かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

取り戻すのは「権利」ではなく「権理」

2017年06月24日 | 「近代化」でくくれない人々

ずっと私は明治維新というものが、徳川幕府に対する「革命」ではなくて「政変(クーデター)」であったということにこだわる意味を考えているのですが、このことを考え続けていると最近ひとしお、明治維新というものの負の遺産の面が気になって仕方がありません。

「明治政府」などという表現は使わずに「薩長政府」として捉えたほうが、ずっと当時の国の実態がよく見えてくるからです。

このことは最近、渋川市の郷土史家の大島先生の家にお邪魔して色々お話を伺った時に、一層強く感じられました。

その時の大島先生の話をざっくりとまとめると、江戸時代の武士がいかに貧しく、農民はいかに豊かであったかということ、また明治政府によって江戸時代=徳川幕府の歴史がいかに書き替えられたかという話なのですが、本来は、その時の大島先生のお話だけで記事を一度まとめたいほどです。

 

そもそも武士というのは徴税権を持った権力者の側にいたわけです。

最近でこそ貧農史観はだいぶ薄れてきましたが、江戸時代でも時代を下るほどに農民が豊かになり社会の中での発言権もけっこう持っていたことが様々な歴史研究の分野で立証されるようになってきました。

お伊勢参り、善光寺参りなどの長旅に出たり、村の祭り、村芝居に寄付を募り、現代の行政補助などでは考えられないほど豪勢なイベントを行っていたり。

これらのことはほとんどが商人や農民らによって支えられていたもので、藤沢周平の小説などでも伺われますが、当時の中下層の武士たちにそうした余裕はほとんど見られませんでした。

武士というと何か偉そうに感じられますが、実態は江戸幕府の官僚であり、公務員ということです。

地元の過去帳や墓石を片っ端から調べてきた大島先生によれば、差別されてきた農民といえども、江戸初期の段階から墓石にはちゃんと苗字がついていた。被差別民ですらみんな苗字を持っていたというのです。

農民が本当に貧しくなり、また現実的な差別的な地位に陥って行ったのは明治以降の方が酷かったというのです。「貧農史観」というのは、むしろ明治政府によってつくられたイメージであると大島先生はいいます。

とりわけ日清・日露戦争以後、国費を戦争に費やすようになってからは、物心両面で農民の地位は落とされていきました。またそれは戦争への引き金にもなってしまったのですが。

江戸時代、武士が徴税権を持っていながらも無闇に農民への増税に走ることはせずに、実際はできずに、多くの大名や武士は商人から借金をして財政を回していました。いわゆる「大名貸し」の世界です。これによって地方都市でも金貸し業が短期のうちにのし上がる例がとても多かったといいます。しかしそうした人たちは村落社会で地位がすぐに認められることはなかったので、逆に地域により多くお金を還元することで身分が保証されました。

大島先生のこの辺の説明がとても面白かったのですが、無責任なことをあまり書くと先生にご迷惑をおかけするので本題に戻ると、「武士道」評価の根幹にも関わることなのですが、江戸幕府が開国を迫られた時にその会議の効率の悪さ、生産性の低さなどが目立ちましたが、当時の幕府や役人が責任を取るシステムとしては、明治維新前はそれなりに欧米と比べてもかなり優れたシステムが機能していたということです。

それが明治政府になって突然、「勝てば官軍」という言葉が生まれたように、西洋に追いつけ追い越せ、「近代化」の名目のもと、矜持もへったくれもない政策が次々と断行されてしまいました。

最近またその再現を見ているような気がしてならないのですが、日本の長い歴史の中でもどうも薩長が前に出てくると、日本の長所ともいえる古いものを否定せずにその上に新しいものを積み上げていく発想ではなく、大陸的な古いものは完全に破壊して新しいものを作り直す手法に流される傾向が感じられます。

で、国でも企業でも地域共同体でも、変革には強い意志やリーダーシップが必要なことに変わりはありませんが、そこに矜持のあるなしを分けるポイントがどこにあるのかを考えると、一つの言葉の使い方の違いのことを最近知りました。

それが、「権利」という言葉の使い方です。

正確には明治の開国後のことなのかわかりませんが、英語のrightsという言葉を日本語に翻訳した時、それは「権利」ではなく「権理」という字が当てられました。

これが福沢諭吉の翻訳がオリジナルなのかどうかもわかりませんが、『学問ノススメ』の中に「権理通義」(下写真、2行目下部) とあります。

このことは、山脇直司『社会とどうかかわるか』(岩波ジュニア新書)のなかで初めて知ったのですが、この指摘がなかったら文字を見ていてもその違いに私は気づかなかったことと思います。

おそらく福沢諭吉は「権利」か「権理」かを迷って選択したのではなく、rightsという英語を見たときに、ことわりの通義として自然にこの訳を当てたのではないでしょうか。

それはそもそも個人の利益の側から表明するものではなく、社会全体の理(ことわり)のなかで生まれるものなのだということです。

得てして「権利」を主張する側は、右左を問わず、また国家の側、民衆の側を問わず、自分の側にこそ「理(ことわり)」があるのだと言い、互いの利は平行線のまま多数決や力ずくでの決着を図ることになることが少なくありません。

しかし、少なくともスタートの時点から「権利」ではなく、ことわりとしての「権理」を使っていたならば、まず個人の利益に立つものではないのだということが前提として始まるので、議論や考えのすすめ方は随分変わるのではないでしょうか。

つまり自分の側の権利をいかに相手に理解させるか、あるいは相手側に屈服させるかの闘いではなく、初めから自分とは異なる相手側の立場や利益も含み込んだ「理(ことわり)」がどうあるのかがきちんと想定された議論や社会の関係があるということです。

最近私は地域づくりにかかわることが多くなり、その運動スタイルが、「この指止まれ」方式の理念型ではなく、また特別に意識の高い人や能力のある人によって生まれるものでもない、地域運命共同体の折り合いの世界で組み立てるタイプの活動なので、こうしたことをひと際強く意識するなったのかもしれません。

 

またここで私の思う「理(ことわり)」とは、国家の「理(ことわり)」でもなく、また単純に民衆の「理(ことわり)」でもなく、大自然の理(ことわり)にいかに近づけるかということなのですが、中国ではそれを「天」とし、西洋ではそれを「神」としてきました。

これもまた一神教の神のいう「理(ことわり)」と、日本のような多神教・自然崇拝の「理(ことわり)」とでは大変な違いがあり、さらには日本の中でもずっと多神教的宗教観を維持してきた歴史と天皇制を一神教的なものに作り替えてしまった明治政府のそれとは全く別問題で、それこそこれもまた大問題なのですが、それはまた別の機会に整理してみたいと思います。

 

前にもことわっていますが、私は会津育ちのため薩長に対する根深い偏見がぬぐいきれない弱点を抱えているので、薩長の利益やアメリカの利益が国益の名のもとにゴリ押しされる社会が加速してしまっている世相にどうしても我慢がなりません。

身近なところでいっこうに減る気配のないクレーマーやモンスターペアレントなどによって萎縮してしまう教師や公務員の姿、あるいはサービス業に対して同様の消費者の権利を振りかざす姿。どれもみな「権利」が鋭い刃物となって相手を傷つけ萎縮させてしまっています。

 

そこで自分自身も少しでもよって立つところの「理(ことわり)」を取り戻したく、思いつくところを書いてみましたが、こうした「理(ことわり)」とは、必ずしも憲法が保障しているからといって獲得されて当たり前という筋合いのものではなく、アリストテレスが言っているようですが、一人ひとりが楽器を練習するように、手間がかかっても一歩ずつ生涯をかけて身につけていくことにこそ価値があるものなのだと思います。

 

コメント   この記事についてブログを書く
« 貧乏神がそれでも神様である... | トップ | 生産の基礎単位としての「家... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「近代化」でくくれない人々」カテゴリの最新記事