松山や 秋より高き 天主閣
ちょっと前のことだが、10月20-21日、愛媛大学医学部付属病院から招待されて講演をさせていただいた。
松山は学生のころ、当時住んでいた大宮から、自転車で西日本一周をした時に訪れたことがある。九州の佐多岬を経て、九州を「8」の字に走ったから大分から四国の八幡浜までフェリーで渡り、そこからえっちらおっちら自転車を漕いで、数時間で松山だった。
寝袋で野宿しながらの自転車ツーリングだったので、各地の先輩や後輩の実家に転がり込むことが、なによりの楽しみだった。なにせ、たらふく飲み食いさせてもらって布団で寝れるのだ。
松山出身のI城先輩の家に転がり込み、たらふく飯を食べさせていただき、夜は道後温泉という天国のような2日間を過ごしたのだ。I城先輩のわけの分からないウンチクを聞きながら、坊っちゃん団子を頬張った。いい思い出だ。
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当時は、しまなみ海道なんぞはなく、今回は仕事がてら、しまなみ海道を自転車で走ろうと画策。だが、低気圧通過で天気がよくなく、断腸の思いで自転車ツーリングはあきらめる。
そのかわりといったらなんだが、道後温泉につかり、子規記念博物館をたっぷり堪能。聞くところによると、昨今の観光客は「竜馬伝」の影響で、高知を巡ってから三坂峠を越えて、「坂の上の雲」の松山に来るというパターンが出来上がっているという。
子規記念博物館。
創造していたより、はるかに立派で大きな建物。
松山の人々がいかに、子規を誇りにしているかがひしひしと伝わっている。
I城先輩の風貌は子規になんとなく似ている・・・。
子規は、34歳の若さで、脊椎カリエスによって歩行の自由を奪われ、世を去ってしまったが、親友たちの、夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節らは、子規の死という大きな悲しみを乗り越えて、子規の文学活動を継承し、近代文学界隈の発展にそれぞれの立場から貢献することになる。
この博物館の一階には、書籍コーナーがある。
漱石と子規は、明治22年、高等中学校の同級生として出会い,寄席通いをとおして親しくなった。その友情は終生変わることなく続いたそうだ。
漱石が批評を求めて子規に送った俳句と子規の添削を含め,その間に交わされた手紙を年代順に収録した記録が、『漱石・子規往復書簡集』だ。
これを読むとふたりが、いかに知的なやりとり(オタク的でもある)をしていたかが分かる。その話題は、自由闊達で奔放。
そんな知的奔放さの一端を、帰りの飛行機の中で堪能した。
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