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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

武士道とアリストテレス 後編

2010年12月25日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
 あらゆる都市国家は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目標に邁進しなければならない。
さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・。
また、法は単なる契約になってしまう・・・
「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう
―――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。


 よくぞここまで踏み込んでくれたと思いながらも、やはり一歩間違うと恐ろし考え方です。
 だからこそ、私たちは道徳や倫理といったことがらは、あくまでも個人の規範の問題であり、国家などが安易に介入することは避けてきたのです。


 しかし、まただからこそ、とアリストテレスは続ける。


 だが、なぜ、有徳な生活を送るために都市国家に住まねばならないのだろうか。なぜ、健全な道徳の原理を自宅や哲学の授業や倫理学についての書物で学び、必要に応じて使うことができないのであるろうか。
 アリストテレスは、そういうやり方では美徳は身につかないと述べる。
「道徳的な意味での美徳は習慣の結果として生まれる」。実践することによって覚えられる類いのものなのだ。
「美徳を身につける第一歩は、実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである。」
                                 (マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』 255ページ)


 この表現をみて、おや?と思った人も多いのではないでしょうか。
 これは西洋的な合理主義思想のなかではあまり見られない表現でありながら、仏教的修行や東洋的・日本的発想のなかでは頻繁にみることのできる私たちには慣れ親しんだ表現だからです。

 
 「正義」や「倫理」、「道徳」を語るとき、制度やしくみの問題を語るよりも、まず個人のこの実践すること、習慣によって訓練されることこそがその前提であるべき大事なことだということです。
 まさにこれこそが、武士道が核心においていたことです。
 武士道に限らず書道、柔道、茶道など◯◯道と「道」のつくことは、すべてそうした実践の思想が内包されています。
 それに対して「何々学」という分野には、すべてとは言いませんが、多くの場合が「おのれの実践」ということは棚に上げられているものです。

 道徳や倫理が低下しているからといって、教育勅語の復活やすぐれた道徳の教科書をつくることよりも大事なことを、まず日々実践し、習慣付けをしなければならないということです。
 それには、子供への教育方法の議論よりも先に、何よりも教師自身の生活習慣や姿勢づくり、人間の手本づくりからはじめられなければなりません。
 もちろん、これは簡単なことではありません。

 だからこそ、「武士道」は、この簡単ではないことの実践のために、幼い時からのしつけと訓練を重ねていたのだと思います。
 主観的な価値観を前提とした倫理や道徳だからこそ、試験で何点とれば合格、どの程度の効果があればよい、といったようなものではありません。
 また罪や責任を感じたとき、何年間の懲役に服すればよいか、いくら賠償を払えばよいのか、といったことでは決してありません。
 もちろん公共の場では、そうした方法も必要であることには違いありませんが、問題の本質は、外部から要求されることではなく、当事者自身がどう感じるかということです。

 なにかと比較することは出来ないという価値の重みを理解していたからこそ、武士道は、考えられる限り一番重いものとしての「自らの命」を担保として据えていたのではないでしょうか。
 
 確かに野蛮で非常識で形式へのこだわり過ぎといった批判はある「武士道」ですが、この世で考えられる限り最も重い「自らの命」を担保する覚悟を持ってこそ、道徳や倫理、責任といったようなことは、自分自身に対して、また他者に対して、「信」に値する行為となりうるのだと思います。

 このような意味で武士の魂とされる刀は、他者を斬り、自らの身を守る道具であると同時に、自らを斬ることをも同等の役割として位置づけることで、痛みとその覚悟も含めて自己と他者の価値を対等なものに考えられる修養が可能な道具に位置づけられるようになったのではないかと思います。

 その自らの命を担保にするなどといったことが、一時の覚悟だけではなし得ないことがわかっているからこそ、一度しか使えないその「切腹」に至るだけの修養を、小さい時から時間をかけて積むのが「武士道」の「道」たる所以だと思います。


 「最後の忠臣蔵」でゆうの誘いを断って瀬尾孫左衛門がしなければならなかったことは、ただ「死」をもって「忠義」を示すことではなかった。
 その死に方のなかでこそ、「信」を徹底するものとして示さなければならなかった。
 だからこそ、かけつけた寺坂に「介錯無用!」と叫び、自らの手で首をかっ切らなければならなかった。

 しかし現実には、時代が下るほど、形骸化した作法、儀式のもとで、体面を守るためや外部から強制された消極的な「切腹」が多くなっていったことは十分想像できます。
 にもかかわらず、世界にも例をみないほど長く徳川幕府が続きそれを支えてこれたのは、「責任をとる覚悟」を持った武士とこうしたしくみがあったからこそ、時には農民たちの反抗は受けながらも、200年以上にわたって政権を維持し続けることができたのではないかと思うのです。

 意外にも切腹などの作法を含めた「武士道」は、戦乱の時代よりも、武士が戦場に出ること無く官僚としての責任を負う時代になってからの方が、広く普及し確立していったといえるようです。


 なかなか立ち入って話すことが難しいこうした「正義」や「道徳」「倫理」といったことは、制度やしくみであるよりも、まずアリストテレスが強調しているように、「習慣の結果として生まれる」ものであり、「実行すること」でしか身に付かないものです。

 今日、子供のしつけや教育の問題が騒がれていますが、こうした流れを見れば、それが決して道徳の教科書の問題ではないことがわかります。
 今の子供をどう育てればよいかという問題ではありません。
 それは大人である自分自身が、あるいは教師が、親が、直面している現実に「首を賭ける覚悟」をもって望むことが第一であると思います。
 現代で腹を切る覚悟まで求める必要はありませんが、首(職)を賭ける覚悟くらいはまずしないことには、「信」は貫けるものではありません。

 確かに雇用不安の厳しい現代で安易に首を賭けるようなことをしたら、首はいくつあっても足りないと反論されそうですが、まさにそこでの覚悟こそが、企業を倒産の危機から救う条件であり、学校の職員室の空気を変える一歩であり、たとえ失敗しても子供に多くのことを見せて伝えられる親の条件であると思うのです。

 首がいくつあっても足りないとは言いますが、冷静に考えれば首をかけるほどのことというのは、そう何度もあることではありません。その首をかけるほどのことに出会えたそのときこそが、自分の価値を高めることができる素敵な時であるはずです。

 その先のことは、確かに生易しいことではありません。
 わたしも責任は終えないなにも約束もできないような世界のことですが、
まさにこれこそがサンデル教授の目指す「白熱した論議」がわき起る場のはずです。


 以上、思いつくままに映画「最後の忠臣蔵」とマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『ハーバード白熱教室講義録』などが交錯した文になってしまいましたが、年末に他の大事な仕事があってもどうしても書いておきたいことでした。


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房


ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(下)
マイケル サンデル,Michael J. Sandel
早川書房
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