前ののブログで紹介した本の補足説明。
マルセル・モース『贈与論』
ちくま学芸文庫 定価1,200円+税
とても大事な本なのだけれども、読む人によって捕らえ方が実に様々にわかれる本です。
だからこそ、良い本であり、古典として残る価値もあるといえるのですが、著者自身が、この本でなされている研究は「素材の提示にすぎない」と断りがきをしているので、当然の帰結かもしれません。
本書のなかで、「贈与」に対する「返礼」の如何で両者の関係、地位が確定するといったことが書かれています。
贈与はもともと「返礼」は当てにしない一方的な行為ですが、にもかかわらず、その後に返礼が行われるかどうかが大事な意味をもちます。
贈与に対する返礼があることで、相互の関係は対等性を得ることができるのですが、返礼を怠ると、贈与した側に対するなんらかの服従や従属を意味する側に自らを追い込むことになる。
ここに大事なふたつのポイントがあると思います。
ひとつは、本来、一方的な行為であるはずの贈与に対する返礼は、より「同等」であることが望まれるが、同質のものでは返礼にならず、なんらかの異質なものによってされるという意味で、完全な「同等」ではない、「同等」であるといえないかもしれないが、ほぼ「同等」と思われる異質なものによってなされるということです。
これは、現代のわたしたちの日常でも同じことを常に経験します。
お礼はどの程度が良いのだろうか?
その気持ちの表現は、金額で表すのも難しい。
品物で表すにしても、どの程度のものであれば良いのかは、なかなか推測がつきません。
そもそも贈与に対する返礼に限らず、異質なものの交換なので、そこに等価といえる質のものを見出すのは極めて難しい作業です。
だからこそ、相手との対等な関係を意識すると、「同等」、もしくは「それ以上」の返礼をともなって初めて少しばかりの安心を得るものです。
これは「タダほど高いものはない」ことになる理由のひとつでもあります。
(一般的には「後が怖い」というのが「タダほど高い」の理由ですが)
このポイントは、人との関係が常に「同等」あるいは「等価」とは断定できないものどうしの「交換」によって関係が成り立っているということです。
もうひとつのポイントは、「贈与」があくまでも一方的な行いであるはずであっても、あくまでも「交換」とは異なり「返礼」を強要しているものではないということです。
にもかかわらず、社会では未開社会であるかどうかにかかわらず、贈与に対する感謝の気持ちをなんらかのかたちで多くの人が表わさずにはいられない現実があります。
一般的には、これは経済関係が発達する以前の問題として捉えられがちですが、よくみると、経済関係が発達した社会においてもなんら変わっていない現実を見ることもできます。
それは経済行為において「等価」の交換と思われる行いは、様々な計算や理由により、「等価」とみなされるだけで、異質なものの交換である限り、どこまでそれが「等価」であるかは、社会の物差しや信用によって決して絶対的なものではないということがわかるからです。
ここに深く立ち入ると私の手に負えないので、端折りますが、等価の交換事自体が「絶対的等価」を保障しているものでない限りにおいて、「疑似等価」の「交換」よりも「贈与」の関係のほうが社会的信用は、ある意味で高いということです。
前にこの贈与の問題を取り上げたときに
まず人間社会は、大自然からの膨大な贈与の上に成り立っていることを書きました。
大自然の贈与は、太陽であれ、大地の恵みであれ、山の幸であれ、海の幸であれ、地下資源であれ、無償のものです。
大自然からの贈与は、なんら人間に対して「返礼」を求めていません。
まさにビタ一文たりとも。
日々、わたしたちは石油を買ったり、魚を買ったり、季節の山菜や松茸を食する幸せを持っていますが、それらの恵みを与えてくれる大自然に対しては、長い間、私たちはなんの対価も払ってきていません。
それらの恵みを提供している石油メジャー資本や、水道業者、電力会社なども、最近でこそ環境維持のための植林や若干の環境保護政策に協力こそするものの、大自然から与えられる無償の贈与に対しては、「等価」もしくは「同等」と思われるほどの返礼は、近代産業が発展し続けるなかで、ほとんど行ってきませんでした。
大自然は、常にそれらの行為に対して、
人間自身が困ることになるまでは、
常にそれでも「いいよ」と言いつづけてきたからです。
わたしは、ここにモースが未開社会を通じて明らかにした
「贈与」の本質と「返礼」の実態
「交換」と「貨幣」の成立による「疑似化」の進歩の歴史と
同じ構図を感じるのです。
大自然の猛威への従属、服従のなかで生きていく社会では、「返礼」は必要とされません。
しかし、大自然の圧倒的な優位のなかでも、服従や従属ではなく、なんらかの共存を求めたときに、わたしたちは大自然に対してその多くは宗教的な意識としてですが、「返礼」を伴って向かい合ってきました。
これをわたしは経済関係が発達する以前の、未開の意識と断定することができません。
モースの投げかけた素材は、こうしたことにつながっているのではないかと感じるのです。
店のブログ「正林堂店長の雑記帖」から転載
マルセル・モース『贈与論』
ちくま学芸文庫 定価1,200円+税
とても大事な本なのだけれども、読む人によって捕らえ方が実に様々にわかれる本です。
だからこそ、良い本であり、古典として残る価値もあるといえるのですが、著者自身が、この本でなされている研究は「素材の提示にすぎない」と断りがきをしているので、当然の帰結かもしれません。
本書のなかで、「贈与」に対する「返礼」の如何で両者の関係、地位が確定するといったことが書かれています。
贈与はもともと「返礼」は当てにしない一方的な行為ですが、にもかかわらず、その後に返礼が行われるかどうかが大事な意味をもちます。
贈与に対する返礼があることで、相互の関係は対等性を得ることができるのですが、返礼を怠ると、贈与した側に対するなんらかの服従や従属を意味する側に自らを追い込むことになる。
ここに大事なふたつのポイントがあると思います。
ひとつは、本来、一方的な行為であるはずの贈与に対する返礼は、より「同等」であることが望まれるが、同質のものでは返礼にならず、なんらかの異質なものによってされるという意味で、完全な「同等」ではない、「同等」であるといえないかもしれないが、ほぼ「同等」と思われる異質なものによってなされるということです。
これは、現代のわたしたちの日常でも同じことを常に経験します。
お礼はどの程度が良いのだろうか?
その気持ちの表現は、金額で表すのも難しい。
品物で表すにしても、どの程度のものであれば良いのかは、なかなか推測がつきません。
そもそも贈与に対する返礼に限らず、異質なものの交換なので、そこに等価といえる質のものを見出すのは極めて難しい作業です。
だからこそ、相手との対等な関係を意識すると、「同等」、もしくは「それ以上」の返礼をともなって初めて少しばかりの安心を得るものです。
これは「タダほど高いものはない」ことになる理由のひとつでもあります。
(一般的には「後が怖い」というのが「タダほど高い」の理由ですが)
このポイントは、人との関係が常に「同等」あるいは「等価」とは断定できないものどうしの「交換」によって関係が成り立っているということです。
もうひとつのポイントは、「贈与」があくまでも一方的な行いであるはずであっても、あくまでも「交換」とは異なり「返礼」を強要しているものではないということです。
にもかかわらず、社会では未開社会であるかどうかにかかわらず、贈与に対する感謝の気持ちをなんらかのかたちで多くの人が表わさずにはいられない現実があります。
一般的には、これは経済関係が発達する以前の問題として捉えられがちですが、よくみると、経済関係が発達した社会においてもなんら変わっていない現実を見ることもできます。
それは経済行為において「等価」の交換と思われる行いは、様々な計算や理由により、「等価」とみなされるだけで、異質なものの交換である限り、どこまでそれが「等価」であるかは、社会の物差しや信用によって決して絶対的なものではないということがわかるからです。
ここに深く立ち入ると私の手に負えないので、端折りますが、等価の交換事自体が「絶対的等価」を保障しているものでない限りにおいて、「疑似等価」の「交換」よりも「贈与」の関係のほうが社会的信用は、ある意味で高いということです。
前にこの贈与の問題を取り上げたときに
まず人間社会は、大自然からの膨大な贈与の上に成り立っていることを書きました。
大自然の贈与は、太陽であれ、大地の恵みであれ、山の幸であれ、海の幸であれ、地下資源であれ、無償のものです。
大自然からの贈与は、なんら人間に対して「返礼」を求めていません。
まさにビタ一文たりとも。
日々、わたしたちは石油を買ったり、魚を買ったり、季節の山菜や松茸を食する幸せを持っていますが、それらの恵みを与えてくれる大自然に対しては、長い間、私たちはなんの対価も払ってきていません。
それらの恵みを提供している石油メジャー資本や、水道業者、電力会社なども、最近でこそ環境維持のための植林や若干の環境保護政策に協力こそするものの、大自然から与えられる無償の贈与に対しては、「等価」もしくは「同等」と思われるほどの返礼は、近代産業が発展し続けるなかで、ほとんど行ってきませんでした。
大自然は、常にそれらの行為に対して、
人間自身が困ることになるまでは、
常にそれでも「いいよ」と言いつづけてきたからです。
わたしは、ここにモースが未開社会を通じて明らかにした
「贈与」の本質と「返礼」の実態
「交換」と「貨幣」の成立による「疑似化」の進歩の歴史と
同じ構図を感じるのです。
大自然の猛威への従属、服従のなかで生きていく社会では、「返礼」は必要とされません。
しかし、大自然の圧倒的な優位のなかでも、服従や従属ではなく、なんらかの共存を求めたときに、わたしたちは大自然に対してその多くは宗教的な意識としてですが、「返礼」を伴って向かい合ってきました。
これをわたしは経済関係が発達する以前の、未開の意識と断定することができません。
モースの投げかけた素材は、こうしたことにつながっているのではないかと感じるのです。
店のブログ「正林堂店長の雑記帖」から転載
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