲ/13is/26D)がブラウエン道に先遣された。26D主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■26Dは、師団司令部をイピル(オルモックの5キロ南方)に置き、オルモック南部の警備を兼務としつつ、次期作戦準備に専念した。(20) 「26師団の上陸によって、レイテ島上の陸軍兵力は45,000になった。当時定められていた1個師団の1日の補給量は、糧秣、弾薬、ガソリン等合計150である(そのうち100-120トンは弾薬)。3個師団が戦闘するためには、毎日少なくとも450トンが揚陸されなければならない。ところが第2次輸送(第1師団主力)が、予定量1万立方メートルを揚陸しただけで、以後12月末までに6,500立方メートルしか揚陸していない」(16)
 ■「糧食は3個師団分で1日3食とすれば白米50トンである。マニラから積み出した白米7,000トン、そのうち到着したのは1,000トン、20日分にすぎない。しかもその多くは陸上輸送力不足のため、オルモックに集積されたままで、前線に届かなかった。かりに輸送がうまく行ったとして、途中輜重兵、部隊幹部のピンはねによって、最前線に届くのは出荷量の10分の1というのが軍隊の相場である。前線の歩兵部隊が、飢餓によって戦闘力を失って行ったのは当然であった」(16)
 ■「しかし揚陸に成功した場合でも、トラック不足のため、オルモック、フアトンに蓄積されたまま、敵の爆撃の目標になるだけだった。最後にはオルモック逆上陸によって、敵に鹵獲されることになる」(16)
 ■レイテ戦続行のためには有効な補給が必要であり、そのため東海岸の飛行場を奪回しなければならない。かといって、カリガラ方面を迂回している余裕はない。かくて、方面軍作戦は、12月7日のブラウエン斬り込み作戦となって実現するところの敵航空基地撃破に向かって進んだ。(16)

11月24日
 ○米B29、東京初空襲。<年>

11月25日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】1個小隊が東方2キロのブラウエン背後の205高地まで潜行し、別の1個中隊は東南方3キロの327高地に着いて右側を偵察した。(21) 同日、マタグパ、パグフドラン東方高地で米軍と交戦した。(21) 11月下旬、補給不十分なまま米第511連隊と交戦を重ねたあげく、多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出た。(21)
 【今堀】今堀支隊の川上少尉がダガミの16D司令部に連絡に行った。その時点での16Dの状況の報告が「レイテ戦史」に記録されている。16Dはすでに1か月間山籠りし、マラリヤ、下痢、栄養失調で死亡病臥する者多く、この頃では1日の人員消耗数75名に達していた。(21)

11月26日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】夜、米軍陣地を一気に抜く好機が生じたが、「ただ理由のわからない米軍の退却に戸まどいし、直ちに戦果を拡大して完全勝利に持って行く判断をする将校がいなかった」(20) 「逸機」である。9日に輸送船で多数の中隊長が戦死したのが打撃だったといわれる。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■26D司令部は、南方へ移動するとき、イピルの国道西側にあった砂糖工場に書類を埋めた。(22)

11月26~27日
 ■薫空挺部隊、ブラウエン方面に強行着陸。<年>

11月27日
 ■ペリリュー島の日本軍抵抗終わる。<年>
<ブラウエンの戦い>
 【重松】「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告。山に入ってすでに半月経ていた。補給は十分でないから、この頃は多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出ていた。同日1230~1800、「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告した。ダキタン川渓谷に沿う小高地を巡って米511iと苦闘。<重>

11月27-28日
 ■多号第6次輸送。これより、「26師団は、上陸16日目にやっと弾薬と食糧を支給された」(19)

11月28日
 ■35Aは、「和号作戦」を下達。(19) この頃26D司令部は斎藤支隊の作戦指導のためマリトボに移動していたが、「ブラウエン方面専念」の命令を受けた。(19)
 ■35Aは、最初ブラウエン作戦に批判的だったが、作戦決定の上は総力をあげて実施体勢を整えていた。成功すれば東海岸の米軍航空兵力は著しく減退し、輸送状況が改善されるはずだから、レイテ戦の主導権奪回のための必死の作戦といえる。(19)
 ■しかし、この場合も障害は情報の不足だった。米軍はブラウエン地区の3飛行場のうち、サンパブロは11月23日に、ブリ、バユグは11月30日に放棄し、新たな飛行場をタナウアン海岸に建造中だった。日本軍はそれを知らなかった。(19)
 ■ブラウエンへの「突入は一応成功したが、残念ながら、労多くして効少なき結果となった。レイテ島東海岸の米空軍に何ほどの打撃を与えることが出来なかったのである」(19)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米軍には部隊の交替があった。(20)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 ■26Dでも戦線整理が行われた。(20)
<ブラウエンの戦い><ダムラアンの戦い>
  【斎藤】「和号作戦」決定に伴い、井上大隊(Ⅱ/12is)残部はブラウエン作戦参加のためルビへ転進を命じられ、支隊主力には以後、カモテス海に沿った本道に縦深抵抗を行う任務を課せられた。(20)

11月28日~30日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】13isは支隊戦闘指揮所と共にアルブエラ東南の185高地(606高地)に集結していた。正面の米軍の阻止を命じられたのはⅡ/11isであるが、その打6中隊は全滅、第5中隊も激減している。第8中隊がバロゴ東方へ撤退した時、兵力は半分に減っていた。(20)

12月1日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部がブラウエンに向かってからは、野砲、工兵、輜重、その他カモテス海沿岸の諸隊は、斎藤大佐の指揮下に入った。大佐が与えた命令は、国道を見下ろす諸高地の「死守」であった。(20)
<ブラウエンの戦い>
 ■夕刻、「和号作戦」実施の命令を受けた35Aは、オルモックを立って、イピルに一泊した。同日、マリトボにあった26Dも脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。(21)
 ■カモテス海側を北上する米第7師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進する。側敵行進という最も危険な作戦だが、第35軍は乾坤一擲の奇襲で主導権を奪い返そうとしたのだ。(21)
 ■だが、26Dは実質2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(Ⅲ/13is)はすでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアン方面でさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲を持たず、斬り込み程度の効果しか見込めなかった。(21)
12月2日 <ブラウエンの戦い>
 ■35A司令部はイピルを発し、正午、5キロ南のマリトボに着いた。鈴木35A司令官は、所定の5日には26Dはブラウエンを攻撃できない、7日に延期してくれ、と方面軍に懇請した。しかし、6日には68Bを乗せた第8次多号輸送船団がマニラを出発する。ために米航空兵力に一撃を与えておかねばならない、と方面軍は鈴木司令官の要請を拒否した。(21)

12月3日
<ブラウエンの戦い>
 ■工兵聯隊長の指揮する1個小隊は287高地を確保。重松大隊主力は205高地を進出中で、その一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中(詳細不明)。野中集成大隊(10月末オルモックに到着した30D77iの一部を基幹に当時オルモック周辺にあった雑軍を集成)は、0430ルビ着、1500、287高地に前進。井上大隊(Ⅱ/12is)は、夕刻、ルビ着(予定)。(21)
 26D戦闘司令所は4日午後287高地に前進予定。しかし、師団主力は、作戦準備完了予定日の3日、まだルビにあり、軍司令部も到着していなかった。(21)
 【重松】205高地付近を進出。6日、ブラウエン飛行場に40組の斬り込み隊を投入予定。(21) 一部は327高地(ブラウエン南方5キロ)を前進中。(21)

12月5日
<ブラウエンの戦い>
 ■ルビの軍司令部に到着した方面軍派遣参謀田中光祐少佐は、周辺を視察してぞっとした。飢餓に瀬している26Dの兵士たちは、「いずれも眼ばかり白く凄味をおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」(21) これは師団主力ではなくて先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況であった。「やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍が似たような状況に陥る」(21)

12月6日
<ブラウエンの戦い>
 ■朝、「ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、16師団の名誉でなければならない」(21)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】払暁、サンパブロに突入できるのは重松大隊だけだったが、「これは11月17日以来、すでに20日間山中にあって、米兵と交戦していた部隊である。糧秣はとっくに尽き弾薬は不足していた」(21) 夜、重松大隊は「予定通り突入」という報告を師団司令部に電報したまま、連絡を断った。(21)
 【重松】26Dの僅かな生還者の話では、重松大隊将兵は出発時に自分の持っている幕舎まで焼いて帰らぬつもりで出発した。しかし斬込み後若干は帰ってきた。しかし、飢餓のためもう体力の限界で動けない者が多かった。<重>

12月6日
 【US】米11空挺師団の511連隊(1個大隊欠)は、11月25日以来ブラウエン攻略作戦部隊と交叉して山中を西進していたが、その先頭がマホナグ(カモテス海を見下ろす)に進出した。それから26Dと混戦になった。(27)

12月6~7日
<ブラウエンの戦い>
 ■土居参謀のメモによれば、「和号作戦」を実施する地上兵力は、16D主力と26Dの1個大隊であった。(18)
 ■和号作戦、16D・高千穂空挺部隊、ブラウエン飛行場攻撃。<年>

12月7日
 ■68B、サン・イシドロ上陸。<年>
 ○米77D、オルモック上陸。<年>
 ■和号作戦中止。<年>
<ブラウエンの戦い>
  ■中村高級参謀が「ルビ」に帰来し、「第26師団は昨6日夜先遣重松大隊の一部が夜襲に向かったのみで師団全体では動いていない」旨報告した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■米第77師団がオルモックに逆上陸し、それまで50日間の戦いに終止符をうった。(22)
 ■劇的なことに、ブラウエン飛行場群への突入作戦が行われ、35軍司令部、26D司令部をあげて、オルモック西南方20キロの山中に入っていた。26Dの斎藤支隊は、米第7師団に対して退却戦を戦っていた。(22)
<オルモック湾の戦い>
 ■「オルモック湾の朝は静かに明けた。少し雲があったが、風は穏やかだった。海面が明るくなるにつれ、ダムラアンからオルモックに到る沿岸の日本兵は、平らなオルモック湾が80隻の艦艇によって廠われているのを見たわけである。遂に聯合艦隊が助けに来てくれた、もう大丈夫だ、これまで頑張った甲斐があった、という言いようのない歓喜が、何も知らない兵の心を充たした。/しかし夜がすっかり明け放たれ、その夥しい船舶が星条旗を掲げているのを見ると、歓喜は一瞬にして、絶望と変わった。この時からレイテ西海岸の日本兵は戦意を失った」(22)
<ダムラアンの戦い>
 ■払暁、カモテス海沿岸を防備していた日本兵は、オルモック湾が艦船で覆われているのを見た。歓喜の声が湧き上がったが、海上が明るくなるにつれ、聯合艦隊だと思っていた各艦艇が星条旗を掲げているのを見た。「やられた」という虚脱感が将兵をとらえる。「7日以後、カモテス海沿岸の戦いは、絶望の戦いとなる」(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■アルブエラ方面にあった26D工兵は、米軍の砲撃に会うと、2キロ内陸の山脚地帯に退いた。米7師団のオルモック進撃路は開放された。(22)
<オルモック湾の戦い><オルモックの戦い>
 【今堀】リモン峠の急迫に伴って12月6日に1D配属されることになり、リモン峠方面への転用が決定した今堀支隊の先遣第1大隊が、12月7日、ちょうどドロレス(オルモック東北8キロ、標高200メートル、ダナオ山の裾野の補給基地、オルモック湾が見はらせる)まで下って来ていた。(22)(23) 友近少将は今堀支隊の1D配属を取り消し、光井部隊と協力して、キャンプ・ドーンズ(オルモック南1キロ)の防衛をするよう命じた。(22)
12月7日夜、実力2個中隊の上条大隊(Ⅰ/12is)は、軽機3、速射砲2を受領してから、車輌輸送でイピルに向かった。オルモック南方で下車、1時間展開前進して敵と接触し、射撃を加えたが反応がないので2キロ後退、竹藪や地隙を利用して壕を掘った。オルモックの南3キロのパナリアン川の線だったらしい。(23)

12月7~8日
 ■「ゲリラが侮るべからざる戦力を持っていることを身をもって知っていたのは、比島に長い駐屯の経験を持つ16師団、102師団だけだった。第1師団、26師団と増援部隊には、戦況、匪情について形式的な訓話ぐらいしか与えられなかった。しかも意気阻喪を考慮して、著しく偽装されたものだった」(18)
<ブラウエンの戦い>
 ■7日未明~8日後半、空挺第3聯隊、16D、重松大隊との連絡が成り、共に行動した。8日朝、軍戦闘指令所に田中方面軍参謀、26D峰尾正生参謀到着。田中参謀は「重松大隊の位置まで行った。第26師団主力は7日の斬込みには間に合わなかった」と報告した。<重>
 【US】米第77師団がオルモックに上陸する直前、レイテ島の米軍兵力は7個師団と1個連隊、補給部隊を入れれば総数27万人に達していた。これに対する日本軍は、すでに半数に減った1D、裸の26Dに第16師団の残部3千人に過ぎなかった。(18)

12月7日
<オルモック湾の戦い>
 【US】7日払暁、米77D2個聯隊、デボジト逆上陸。<重> 1740、米軍の先頭部隊はイピルの村に入り、多くの機密書類を得た。(22)

12月8日
<オルモックの戦い>
 【今堀】水田に足をとられて米軍の進度は遅かったが、上条大隊は最初の1時間で壊滅的打撃を受けた。大隊長上条少佐は重傷を負った。(23) この間に、今堀支隊の主力(聯隊本部、通信隊、聯隊砲中隊、1個中隊を欠く第3大隊、第1大隊第4中隊、計約500名)がオルモックに到着。オルモックの北、コゴン東方の高地に配置された。(23)

12月9日
<ダムラアンの戦い>
 ■11isは巧妙な退却戦を行い、12月9日、11is第8中隊主力はタリヤサン川南岸高地に後退した。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■7日の米軍デボジト逆上陸に伴い、軍司令官は「戦闘指令所は9日朝反転」と決意し、峰尾参謀に「第26師団は一部を以てブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護爾後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進。上陸中の米軍を攻撃。16師団の収容」の命令を下した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■35軍司令官は「和号作戦」中止を命じ、フアトンに転進した。(27) 35A戦闘司令所はマホナグからタリサヤンへ移動を開始した。(21)
 ■26Dは、アルブエラ方面の敵撃破、を命じられた。「しかし師団主力はダムラアンの戦い以来重大な損害を蒙っており、ブラウエン方面から退却してくる兵士は、16師団の敗兵と似たような飢兵で、とても新しい作戦を企画するなど思いもよらない。/海岸から5キロ上流のタリサヤン河谷に停止して、ブラウエン方面から下って来る敗兵を収容するのが精一杯であった」(27) 命令変更を申請したらしいが、35A司令部は15日以来移動を続け、19日にはリボンガオで急襲を受けて西方に退却していた。(27)
 ■1月中旬、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令を受けるが、師団はこの間にも米軍と交戦した。(27)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】師団が反転を命ぜられたのは9日。先遣の重松大隊は、師団命令でこの地に残留。イピルを出発して1か月経ており、飢餓と体力の消耗、弾薬の補給も皆無の中、殿軍として、追求の米軍をこの地で阻止する任務を与えられた。白井聯隊長(高千穂挺身隊)の手記には「18日重松大隊とマタグバ東北4キロ付近ジャングル中にて遭遇せり」とある。<重> ブラウエン方面へ進出していた重松大隊の後退は、さらに難渋を極めた。(21)
<オルモックの戦い>
 【今堀】司令部をフアトン(オルモック北方6キロ)に移すとともに、すでにラアオ山を出発していた今堀支隊主力をオルモック北方の丘陵に配置して反撃を準備した。(22) 1か月以上脊梁山脈の雨と霧の中に露営していたから、マラリアと栄養失調で病兵が増加、転進中も多くの落伍者を出して、大隊がドロレスに着いた時の兵力は約200であった。(23) 久しぶりに満腹感を味わった兵士は、オルモック湾内にひしめく敵の艦船を目撃した。(23)
<オルモックの戦い>
 【今堀】今堀支隊は、ラアオ山を撤収するにあたって、前田集成大隊(バレンシア野戦病院退院者、オルモック駐屯の16師団の下士官)の400名を残してきていた。(23) 12月9日、このうち3個中隊300名も急遽オルモックに呼び返された。(23)
 【今堀】戦訓「レイテ戦史」が記録するオルモック防衛戦力のうち今堀支隊の戦力は、第1大隊(大隊長負傷)2個中隊約100名、第3大隊3個中隊約250名、高千穂部隊80名、であった。主要な戦闘は今堀支隊の受け持ちになったが、合計約350名にすぎなかった。(23)

 【重松】この頃、ブラウエン方面に進出していた26Dの重松大隊(Ⅲ/13is)は後退し、アルブエラ方面をめざしたが、難渋を極めた。(23)

12月11日
 ■8D5i、パロンポン上陸。<年>
 ○米軍、オルモック奪還。<年>
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コメント
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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(3)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
12月8~11日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米軍が達したのは、12月8日アルブエラ、9日グンガブ、10日タリヤサン川であった。(20) 10日にはしかし、すでに米軍はオルモックの町に入り、日本軍の西海岸防衛は崩壊していた。(20)

12月10日
<ダムラアンの戦い>
 ■大川大隊(Ⅱ/11is)残兵約100名はタリヤサン川南方高地に集中し、最後の決戦を試みた。同日夕方まで高地は米軍の手に落ち、大川大隊は全滅した。(20) しかし、26D兵器勤務隊は、タリサヤン川南岸高地の「死守」を命じられ、12月15日まで頑張った。(20)

12月10日
<オルモックの戦い>
 【US】ダムラアンから北上中の米軍は、タリサヤン川左岸マリトボ(ブラウエンに向かう山道の分かれるところ、「和号作戦」の補給物質が蓄積されていた)の線に達した。(23) 1730、米軍はオルモックは完全に占拠した。(23)
 ■日本軍はレイテ島西海岸の2つの補給基地を同時に失ったことになる。(23)

12月12日
<オルモックの戦い>
 ■上陸に成功した陸戦隊約300名が今堀支隊の指揮下に入った。しかし、沼と米迂回部隊に妨げられて、結局オルモック防衛戦には参加せず、2月下旬、パロンポン東方に現れた。(23)

12月12~13日
<オルモックの戦い>
 ■砲撃で受けた日本軍の損害は大きかった。(23)

12月13日
<オルモックの戦い>
 【今堀】夜、今堀大佐は35軍司令部に電話し、聯隊旗をあずかってほしい、と申し入れた。2日間の砲撃で、上条大隊はすでに全滅、6キロ先にフアトンの軍司令部が控えるブロックハウスを死守していた立石大隊とも連絡が途切れていた。斬り込む覚悟を察知した友近少将は、声を励まして「貴隊の任務は持久である」と諫めた。(23)

12月14日
 ■レイテ島決戦は事実上放棄された。(23)

12月15日
 【US】米2個連隊がミンドロ島サンホセに上陸した。(23)

12月16日
 ■日本軍は翌日の攻撃を準備中であった。今堀支隊は、オルモック東北の山脚地帯を「赤屋根高地」に向かって移動、77聯隊はフアトン南方の本道両側に展開した。日米両軍は互いに敵の右翼を迂回し、すれ違いの形になった。「本来なら翌日の戦いは相打ちになるところだが、悲しいかな、兵力が懸絶しているので、日本軍の壊滅に終わるのである」(24)
 ■この頃、タリヤサン川上流、河原がやや広くなったところに、26D司令部ほか約600名が駐屯していた。(20)

12月17日
 【US】0800、国道の西2キロのティピィクにあった米306連隊は攻撃発起し、日本兵は明らかに不意打ちされ、組織的抵抗を示さなかった。(24) 0830、本道両側にあった305連隊は攻撃を開始した。左翼第1大隊方面の抵抗は少なかったが、1145、東北ドロレスへ向かう道が分かれるタンブコに達した頃から日本軍の抵抗が強くなった。(24)
 【今堀】今堀支隊の残兵は、夕刻「赤屋根高地」へ接近したが、強力な反撃にあって撃退された。(24) 12月17日のオルモック反撃失敗後、今堀支隊の残兵400はドロレス東北の山地にあった。
 ■77聯隊第2大隊は、前日立石大隊が突破されたのを知り、この方面に退いて防禦陣地を築いた。火砲はおそらく到着していなかった。(24)
 ■フアトンの35軍司令部の状況は極めて悪かった。(24)
 ■12月17日のオルモック奪回は成らず、却って軍司令部はリボンガオに後退を強いられた。フアトン南方に孤立した77聯隊は東方山中に入った。(24)

12月18日
 ■大本営、レイテ島決戦放棄。<年>
 ■「12月18日、マリトボ方面にあった斎藤支隊の沿岸高地固守部隊の残部が、山に入った。26師団主力はアルブエラ上陸の敵攻撃の命令を受けていたが、脊梁山脈中で、米511降下連隊と交戦しながらの退却は難渋を極め、戦力を消耗していた。師団司令部はタリサヤン上流の河谷中に露営して、逐次退却して来る兵を収容した。形ばかりの野戦病院も開設されていた」(25)
 【重松】白井聯隊長の手記に「その後重松大隊と共に西進した。重松大隊は全員幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロという有様であった」とある。推定100名以下。「和号作戦」参戦の高千穂降下部隊、26D、16Dの生還者は皆無なので、詳細不明。<重>

12月18日頃
 ■「アルブエラ方面の26Dの残部は、まだこの頃は部隊の形を保っていた」(27)
 ■師団兵器勤務隊は、ダムラアン方面の斎藤支隊の補給を行い、カモテス海沿岸が退却戦になってからは、野砲隊の一部とともに、マリトボ東方の高地の死守を命ぜられていた。12月10日、米7D主力はここを通過してオルモックに向かったが、12月18日まで部隊はなお高地に残っていた。「山森曹長が功績簿を持って、タリサヤン川上流地帯に入った時、師団司令部ほか約600名の敗残兵が野営しているのを見た」(27)
 ■「26師団の退却も、16師団の退却も、往路で落伍した者の死体が白骨化している。それを道標にしたと伝えられる」(25)
 ■「オルモック平野の35軍司令部と隷下部隊もすでに壊滅状態にあった。12月18日の時点で、なお軍隊として規律と戦力を残していたのは、リモン峠の1D(玉)とピナ山方面の102師団(抜)だけだったといっても過言ではない」(25)

12月19日
 ■残存部隊、カンキボット山地に集結、持久戦体制へ移行。<年>

12月20日
 【US】米7D32連隊は、タリヤサン川左岸の2つの稜線に拠る強力な日本軍(26D)に妨げられて進出を停止。2日間交戦し、東方にいた187グライダー連隊が山中に迷った511連隊と交替して攻撃し、やっと突破することができた。(27)

12月21日
 ■1D、リモン峠から転進開始。<年>

12月22日
 【重松】18日以後も重松大隊と行動していた白井聯隊長、287高地で野中大隊と合致。<重>
 ■第14方面軍、第35軍に自戦自活命令。<年>

12月下旬
 ■26D主力は、山脚地帯を斜行してドロレスをめざしたが、1月下旬、軍司令部のパロンポン転進を知ってドロレスを諦め、ダナオ湖をめざした。急な稜線を上がったり降りたりする辛い行軍であった。(27)
 ■師団司令部と主力は、ドロレスからバレンシアでオルモック街道を越える近道を選んだ。(27)

12月25日
 ■総軍は、35Aに南部比島における永久抗戦を命じた。併せて、バコロド(ネグロス島)、カガヤン及びダバオ(ミンダナオ島)の各飛行基地群の確保を命じた。(27)
 ■大本営・南方軍、第35軍の持久作戦への転換を認可、レイテ決戦は終結。<年>

12月25日~20年3月
 ■総軍の命令(12/25)に基づき、35A司令部、1D、102Dの一部が西海岸からレイテ島を脱出した。鈴木35A司令官は、3月までレイテ島にとどまった。(27)

12月25日~
 ■「見捨てられた戦場レイテの兵は、この間に潰乱状態に陥っていた。1D、第102師団は一応整然と転進したように見えるが、それは帳簿上そうなっているだけで、西進する米兵と踵を接して進むのであるから、随所に小戦闘が起る。隊伍は乱れ、落伍者が相次いでも、それを構っている暇はなかった。/ブラウエン、アルブエラ方面に取り残された第16師団、26Dの状態は一層悲惨であった。オルモック街道は米軍に遮断されているから、これらの部隊は以来2カ月、雨と霧に閉ざされた脊梁山脈から出られなかった」(27)
 ■諸隊の集合地はダナオ湖(オルモックの東北15キロ、ドロレスからハロへ越える山径に沿った火口湖))だったらしい。(27)

12月27日
 ■第35軍司令部、カンギポット着。<年>

12月28日
 【重松】軍参謀高橋公平少佐によれば、重松大隊長、白井聯隊長は12月28日まで287高地で追撃の米軍と交戦している その後白井聯隊長出発後、重松大隊も転進を開始。米軍の迫撃と交戦しつつ後衛尖兵としての任務を果たした。転進は難渋を極めた。この頃、大隊の戦力は3分の1にすぎなかった。<重>
 【重松】道なき脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリア、栄養失調と戦いながら、多くの谷越え、岩攀りを強いられながら、オルモック湾の米艦船を遠望しつつ転進は続いた。オルモックも既に日本軍は撤退しており、ダナオ湖経由で一路カンギポット目指し、苦難の転進は続いた。周辺は26D主力が転進して行った跡で、各所に集中して多くの日本将兵の白骨死体が見受けられた。後に、この転進街道は白骨街道といわれるようになった。<重>

【昭和20年】
1月2日
 ■26Dのタリヤサン上流の集結状況が軍司令部に伝わった。(28)
 ■1月2日現在、カンギポット周辺にあった日本兵だけで約1万名である(16師団、26D、今堀支隊は未掌握)。軍属、漂着船員を含めば、2万名近くであった。(28)

1月5日~9日
 【今堀】今堀支隊の残兵400名は、12月17日オルモック反撃失敗後、ドロレス東北の山地にあった。(28) オルモック東方の山脚にあった今堀支隊の残兵500名は、マタコブ山地南方への転進命令を受けて、1月5日、米3日分と携帯口糧1日分を持ち、3個梯団に分かれて転進を開始した。夜暗に乗じて、タンブコの南で街道を越え、パグサンガハン下流の乱流湿地帯を渡った。1月9日、ナガング山の南に集結した。「この頃この方面は米軍の作戦区域外になっていたから、転進は支障なく行われた模様である」(27)(28) ナガング山は、バグサンガハン川西方、パロンポンの東10キロ、オルモック西方10キロ、マタコブの南同じく10キロである。支隊は付近に多くの16師団兵士がいるのを見出した。(27)(28)(29) 「住民は逃亡していたが、折柄収穫期なので民家には米、トウモロコシ、モンゴ(小豆)などの蓄積があり、芋、バナナの畑もあった」(28) 最初は食糧も豊富だったが、米軍に所在を知られ、サンホセの重砲の射撃を受けるようになった。(29)

1月上旬
 ■26D司令部は1月上旬までタリサヤン川方面にあったが、アルブエラ方面の敵攻撃の任務を持っていたからであった。26Dは後退中さらに兵力を消耗し、タリヤサン上流の河谷に集結しただけで、攻撃していない。攻撃を実施する戦力を持っていなかったのである。(23)

1月9日
 ○米第6軍、ルソン島上陸(空母12隻外、リンガエン湾)。<年>

1月10日付け
 ■アルブエラ方面にあった26Dにも、1月10日付けでナグアン山に集結を命じてあった。しかし、その後、師団長以下、師団主力は行方不明となった。(29)

1月12~20日
 ■1D主力、セブ島へ転進。<年>

1月中旬
 ■オルモック東方にあった今堀支隊からの連絡将校が、26D司令部に到着し、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令が伝えられた。(27)

1月下旬
 ■26D主力も、タリサヤン川上流の露営地を捨て、脊梁山脈の西側を移動していた。オルモックを起点とする米パトロール隊との接触を避けて山中の道をたどり、一部はダナオ湖で、16師団と合流した。しかし、日本兵の集合を知ったゲリラの目標となった。(29)

1月25日
 【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29)

2月初旬
 【重松】重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。推定数十名。<重>

2月3~23日
 ■<マニラ攻防戦><年>

2月5日
 ○米軍、フクの武装解除命令。<年>
 【今堀】歩兵の包囲攻撃を受けて撤退。(29)

2月8日
 【今堀】カンギポット山の軍司令部に到着した。(29)

2月
 ■「2月に入って、今堀支隊及び26D残部がカンギポットに到達してから以後は、北、中、南三つの自治区に分かち、諸隊が分散して一挙に殲滅されるのを避けたという」(29)
 ■南自活隊はアビハオ以南で、77聯隊、58B及び伊東陸戦隊。中自活隊はアビハオからシラドまでで、軍司令部、高階支隊(8D)、金田集成隊(102D)、1D、41聯隊(30D)、68B。「北自活隊はシラド以北で、最も遅く到着した26師団と今堀支隊を配置した」(29)
 ■「脊梁山脈北部に圧迫された16師団、26Dの敗兵が、飢えと疲れで斃死しつつあった間に、カンギポット山の軍司令部周平に集結した第1師団の残部、68旅団、102師団、今堀支隊は、米77師団の攻撃を受けていた」(29)
 ■「2月中旬には16師団、26師団の兵の大部分はダナオ湖=ドロレスを結ぶ山径を越えていたと思われる」(29)

2月11日
 【今堀】西海岸のシラド付近の指定の位置に移って自活態勢に入った。その時の残存兵力は400。(29)

2月20日
 【US】米軍500がシラド北方15キロのマルカンボに上陸した。(29)

2月20~25日
 【今堀】今堀支隊は軽機2、3挺を持っていたらしいが、小銃は全部に行きわたらない欠損部隊である。米軍の迫撃砲にアウトレインジされて、次々と撃破されていく。(29)

2月23日以降
 【US】米軍は新しい攻勢をとったが、主として北自活区に指向された。(29)

2月25日
 【今堀】支隊は糧食の資源たる平野から追い払われ、カルブゴス山方面の山地に圧迫された。この方面には、この頃までに26D主力が集結していた。(29) 以上が第一次戦闘である。(29)

3月18~25日
 ■第二次戦闘は、ビリヤバを拠点にやや大規模に行われた。新しい攻勢は主として北自活区に指向され、中と南は比較的閑散だった。(29)

3月23日
 ■35軍司令部、レイテ島脱出(4/19、鈴木中将、ミンダナオ島渡航中戦死)。<年>

3月26日
 ○米軍、セブ島上陸。<年>

3月29日
 ○米軍、ネグロス島上陸。<年>

3月
 【今堀】オチン北方510高地に圧迫された今堀支隊は、今堀部隊長自ら畑を探して芋を掘り、バナナを採った。(30)
 【重松】重松大隊、泉師団自活自戦地域シラットに移転。<重>

4月10日
 【重松】戦闘で山本第10中隊長戦死。<重>

4月18日
 ○米軍、ミンダナオ島上陸。<年>

4月
 【重松】自活自戦。当初は転進途中で日本軍の遺棄食料を拾得し、かつ、師団より若干の分配を受けて凌いでいたが、次第に底を尽き、5月頃から毎日潮汲みと食料捜しの毎日であった模様。<重>

5月
  【重松】 この頃、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。<重>

5月8日
 ○米軍、レイテ作戦終了(サン・イシドロ半島の掃討をゲリラ部隊に一任)。<年>
 ※ドイツ降服。

5月下旬~
 【今堀】西北方カンポクポク方向からゲリラの攻撃を受け、再びカルブゴス山に圧し戻された。すでに兵器なく弾もない。負傷兵を治療する薬もなかった。この方面には26Dの主力がいたが、ブラウエン作戦当時から飢餓に陥っていて、今堀支隊よりひどい状態であった。(30)
5月末頃  26Dはカンギポット山の洞窟が所在であった。加藤参謀長を中心とする今堀支隊、工兵聯隊の一部、約200名にすぎなかった。<重>

5月28日
 【今堀】カルブゴス山東南方からゲリラまたは自警団による新しい攻撃があり、部隊は再び北方へ移動した。(30) 今堀部隊長の周囲にいる将兵は20名足らずとなった。部隊は食糧を求めて再び進路を西方平地にとった。(30)

6月9日
 ○コモンウェルス議会招集さる。<年>

6月10日
 【重松】重松大隊長、マラリヤと栄養失調のため、自決。<重>
 【今堀】敵襲で5名、7月日の敵襲で4名が戦死、再び東方山中に入った。(30)

7月4日
 【今堀】今堀部隊長は下痢と栄養失調のため行動不能に陥り、同日2100、軍旗焼却、同日2200拳銃で自決した。

7月5日
 ○マッカーサー、フィリピン諸島戦闘終了を宣言。<年>

9月3日
 ■山下大将、降服。<年>
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【大岡昇平ノート】重松大隊の最後 ~『レイテ戦記』にみる第26師団・補遺~

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 『レイテ戦記』「15 第26師団」にいう。「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」。
 はっきりした僅かの事実から重松大隊の運命を追跡したのが、重松正一編『レイテ島カンギポットに散華せし父を偲ぶ 独立歩兵第13聯隊(泉5316部隊)第3大隊の戦記』(私家版、2000年刊)。私家版というより手作りの小冊子で、僅々82ページ。しかも肝心の「戦記」は実質4ページにすぎず、残余は資料である。逆にいえば、多数の資料から、ようやく「戦記」4ページを再構成できたのだ。
 この小冊子は、国会図書館におさめられているから、誰もが閲覧できる。
 以下、「戦記」を抄出するとともに、「戦記」添付資料および『レイテ戦記』から若干補足する。
 なお、「聯隊」「連隊」の区別、部隊名、役職名、地名の表記は『レイテ戦記』に統一した。

  *

 重松大隊は、南方軍第14方面軍直轄の第26師団独立歩兵第13聯隊の第3大隊である。
 重松勲次は、昭和18年12月に第3大隊長となり、昭和19年8月、比島転進の途中、釜山において、陸軍少佐となった。
 重松大隊は、昭和19年8月10日に伊万里湾を出港。22日にマニラ港入港。停泊すること1日半でリンガエン湾の警備に就いた。27日、中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐した。
 9月17日、海没した安尾大佐の後任として、斎藤二郎大佐が第13聯隊長に着任した。
 11月2日、マニラ港出港。重松大隊のオルモック上陸の期日は、「戦記」では明らかではないが、第1大隊と同じ11日と推定される。重松大隊は重機関銃も揚陸し、後に迫撃砲6門が増加したが、師団の他の部隊が揚陸できたのは携行兵器のみであった。ただちに、師団主力とともに「不気味にも荒れ果てた」オルモック街道をオルモック北方のドロレス付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。
 11月12日、14方面軍は、「和号作戦」を35軍に下達。35軍からの命令を受けて、26師団主力は、ダムラアンをめざして進撃を開始した。
 11月15日、重松大隊、マホナグ着。
 11月17日、26師団の先頭は、山間のルビまで進出。ルビからブラウエンまでの脊梁山脈越えには道がない。ジャングルを切り開きながらの強行軍でも6昼夜かかった。
 11月20日、重松大隊、ルビ南東2キロに進出。米軍と遭遇し、撃退。
 11月22日、重松大隊、マタグバ西方287高地に進出。「ブラウエン方面に的を見ず」
 11月26日、重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊200名(102師団の士官候補生をもって編成された斬込隊)を掌握。
 11月28日、重松大隊、「マタグバ方面に敵第86師団進出あるがごとし」と報告。重松大隊は山中に入ってすでに半月。補給は十分でないから、多くの栄養失調、マラリヤ、下痢患者が発生していた。1230~1800、287高地後方に進出した米軍100名を奇襲。ダキタン川渓谷に沿った小高地をめぐって米511連隊としのぎをけずった。
 12月1日、師団の主力はマリートボックから東進を開始し、ブラウエンに向かった。師団主力といっても実兵力は、先遣重松大隊を除けば、独立第12聯隊の2個大隊と野中大隊(第30師団に属するが、当時26師団に配属されていた)の3個大隊にすぎなかった。
 12月3日、重松大隊主力は、ブラウエンまで2キロの205高地付近に進出した。
 12月6日夜、ブラウエン西方数キロの山中、205高地付近に到着していた重松大隊は、夜、4~5名1組の斬込隊を40組、ブラウエン飛行場に「予定どおり突入」させた。帰ってきた斬込隊の隊員若干名は、飢餓のため体力の限界に達して動けない者が多かった。なお、突入したのは重松大隊のみで、師団全体は動いていない。なお、2000、第2挺身団(高千穂挺進隊)挺進第3聯隊の260名が降下している。
 12月7日未明から8日朝、重松大隊と空挺第3聯隊、第16師団との連絡が成立、行動を共にする。滑走路の天幕や高射砲などを破壊した。
 12月9日、7日払暁の米77師団2個連隊のデポジト上陸にともない、26師団は一部をもってブラウエン、オルモック平地に転進し、上陸中の米軍を攻撃、16師団を収容する、との命令が下された。飢餓と体力消耗、弾薬の補給もない重松大隊だったが、殿軍を命じられ、この地に残留した。
 12月18日、挺進第3聯隊長白井恒春少佐以下残存兵力12名は、マタグバ東北4キロ付近のジャングルのなかで、「幽霊の如くやせ細り歩くにも一日数キロの有様」の重松大隊の推定100名と遭遇し、行動を共にする。
 12月22日、287高地で野中大隊と合致。
 12月28日まで、重松大隊、高千穂挺進隊は、287高地で追撃の米軍と交戦している。野中大隊と行動をともにすることとなった白井聯隊長以下が出発後、重松大隊も転進を開始した。殿軍の任務を果たしながらの転進は難渋をきわめた。この時期の重松大隊の戦力は3分の1以下に過ぎなかった、と推定される。
 脊梁山脈西方の山腹を斜行。マラリヤなどの病気、栄養失調に悩まされながら、谷を越え、岩をよじのぼり、米艦船の占めるオルモック湾を遠望しつつ、転進はつづいた。ダナオ湖をへて、カンギポットをめざした。26師団主力が転進していった跡の各所に集中して多くの白骨死体が遺されていた。いわゆる白骨街道である。
 昭和20年2月4日、白井聯隊長、陣没。
 2月初旬、重松大隊、カンギポットの師団司令部に到着。祖国を出発したときは千数百名だった重松大隊の生存者は、推定数十名となっていた。
 3月頃、重松大隊は26師団自活自戦地域のシラットに移転。
 4月10日、重松大隊第12中隊長山本利博中尉、戦死。
 4月、自活自戦。当初は転進途中で日本軍が遺棄した食糧を拾得し、かつ、師団から若干の分配を受けてしのいでいたが、しだいに底をつき、5月頃から潮汲みと食糧探しの毎日であった。5月、多くの将兵が飢餓と病魔で戦死。
 前年の8月に祖国を出発したときは1万3千名だった26師団は、9か月後の5月末頃、師団参謀長加藤芳寿大佐を中心とする今堀支隊、工兵第26聯隊の一部の200名が生存するにすぎなかった(カンギポット山の洞窟に所在)。
 6月10日、重松大隊長、自決。マラリヤと栄養失調で力はなかったが、銃声が周囲に与える影響をおもんばかり、軍刀を喉に突き立てた。
 重松大隊隊員のその後の運命は、「戦記」には記されていない。
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【大岡昇平ノート】レイテ島作戦陸軍部隊における第26師団の位置づけ

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 【出典】『レイテ戦記』及びその付録「レイテ島作戦陸軍部隊編成表」ほか

南方軍
 第14方面軍(10月23日)
   ○直轄
      第1師団(玉) (上海から輸送中)
      第8師団 (ルソン島)
      第26師団(泉) (ルソン島)
         司令部
         独立歩兵第11聯隊
           ★第2大隊の一部 ⇒ 斎藤支隊
         独立歩兵第12聯隊 = ★今堀支隊:(第2大隊欠)1,000名。
           ★第2大隊の一部 = 井上支隊
           ★第2大隊の一部 ⇒ 斎藤支隊
         独立歩兵第13聯隊
           ★第1大隊、第2大隊を基幹に、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた
             ⇒ 斎藤支隊
           ★第3大隊 = 重松大隊
         独立砲兵第11聯隊
         工兵第26聯隊
         第26師団通信隊
         輜重兵第26聯隊
         第26師団兵器勤務隊
         第26師団野戦病院
         第26師団病馬廠
         独立臼砲第21大隊
         独立工兵第65大隊
         独立速射砲第25大隊
     第103師団 (ルソン島)
     第105師団 (ルソン島)
     戦車第2師団(撃) (ルソン島)
     <高千穂挺身隊>
     独立混成第55旅団 (主力ホロ島、一部セブ島)
     独立混成第58旅団 (ルソン島)
     独立混成第61旅団 (バタン島、バブヤン島)
     独立混成第68旅団(星) (在台湾)

  ○管下 第35軍(尚)
     軍司令部
     第16師団(垣) (主力レイテ島、一部サマール島)
     第30師団 (ミンダナオ島)
     第100師団 (ミンダナオ島)
     独立混成第54旅団 (ミンダナオ島)
     第102師団(抜) (ビサヤ諸島)

  ○管下 第41軍
     第8師団(杉)
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