よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

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自己紹介(ナラティブ)

2011年12月01日 | About me

へんな学生

早稲田大学での学部学生時代は、自転車に乗って過ごしました。ほとんど日本全国を自転車で走り、山岳地域の峠を通算して300位登りました。最も活動的な年は、1年あたり150日は大学や家を離れ、自転車を駆って寝袋、テント、炊事道具を持って山野を走りまわっていました。

自転車に乗って旅をする技術は、自由に生きるという地平を開拓するに余りあり、体力、精神力のみならずリベラル・アーツの涵養に資するところ大いなるものがありました。

商学部に入って分かったことは、ほとんどの経営を教える先生に経営の経験がなく理論や方法論を教えることに終始していたことです。そこで、実務と理論を統合し普遍性を具備した社会科学としての経営学は欧米の大学院で窮めることとし、学部時代は将来の留学に備えて、まずは自転車を機軸とするリベラルアーツと英語の修練に集中することにしました。

いまだ脆弱なものとはいえ古今東西の書に親しみ孜孜たる勉学の基礎を創り得たのは、数少ない学部時代の収穫でした。とはいえ当時の早稲田通りには古本屋が軒を連ねており、社会科学系の古本をと紐解くことにも熱中しました。神保町にもよく通い、歴史ものにはじまり雑駁な事柄を好んで読むのはこの時代からの習慣となっています。

自転車冒険とアウトドア

大学3年次までにはほぼ日本の全県を走破しました。でも自転車大旅行への情熱止みがたく、
3年から4年にかけて、大学サイクリングクラブの仲間と3人パーティを組んで、インドのニューデリーからネパールのカトマンズまで自転車で冒険の旅<expedition>をしました。

この自転車冒険旅行は強烈なもので、初めての海外経験は自転車による前人未到のルートでした。当時1970年代後半、1980年代前半はインドの田舎には日本人の足跡はまったくなく、サイクリストとしては未開のルートを走ったことになります。

この旅では、現地の人々(役人、もの売り、木賃宿、取り囲む群衆、食料調達、その他もろもろ)と交渉することが僕の役割でした。ヒンドゥー語は片言しか話せないので、ほとんどのコミュニケーションは下手な英語です。

当時、英語の鍛錬に熱心な若者の多くがそうであったように、英検1級はほとんど苦労せず楽しみながら取得していました。英検やTOEFLは、目先、口先、手先の上っ面な英語運用能力の一部の証明にこそなれ、アジアの奥地でサバイバルすることに資してはじめて身体化できるものだと勝手な「英語道」を構想し悦にいっていたのは面白いばかりです。

当時、生きる術としての英語を体得しながら世界を走ってゆくことに牧歌的ながらも横溢するロマンを感じていました。当時はポカラやカトマンズには欧米からやってきたヒッピーがたむろしていて、夜な夜なマリワナをまわしながら世界の話に花が咲きました。

そこでアメリカのスタンフォード大学からやってきた応用数学専攻の大学院生と仲良くなりました。自転車に乗って旅行記を書き、一生放浪するという僕の人生プランの話をすると、「その計画は面白いが、学生としての勉強はどうなっているのか?同じ探検でも知的世界への探検のほうが面白いぞ」と諭され、おおいに気づくことろがありました。

インドでは英語(とくにダイアローグ)を足腰を使いながら使いました。不思議なもので、外国語の口頭表現能力というものは、生きるか死ぬかの修羅場、キッタハッタのゼニ勘定がからむ場、異文化の軋轢の場で使い込むほどに、よく身につくものです。

後年、アメリカに渡り国際ビジネスの最前線でも活躍することになりますが、英語によるタフな交渉スキルの基盤は実にインド・ネパールの自転車探検によって培ったものです。

体は頑健なほうですが、インドでは病気になりました。それは、三日熱マラリアという恐ろしいやつで、3日おきに、繰り返し激しい高熱に襲われました。熱でウンウン唸りながらダウンしてヒンドスタン平原で力なく横たわっている自分がつくづく情けなくなりました。

熱にうなされながらも、仲間と助け合って、計画していたすべての行程を自転車で走り切りました。カトマンズの木賃宿で、日本に帰ってからはとにかく大学を卒業してマジメに働いてお金を貯めようと決心しました。そして、次はアメリカに留学しようと決心しました。

このインド・ネパールの自転車探検旅行から、おおむね3つくらいの方向性が出てきました。ひとつめはこの旅で考えたことを異文化間コミュニケーションという視点から『日本人と英語』という論文にしたところ、幸運にも『English Journal』という英語学習雑誌の論文コンテストで1等賞を獲得しました。

それから『サイクルスポーツ』とう雑誌に「世界を走る日本人」という記事を書きました。これを読んでくださった池元元光さんという世界を走るサイクリストと知りあい、後日、日本アドベンチャーサイクリストクラブができました。この団体はその後発展し、世界を走るサイクリストを100人以上輩出しています。ともあれ、これらの経験からモノを書くが大好きになり、かつ習慣化しました。

みっつめは、歴史宗教的な探索です。御釈迦様が生まれたルンビニを訪れ仏教が伝搬したルートに思いをはせたり、チベット密教の影響が濃いカトマンズの寺院をおとずれ、チベットからやってきた密教修行者に出会って、自分の前世の一端に触れました。ダライラマの本を初めて手にしたのもカトマンズでした。

ビジネス

1981年、ブリヂストンタイヤ
という会社の海外部門で働き始めました。一度は日本の大企業、製造業の内側にはいって会社員になるのもいいだろう。しかし、年功序列・終身雇用スキームに乗って係長、課長、部長、事業部長という中間管理職になることは、まったく関心がありませんでした。はじめから、「腰掛」のつもりで入社したのです。このような自覚的かつ確信犯的な新入社員というのは珍しいでしょうが。

ある日、友人を介して病院ビジネスを展開する実業家と知りあいました。サラリーマンにない迫力、成長意欲、起業家精神そしてそれらを裏付ける妙な暗さと劣等感のある人物でした。熱心な引張りにあり、僕自身も実業家や起業家に憧れていたので転職しました。

一部上場企業をパッと辞めて海のものとも山のものとも分からないベンチャー企業のような会社(病院の土地建物を所有して医療法人にそれらを賃貸する業態)に移るのはキチガイ沙汰だ、と周りからは言われました。

このころ、フロリダ州タンパへ医療システムのリサーチに行きました。宗教系の病院を訪問したところ、キリスト教福音派でファンダメンタリストの善良な牧師さん(彼は戦後神戸に来て伝道、復興活動をしていた)と仲良くなり、彼の家にしばらく泊めてもらいました。この牧師さんとはよく話し合い、福音派の教義に触れました。

それがきっかけになって人格的一神教の由来を調べるようになりました。さらには、多神教、方面の探索に勢いがつきました。

結果としてこの転職は成功でした。なぜならば起業や新規事業の立ち上げのノウハウを大いに学ぶことができ、次の展開へ直結したからです。

コーネル大学

インドで抱いていた留学妄想が、だんだんと具体的な輪郭を帯びてきました。当時の日本にはきちんとしたビジネススクールはなく、本格的に経営学を中心として社会科学を大学院で学ぶためには、アメリカがいいという結論に達しました。

こと社会科学に関しては、似非学問や輸入学問しか教えない日本の大学院など、世界レベルから見えば無きに等しい存在で、日本語という壁をもって世界から隔絶された日本国内の学会はひたすら内向きです。日本に特殊な事象ばかりを対象にするあまり、世界に通じる普遍性<universality>が決定的に欠如しているのです。

アメリカには2300もの大学があります。その玉石混交の中でもIvy Leagueとよばれる大学群が学問水準、研究教育環境が傑出しているということを知って、さらにいろいろ調べてみました。

ビジネススクールでmanagementを学べ、他の大学院で本格的にpolicy analysis、health services administrationの知見を得て、social science全般を渉猟もできるコーネル大学からオファーが来ました。ラッキーの一言でした。

コーネル大学は全米No1の美しいキャンパスと豊かな自然に囲まれていて自転車などアウトドアが大好きな自分にとってまさにピッタリの環境。渡米したのは1986年のことでした。

1985年初には250円台だった円相場が1986年末には160円を突破。1987年のルーブル合意でドル安に歯止めかける方向で合意したもののしばらくドル安が進み、1ドル=120円台にまで上昇しました。1987年は経済成長著しい日本は、なんとアメリカを追い抜かして一人当たりGNP世界1になった年です。

こんな時代を背景にして「日本的経営」を特別講義で世界中から集まった学生を相手にレクチャーするという珍事にも恵まれました。面白い奴だということで、日本人としては初めてKappa Alpha Societyというフリーメーソンの流れを汲むFraternity house(ギリシャの伝統を汲む友愛組織)にBrother「兄弟」として迎えられ、美しいキャンパスの中に棲み込みました。

さてコーネル大学では、生まれて初めて学問づけの生活というものを体験しました。専攻はPolicy Analysis & Managementというものです。Managementのほうはビジネススクール(Johnson Graduate School of Management)で学ぶのですが、これが凄い。ケーススタディーの洗礼を受け、とにかくガンガン意見を表明するクラスメートに圧倒されました。

Policy Analysis のほうはHealthcareに注力しました。Sloan Program in Health Services Administrationという大学院専門課程です。ここでは、なんと2人の教授が15人ほどのクラスに張り付いて、討論形式で授業を進めるのです。まさに対話が授業の本質でした。ソクラテスの「対話」による知の拡大、あるいは知的探求は書物により一応は理解していたつもりでしたが、この教室ではそれが現前している、その情景にある種の眩暈を感じたほどでした。

読む本の分量も半端ではなく、孜孜たる勉学の毎日でした。半年もすると、このような対話やプレゼンテーションにも慣れ英語によるコミュニケーションには違和感は感じなくなりました。

烈々たる勉学のはざまに、ふとニューイングランド特有の燃えるような紅葉の馥郁たるを感じ、読書に飽いてはまた風格このうえない校舎の壁を這う蔦の青々たるに目を遊ばせるのはまさに贅沢そのものでした。

1年と2年の間には、フィンランドの友人のつてをたどり、フィンランドのプライマリーケアについてフィールド調査を行いました。そのインターンシップの後には、聖書を片手にバックパックで、スウェーデン、デンマーク、オランダ、スイス、オーストリア、ギリシャ、ロードス島、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルと2か月かけて回り、アップステート・ニューヨークへと帰ってきました。

文化人類学をやっている同じ寮の左翼反米的なアメリカ人学生とは妙に波長があって、いっしょにバンを運転して北米大陸を車で横断・往復しました。道連れはもうひとりいて、そいつはその文化人類学専攻の学生のホモ達でしたが、僕はストレートなので旅の間は「俺の前ではホモるな」という条件を彼らに果しました。

ホピ族とナバホ族のconcentration(特別居住区)を訪れて、ネイティブ・アメリカンの神話を収集したり、トランス・ダンスのフィールドワークをしました。僕は非差別民族としてのネイティブ・アメリカンの貧困や医療の問題を調べました。鉢巻の模様やダンスが、阿寒湖のアイヌの人々のそれらと同型で、そんなことを話すとネイティブの人々はとても喜んでくれました。

僕の顔立ちがネイティブアメリカンとちょっと似ていることもあってか(笑)、とてもよくしてもらいました。モンゴロイドとして確かに太古の血と知は繋がってということを体感するに至りました。

東海岸の大学からではなく、ネイティブ・アメリカンの視点からアメリカを見るいろいろと本質的なものが見えてきます。西洋のデキモノみたいなアメリカという征服・搾取・抑圧国家の姿がそこには集約されていました。留学後、盲目的にアメリカ一辺倒のようになってしまうおめでたい、あるいは表層的な日本人が多いなかで、そうならなったのはたぶん、この旅があったからでしょう。

経営コンサルタント

このまま大学院に残って研究者になるという発想はさほどもなく、卒業後には理論と実務の統合を目指すべく、経営コンサルタントになると決めました。生業としてコンサルタントをしながら、研究的生活を続けることにしたのです。

当時、コーネルのみならず、アイビーリーグやその他トップレベルのビジネススクールでは、野心的でデキる連中はこぞってコンサルティングファーム、投資銀行、ベンチャー企業に職を求めていました。日本では大企業や公務員に職を求めるのが圧倒的多数でしたが、アメリカのエリート達は対照的です。

運よくフィラデルフィアに本社があるHay Management Consultantsからのオファーがあり、コンサルタントとしてのキャリアを積むことになりました。東京オフィスでの仕事はエキサイアティングなものでした。クライアント企業の20年、30年に一回くらいの戦略改訂、組織変革、人事制度変革に立ち会い、それらのプロセスに関与するコンサルティング業務が中心でした。

日本は言うにおよばす、欧州、中国など広範な地域の組織に対してコンサルティングをしました。

 Hayという組織は面白い組織でハーバード大学のマクレランド教授(達成動機やコンピテンシー理論の世界的大家)らが創業した会社を買い取って一部門(Hay BacBer)にしていました。そこで、コンピテンシー理論や人的資源管理論などの学問的ノウハウが凝縮されており、仕事はハードでしたが、大学院のような雰囲気もあり、知的刺激に充満しています。それやこれやで研究的生活も進み、研究成果を専門書として書き始めました

ことのなれそめは出逢いからでした。コーネル大学にいる時に日経BP社の記者の方が取材を兼ねてわざわざ遠路はるばる東京から僕に会いに来てくれたのです。それが縁になって生まれて初めて書いた本は日経BPから出版させてもらいました。「ナーシング・ストラテジー」という本でした。

この本がきかっけとなり、日本看護協会で講演をさせていただいた折、ぜひ看護のための経営学をまとめるように熱心に勧められて書いた本が「看護経営学」と「続・看護経営学」という本です。そしてこれらの本が縁となり、日本全国の医療機関や看護協会から講演に招待れるようになりました。それ以降、講演はライフワークのようなものになっています。

ウィークデーはコンサルタント、週末は本や論文の執筆と講演。副業どころか三足の草鞋です。とても忙しい日々の中、副業だけで資本金に充当する額が自然とたまったので、起業することにしたのです。当時の最低資本金は1000万円でした。ほかにこれといったお金の使い道がなかったのです。

起業に際してはノウハウが不足していたので、当時早稲田大学ビジネススクールを立ち上げていた松田修一先生の起業コースに参加して起業・創業のノウハウを勉強しました。変な話ですが、早稲田では卒業してから本格的に勉強したことになります。


起業家

(株)ケアブレインズというベンチャー企業を興し、「人と組織の知恵をケアする」ということを理念にしました。10年突っ走って結果を出す、従業員の給料の遅配は死んでもしない、ということをスサノヲ尊を祀る出雲の熊野大社に詣でて祈願しました。1997年のことでした。人生のビックバンのようなものです。

この会社ではコンサルティング、eラーニング、産学官連携、コマーシャルオープン・ソースなどの事業を手掛けました。自分で考えて、周りの人々の理解や共感を得てビジネスに仕上げてゆく。ビジネスモデルにはなにかしかのイノベーションの工夫を仕掛ける。こんなことが飯よりも好きでしたし、今でも大好きです。

僕は特定の分野の狭義の技術者ではありません。しかし、経営という体系・ノウハウをsocial science系の技術と見立てて、ビジネスモデル、バリューチェンを創りだす経営技術者、技術経営者を自認しています。

経営プロフェッショナル、アントレプレナーとして技術リソースを技術の壁、市場の壁を突破させてビジネス化することが好きです。そしてインベンションを普及させてイノベーションにしてゆくプロセスにワクワクします。

「資本主義社会の主人公は起業家だ」と素朴に信じて起業してしまいましたが、実は「市場」というところは、大変厳しい場所であるとが遅ればせながら気がつきました。創業社長は月月火水木金金で休むことなんか考えてはいけません。自分の給料を割いても、従業員のペイにまわなさければいけません。タフだからできるし、好きでなければとうていできません。

市場は「癒し」の場なのだろうか?強い人にとっては、自己実現の場ですが、たぶん万人に「癒し」を与える場所でありません。市場でシノいで成功する人はいいのですが、市場で失敗し、排除される人々も増え続けています。

さて2007年にある上場企業から、僕が経営していた会社を買いたいという奇特な申し出があり、いろいろ考えました。自由を求めて起業したのですが、いつのまにか、自分が起業した会社の中で自由を感じることができなくなっていました。

元来、決めごとをしたり、決断するのは直感的にスパッとやるほうです。30分もあれば、たいがいの事柄を選択したり決めることができます。しかし、このときは3カ月以上の時間をたっぷりかけて、諸般状況を見極め、我流のインテリジェンスを駆使しながら、ゆっくり意思決定をしました。

そして決断。一株残らず会社の株式を、とある上場企業に売却してイグジットしました。精神的にはタフなほうだ思っていましたが、利害関係が輻輳する進退窮まる局面では、醜い裏切りや騙しあい、駆け引きの機微が絡み合い、これにはけっこう辟易としました。

市場のなかでは、会社も、社長も、人材も、ビジネスモデルも、知的財産も交換可能な「物象」です。会社売却とは、過酷な物象化をいかにシノぐのかという命題です。会社をきれいさっぱり売り払ったあとは一抹の寂寥感もありましたが、それ以上に爽やかさがありました。これは2007年のことでした。

その半年後くらいにはリーマンショックが訪れ、大企業もベンチャーがバタバタ倒産しました。結果的にはいいタイミングで売却したことになります。あのタイミングで売る決断を先延ばしにしていたら、買い手も逃げたでしょうし、経営的にもマズイことになったでしょう。

素朴な額ですがキャピタルゲインを得ました。会社経営時代にはコンサルティング業務や経営経験から得た知見を抽象化することにより前後6冊の専門書を執筆する機会を得ました。会社経営から得たものはキャピタルゲインよりも体験を基礎とする知識のほうが大きかったと思います。

会社を売却して、晴れて天下の素浪人となり、さあどうしたものか、と今後の展望しました。またインドに行って放浪でもしようかと思っていると、僕が会社を売却したという話が漏れ伝わり、東京農工大学技術経営研究科から教授として教鞭をとらないかというオファーをいただきました。

いきあたりばったり

振り返ってみると、我ながら珍奇なことをやってきたものだと思います。「人間万事塞翁が馬」としかいいようがありません。まあ、こういうものありなんですね。

Business、Consultingのフィールドで、Deformerとして、Entrepreneurとして培ってきた経験や、汎用的なスキル・ノウハウの使い道はいろいろあるでしょうが、現在は主としてAcademiaで若い方々に還流しています。

Academia、Business、Consulting、Deformer、Entrepreneurの頭文字をとって、ABCDE変態キャリア(笑)と呼んでいます。

はじめから運命として予定されていたなどとは考えられません。いってみれば、いきあたりばったりの中の「縁起」です。

法則としての「縁起」によって生じる行為(現行)にはたらきかけるのは人間の意識や志(阿頼耶識)の深いところにある種子(ビージャ;無意識の複合体)です。種子が行為を生むとこもあれば、逆に行為が燻習(くんじゅう)して種子に影響を与えます。

いずれにせよ、種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子というように、この循環は無限に続くわけです。そんなどこかの一点の刹那に今の自分がたまたまいるということなのでしょう。また、一点の刹那で、いろいろなモノゴトがシンクロナイズして共起する(つまりシンクロニシティ)ということも、ままあります。

そして自分は、まわりのいろいろは事柄とおたがいによりかかって存在している。「おたがいさま」という日本語は言い得て妙です。この言葉は、まさに、相互依存の関係の中に人は生かされていて、人と人の間の絆や信頼といったものを尊ぶべきものだ、ということを言いあらわしています。

ずいぶん前に自転車冒険旅行で訪れたインド・ネパールの地にはじまり、その後いろいろな旅で出会った方々の数は計り知れず、また頂いた御縁もはかり知れないものです。そんな中で、いろいろな選択枝(現行)が現れて、いろいろ考え選択し、また人さまからも選択されたり、されなかったり、そのような連綿の流れの、ひとつのちっぽけな結果が、「今」の自分ということなのでしょう。

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