地域の人たちと話をしていると、地域のどこに明るい未来があるんだ、雇用がないんだから若い人が増えるわけがない、といったようなことをしばしば耳にします。
いつも、「それは違う」と思っているのですが、単純に反論してなんとかなることではないので、その場では黙ってやり過ごすことが多いものです。
でも活字の上では、もう少しなんとか整理しておきたいと思いました。
まず、理屈の上での話ですが、
私は仕事や雇用に関しては、いつも次のような原則をイメージしています。
1000万円レベルの仕事の下には、100万円単位の様々な仕事が10個あります。
500万円レベルの仕事の下には、50万円単位の様々な仕事が10個あります。
100万円レベルの仕事の下には、10万円単位の様々な仕事が10個あります。
5万円レベルの仕事の下には、5千円単位の様々な仕事が10個あります。
1万円レベルの仕事の下には、千円単位の様々な仕事が10個あります。
もちろん、実際にはそう単純ではありませんが、このように捉えることができるのも間違いないと思います。
地域に仕事がないという問題を「雇用」の問題だけで捉えてしまうと、大事な仕事の内容や実態を見損ない、仕事を「参加権」や「所属権」の問題でしか捉えられなくなってしまいます。
確かに現代社会の多くの仕事は、賃労働型であるという意味で、その業種への「参加権」や「所属権」を勝ち得てこそ成り立つような仕事が多いことに間違いはありませんが、現状の仕事を改善することだけではなく、ゼロからはじめて千円の売り上げや利益を生み出すにはどうしたら良いかを考え、それがどれだけ難しいかということは、「所属」型、「参加」型の仕事に浸かっているとなかなか見えてこなくなってしまうものです。
このような意味で、年収300万、500万の仕事が得られるかどうか、起業する場合でも、年収500万、1000万のビジネスが立ち上げられるかどうかにこだわりすぎると、本当の持続可能な仕事の姿から遠ざかってしまうように思えてなりません。
ただ、悲しいかな厳しい雇用の現実は、非正規労働の増加とともに、望まずしてこうした数万から10万円程度の仕事の組み合わせで働かざるをえない労働形態を多く作ってしまいました。それも、従来の働き方を見直す良い機会になったと言えなくはありませんが、現実はとてもそんな風に褒められたものではありません。
実態が、先の参加型・所属型の労働スタイルが分解されただけのことで、仕事を構成する小さな稼ぐ力がたくさん芽生えたわけではないからです。
多くの地方自治体では、大きな企業誘致に成功すれば、自治体の税収が大幅に改善されるだけでなく、まさに雇用も相当増えるかもしれませんが、ひと昔とは異なり大きな企業ほど、時代が変わっても長くその地に生き続けることは難しい時代になってきています。
大企業への依存度が高まるほど、「ある日突然」という事態に地方自治体が襲われる例は少なくありません。
ですが、念のため書き足しておきますが、この逆の思考パターンも即効性だけを考えれば確かに否定はできません。
むしろ、売上を数パーセント伸ばす努力よりも、売上を2倍、3倍にするには、と考えた方が、今の延長上の思考から脱却するので、逆に容易い場合も少なくありません。
さらに、同類の低い売り上げ仲間同士の間で競い合うよりも、桁違いに事業規模の大きいところを相手に営業をかけた方が、たやすく売り上げを伸ばす確率が高いのも事実だと思います。
大事なことは、1万円でも千円でも百円の仕事でもよいから、自らが稼げるネタを持てるかどうか、そのような能力や資産づくりを常日頃考えているかどうかということです。
こうした思考の欠落したまま、ただ「マジメに働く」「より多く働く」労働観が、国際水準から大きく遅れてしまった日本国民一人当たりの生産性の低さにつながっている気がします。
まさに、仕事=雇用と考えてしまうところに、ここ半世紀で浸透してしまった「賃労働偏重」の悲しい労働実態があります。
そしてこの話の先には、さらに大事なことがあります。
本来の「仕事」とは、「雇用」で語られるものよりも、自分の目の前の現実、目の前で起きている課題にこそほんとうの「仕事」は存在しているのだということです。
多くの人が、どんな仕事なら稼げるか、食っていけるか、安定した暮らしができるかを考えるのは当然ですが、会社の仕事を一生懸命、マジメに働いている人であっても、日常の目の前に起きた問題に直ちに対応することなく、それは自分の担当ではない、自分の専門ではないといって、避けてしまうことをよく見かけます。
以前「それはありません」のひと言にすべてがある に似たようなことを書いたことがあります。
一生懸命勉強して良い学校に進んで、資格を取って、良い会社に就職していながら、大きな組織の分業社会で働くようになると、「それは自分の専門ではない」「それは担当ではない」と思ってしまうことが、どうして多くなってしまうのでしょうか。
まさに「専門性」こそが、より高付加価値な仕事をなす条件であると。
微妙な違いかもしれませんが、現実には「専門性」を極める仕事ほど、その専門性を発揮するために「必要なことはすべてやる」という姿勢が徹底されているものです。
また現代社会は「競争社会」であるとはいいながらも、競争に勝っている組織ほど、その内部では勝つためのより多くの「協力関係」によって支えられているものです。
そこには、一貫してそれまでの経験の枠内では解決できない問題に対して、絶えず学び、調べ、試してみるというチャレンジがともなうものです。これは共通の目標に進んでいる「仲間」の間でこそなせるワザです。
そこにつながりが見えない組織間になってしまうと、「専門ではない」「担当ではない」「自分にはできない」といった言葉で、そのチャンスを排除してしまいます。
そのような例は、やはり所属・参加型の仕事をしている人ほど顕著になる傾向があるようにも思えます。
この姿勢の差が、付加価値生産力の大きな差につながっていきます。
課題に直面した個人であれば、本来逃げることができない課題が、組織が大きくなるにしたがって、解決主体が曖昧になってしまう傾向がありますが、その意味で有機的に動いている組織ほど、組織そのものが「大きな個人」として生きているとも言えるかもしれません。
かつて国民の8割近くが、農業を中心として個人商店や様々な分野の職人などの自営業者であった時代には、それぞれの事業主が自分でその時々に直面した課題に対して、程度の差こそあれ、当たり前のように自らが解決していく世の中でした。
能力があろうがなかろうが、常に自分が食っていくために必要なことは自分ですることが当たり前の当事者であたからです。
同じ構造が、今でも主婦にはあると思います。
今晩の料理をどうするか、冷蔵庫にある材料で何をつくるか、スーパーで何を買ってくるか、子どもが急に熱を出したらどうするか、反抗期にどう対処していくか・・・・等々。
無条件に自分ただひとりが、その場で解決していかなければならない課題ばかりなので、能力や資格があろうがなかろうが、その瞬間に極めてクリエイティブに自分で答えを出していかなければならないのです。
これが本来、仕事でもまったく同じはずなのに、こと会社や組織の「仕事」となると、スルーできるかのことばかりたくさん出てきてしまいます。
かつて、地域経済復活の切り札として「地域通貨」が流行ったことがありました。
特定の地域内でのみ通用するお金で、普通のお金のように利子がつかないため、長く持っていても得しないお金として、、より早く動く通貨として期待されましたが、なかなか普及はしませんでした。
これが普及しなかった原因は、地域通貨の意味そのものが伝わらなかったことや、地域商品券との違いがあまり理解されなかったことなどもありますが、一番の理由は、地域内で「私があなたに対して何がしてあげられるか」「あなたは私に何をしてくれるのか」といった関係の構築が不十分であったことではないかと私は思っています。
だからこそ「人材ネットワーク」のようなものを作ったというかもしれませんが、通常の経済ではその人材や能力、持っている商品やサービスを使うにはどうしたら良いか、それぞれが必死に広告・宣伝、売り込み・営業をやってやっと関係を作っているのに対して、ただ安い労働力として地域ネットワークに登録さえされればいいと安易に考えていた傾向もありました。
「仕事」や「地域経済」を担うもっとも大切なことを、まだよく理解できていなかったように思えます。
「仕事」としてみたときにもっと大事なのは、他人から何か頼まれたときや、何か新たな問題に直面したときに、それが自分の専門でなかったり、担当ではなかったり、これまでの経験ではやったことがないことであったりしたときにこそ、能力を開発することです。
調べ、学び、協力を得られる人を探しだすことを前提に考えれば、「それは自分の専門ではありません」といった言葉が出る前に、自分にできることを探さなければならないことに気づかなければなりません。
誰もが食べていくために背に腹は変えられないと、納得のいかないことであってもこなしていかなければならないのが「仕事」であると考えがちですが、こうした「仕事」の成り立つところの原点をもう一度考えてみれば、自分の目の前に現れた課題をそれまでの経験や能力に関わりなく解決していくことこそが基本であることに気づけるのではないでしょうか。
これからの時代の経済発展を、従来型労働の労働量や労働密度を上げることなく、創造的付加価値を増していくには、こうした脱所属・参加型の労働観を取り戻していくことが不可欠であるとわたしは思います。
そうした課題解決型の仕事は、まさに身の回りの地域にこそたくさん眠っているからです。
より多く稼ぐことをなんら否定するものではありませんが、ただ「より多く」「より大きく」だけを求めてマジメに働き続けると、気づかないうちに私たちの子や孫、子孫らのよって立つところのよすがを食いつぶしていってしまいます。
それは、先祖から代々受け継いできた家や土地を、子供達が「タダでも欲しくない」という社会にあらわれてきています。
これさえあれば食っていける、という構造よりも、足元の小さな稼ぎもとを一つ一つ発掘していく力の方が、一見、楽ではないかもしれませんが、子どもたちへ残せるものは、少なくとも失わずに生きていける道になるのではないでしょうか。
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