ひとたび大災害が起きると、もうこれ以上はないという苦しみの中にありながら
さらにそれに追い打ちをかけるような大被害の連鎖が起きる。
今回の東日本大震災で、私たちはそれを思い知りました。
歴史は、何度もそうしたことを繰り返しています。
そして私たち日本人は、何度もそれを
それぞれの時代の与えられた条件の中で乗り越えてきています。
天明三(1783)年の浅間山大噴火とそれに続く天明の大飢饉。
これも、そうした事例のひとつ。
天明七年には、江戸に打ちこわしが勃発。
打ちこわしが起きると、有力町人たちには、幕府から施行の要請がありました。
北原糸子著『地震の社会史 安政大地震と民衆』(講談社学術文庫)に
この「施行」の実態について、とても興味深い記述があります。
まず豪商三井などもこれ(施行)にこたえているが、「施行」の本来の趣旨からみると、
「私的利益関係にある店子や出入り職人層への施行」は、「店賃収入として再び家持へ還元され得るし、
出入り職人は施行を励みに、よりいっそうの仕事への精進が期待できる」ため、
それが「奇特」な施行であるとは判断しがたい。
「施行を奇特とするのは、本来ならば救済しなくてもよいところまでに救済の手が
差し延べられるという点である。」(同書)
(今の時代では、どれだけこの価値と意味が通じるだろうか)
これを理解してかどうかはわからないが、幕府は、
施行をした者に対して、なんと「褒美金」を出しています。
施行総数の半数は、10両以下の小額施行者。
これらの施行高は惣高の1パーセントにも満たない。
(こうした構図は今も昔もあまり変わらない。)
しかし、大事なポイントは
「10両以下の場合、一件宛の施行高は約金一分である。
さらに興味ある事実は、この層に対する褒美金は一件金200疋(ぴき)であり、
100疋が金一分であるから、施行に差し出した金額より幕府からの
褒美金がその倍額になっていることである。」(同書)
当然、このようなことがわかれば、取り分目当ての施行も広がり
長く続けられることではない。
ところが、そうしたことはわかっていたとしても、このシステムには
純粋に経済的にもメリットがあり、それ以外の効果も大きい。
まさに今のネット社会の無料サービスが広がっている所以と同じ。
少数であっても高額あるいは有料の商品やサービスの享受者がいれば、
多数の小額あるいは無料のサービスを享受する人がいても収支はとれる。
つまり、金100疋の施行者に褒美金200疋を与えても、全体の収支はプラスに出来る。
(悪用者が無制限に増えない限りという条件つきではあるが)
それともうひとつ重要なのは、同じ施行であっても、
幕府が直接に困窮者へ100疋配るのと、
町人が困窮者に直接100疋の施行を行い、
それを幕府があとから町人へ褒美として仮に100疋与えたとしても、
100疋のもたらす価値と意義がまったく異なってくるということです。
人格の薄い(あるいは広い)公共機関から受ける施行よりも、
近隣の人格のある特定個人からの施行の方が、
与える側も受ける側も、有り難みや価値を強く感じることができます。
また、そこにはお金の行き来だけではない人間の関係性も発生します。
私たちは、多くの「近代化」の流れのなかで、
この人間の「関係性」をより排除することによってこそ、
自由な交換経済が発展するものとして、その方向にばかり突き進んできました。
歴史の一定段階の発展のなかでは、それは必ずしもすべて間違いであったとはいえません。
でも、次の社会に進もうとしている現代では、経済的合理性を含めた考え方でも、
この手間がひとつ増える人間の関係性を挟むことが、合理的ですらあることに気づきだしています。
この「施行」の仕方の記述は、この『地震の社会史』という本全体からは、
必ずしも本筋の話題ではありませんが、災害に対して、人が、社会が、
どう対応していくかを考える上では大事なポイントです。
東日本大震災の被災地の問題、東電の福島第一原発の問題など
まだまだ深刻な危機が続く日本です。
財政危機のカンフル剤的な穴埋めにしか使われそうにない増税策よりも、
有効で生きた予算の使い方を考えてもらいたいものです。
お金が足りない、財政危機だから収入=税収を増やすではなく、
まず徹底した無駄な歳出カットと、今ある少ないお金の有効な使い方、回し方。
票集めのばらまき予算よりも、ずっと効果的なお金の使い方。
はたして今の政治家に理解できるだろうか。
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