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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

心強い1%のリアルな力(多数決型民主主義からの脱却)

2018年10月19日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!

以前どこかに51人の考えを49人に押し付ける民主主義が正しいといえるのだろうか、といったようなことを書いた気がするのですが、毎度のことながらどこに書いたのか確認できません。

このことは政治の世界だけでなく、企業組織や地域づくりなど、いたるところで直面しているので、私にとっては考える機会も多いテーマで、この間いろいろ考えてきてたどり着いた視点があるので、またつらつら書いてみます。

 

まず第一のポイントは、どうも現代の多数決型民主主義の前提が、独立した個人の集合としての多数決よりも、集団(組織や派閥)相互の対立を前提にした性格が強いように思えてならないことです。

(日本の学校教育が、そうした独立した個人の集まりとしてみない集団管理型教育に留まっている後進性の問題も大きく関わっていますが、それはまた別の機会に書くことにします。)

そもそも過半数を取れば認められるという考え方、つまり51人の賛同が得られれば49人の意見は無効になるなどという論理は、極めて限定的な場合のみに適応されるべきことであって、それが通れば51人の立場は勝ったから当然かのような「正義」としてまかり通るなどというのは、絶対おかしな論理のはずです。

それがまかり通るという昨今の事例は、ほとんどが100人の個人のうちの51人の賛成と49人の反対という構図ではなくて、100人が所属している組織や派閥同士の争いを前提にしている場合が多く、組織相互の主導権争いの決着方法として機能しているにすぎないように思えてなりません。
極論すれば、初めから与党対野党の対立構図があり、与党の立場は初めから法案を何とか通す目的で臨む都合、妥協できる範囲の模索と十分審議は尽くされたというアリバイ確保のための審議であり、議論をしていたら立場や考えが180度変わるなどということは、初めからありえない構図で戦っているのです。

かりに立場が野党の立場であったとしても、そこは主導権を持っている側に対するアクションという意味で機能していることが多く、もしも、その100人を構成している個人が何の組織にも属さない独立した個人の集合として(現実にはそのような想定は難しいものですが、組織化されていない市民が一堂に会するような想定は徐々に現実味を帯びてきています)

こうした問題を一般論として語るのは無理があります。

 

しばしば地域で意見が真っ二つに割れる例として、ダム開発や基地問題があります。
どちらも巨大プロジェクトとなる事業を軸にしているため、地元でその利害(恩恵)に関わる人たちと、恩恵如何ではなく、安全や平和を求める人たちの間で、51:49の「正義」の攻防が繰り広げられます。

それが、ここ十年くらいの間に政治の世界では、小選挙区制と安倍内閣の登場とともに、どちらが51の側になるかに関わりなく、その51人の「正義」が絶対的力を持つかのようになってしまいました。

いつの時代でも国民の総数からすれば多数派であっても、議会で多数派になれない限り少数派に変わりはなく、弱者の側であり続けたわけですが、それでも少数派は生命が脅かされるような問題であれば、議会の多数決以外の様々な抵抗でその立場を守ることが、簡単ではありませんがしばしば可能であったと思います。


51人の多数派であっても、命に関わるような大事なことであれば、たとえ相手が49人はおろか仮に1人であっても、通常は蔑ろにはしにくいものです。
事実、わずか数人の少数派であったとしても、重要な問題であれば、世論に訴えたり、司法を頼ったり、デモなどの恣意行動をはかったり、様々な抵抗手段はあります。
また多数派の側も渋々かもしれませんが、そうした意見や抵抗がある限り、完全に無視することはできずに決定を見送ったり先延ばししたりすることもありました。

それがなぜか、長い議会制民主主義の歴史のなかでも安倍内閣に変わってから急に、49人の側の中身はいっさい問うこともなく、ただそこにあるのは、51人で多数派になったという主導権をとりさえ取れば、49人には構うことなく何でもありの世界になってしまいました。


近頃は、何かにつけて様々な活動で組織を相手にすると、物事を前に進めることが難しくなってしまい、結局は個人で自分の責任でするしかないのか、またはそうすることこそが正しいのか、と思うに至ることがとても多いのです。

異なる考えや立場の人同士が議論するときは、互いに積極的な意見を出し合っているにもかかわらず、議論のマナーやルールが未熟なばかりに意見が押しつぶされてしまったり、提案者自身が自らの意見を諦め投げ出してしまう場面を幾度となく目にします。

そもそも、民主主義というのは、最も効率が悪く手間のかかるやり方なわけですから、本来、相当な根気を持って臨まなければならないものですが、そうした訓練自体、大人になるまで現代日本ではほとんどされていません。

そんな民主主義の原点が、どこにあるのかさえも見えなくなってしまったかのようなこの国の姿がいまあります。

 

 

実践を優先する民主主義へ

そんな折に他方で、そうした難しい現実を突破している例もあることを知りました。

初めから組織を相手にして物事を進めようとすると、必ず意見が分かれて、妥協点を探ると内容が薄められてしまったり、目的そのものを諦めざるをえなくなったり、さらには説得し続けるうちにこちら側の心が折れてしまう、などの場合がとても多いのものです。

そこで「行動派民主主義」とでもいうような「論証」よりも「実践」を重視する活動の世界があります。

より早く一歩を踏み出すことによってこそ道が開ける活動なので、ことを起こす前の段階で、それが正しいかどうかを深く議論することにはあまり労力は割くべきではないという考え方です。

この行動前の不確実な要素が多い段階で、賛否の議論をすれば当然、未知の領域を不安視する意見が出て否決されてしまうのがオチです。ところが競争環境の激しい先進企業多くの現場では、そこを早く踏み出さない限り、良い結果を出せないのも目に見えています。

そこで役員会議で議論をした時に多数決を取れば、あえて少数意見の側を取り入れた方が、競合相手に真似をされにくく優位に立てると、あえて多数側の意見を排除したり、大勢の議論よりもトップダウンの決定を優先したりする方が良い結果を出せるというわけです。
もちろん、この選択は楽な道ではありません。
でも、そもそもより多くの付加価値を求めるならば、あるいはより強い競争力を求めるならば、当然の選択でもあります。

この「実践」や「行動」を優先する民主主義でより重要になってくるのは、結果の検証です。仮説で走り出すことを優先しながらも、その結果や経緯を見て絶えず検証と修正を行う力が求められます。

ここが行政と民間の最大の違いだと思うのですが、行政はほとんど企画書が通れば、あるいは予算が通れば9割の仕事は完了かのようにみなされます。
十分な結果が得られなくても誰も責任を取らず、危機感を持って修正されることはほとんどありません。 

ところが民間の場合は、企画が通ろうが予算が通ろうが、その商品やサービスが売れなければ何のゴールにもならないのです。

予算執行率ではなくて、目標(売上げや利益)の達成度こそが全てなのです。

本来、そこは行政であろうが民間であろうが同じことのはずなのですが、そこにオーナー(出資者、納税者)がいないばかりに、「行政」は結果に責任を取りません。クオリティーを上げる努力をしてこそ結果が伴うのに、予算執行率にしか関心が向かないのです。

多くの事業が、企画が通り予算を獲得してからは、民間などに丸投げされるだけで、監査を受ける内容は不正な支出がなされていないかをチェックするレベルに留まっています。 

いまだに予算を使い切ることこそが最大目標になってしまっているのです。

いくら経費がかかろうが時間がかかろうが、売れるかどうかこそが最大目標である民間企業とは、天地の開きがあるにもかかわらず、私たちの税金がそのような論理で今も大真面目に使われ続けているのです。

理論上の正しいかどうかや、その考えが多数に支持されているかどうかよりも、様々な現実の壁にぶつかり、必要な結果に至ることがいかに難しいことかを前提にして課題に取り組むことこそがどれほど大事であるかということを、これからの時代は十分認識しなければなりません。

 

 

1%がもつリアルな力

さらに、この現状への疑問に一層心強い後押しをしてくれたのが、現実の「1%のリアルな力」の姿です。

私は小さい頃から転校を経験してきたこともあり、もともとマイノリティー、アウトサイダーであることが「自然な?」立ち位置かのように育ってきました。
そんなせいか、いかなる組織でも100対1くらいのアウェイの環境であることに、好んでいるわけではありませんが、私の側にはそれほど強い抵抗はなく育ったような気がします。 

何事も1対1の関係こそが基本で、複数といえども2人目、3人目こそが大事であることに変わりがないと思っています。またどんなことでも、物事を始めるときというのは、「自分一人でもやる」という最初の覚悟が基本であることにも変わりがないからです。

にもかかわらず、確かに現実は自分が多数を背景にしていないことで、多くの壁にぶつかります。

 

そんな折、一見数字のトリックかとも思いましたが、現実的な大きな気づきがありました。

それは、先の100対1の関係でばかり、自分が不利な立場であると思っていましたが、分母を100から1,000に変えると分子は10になります。

分母を1,000に変えると仲間は10人もいるのです。

これは私には多すぎるくらいです。

分母が1,000人になったとしても私には7人もいれば完璧なくらいの数です。
たとえ分母が1,000人になったとしても、3人から5人もいれば十分なのです。 

「七人の侍」とは、よくできたもので、芸や技術、才能を持った人間が七人も集まれば、最強の集団になるのです。

つまり、1%を100分の1と見るのではなく、1000分の10と見ると、
そこには十分すぎる仲間がいることになるのです。 

何か新しいことを始める時は、だいたいは二人目、三人目のこころ強い仲間が見つかれば十分なものです。

この二人目、三人目を探し出すことを抜きにして、安直に「多数」でなければ始められないと考えてしまうのは、とんでもない勘違いと言えないでしょうか。

多数になればなるほど、「覚悟」や「責任」から遠ざかってしまいように思えてなりません。 

 

ところが現実には、この一人でもやる覚悟や少人数でまず試してみる行動優先型の多くは、その後の検証が甘くなりがちなのも事実で、残念ながらしばしば「独裁」への道にもなってしまうものです。 

この100人にひとりの行動や、1000人に3〜7人の行動が、その他残りの圧倒的多数の人びとから最低限の許容を得られるかどうかは、実践プロセスの公開性やその後の検証、他人の意見も聞きながら行えるか、などにかかっているのですが、そこでまたみんなの意見を聞いていたら、また多数決型民主主義に戻ってしまいます。


ここは、ざっくりとした結論で申しわけありませんが、 100対1というレベルの少数派とも言えないマイノリティは、決して弱者であったりマイノリティーだということなのではなく、そもそも民主主義の原点に返れば、その一人こそが民主主義の一番の出発点であるのだという「覚悟」が、基本であるということです。

その「覚悟」を持った一人に、もしも、同じ覚悟を持った二人目、三人目があらわれたならば、
こんなに幸せで心強いことはありません。 

万が一、それが七人でも集まろうものなら、映画ならずともそれは「出来すぎ」と言いたいほどです。

ものごとの道理からすれば、多数派を形成しなければ始められない、というのではなく、いかなる場合であっても、一人から始まり、一人ひとりによって構成されている「多数」なのだということです。

多数決型民主主義も大事であることに変わりありませんが、これからの時代はそれが全てではないということも理解していかなければならないと思います。

 

 

        一人、覚悟をした人間がいれば、

                 それは過半数だ。

                     トム・ピータース

  

 

   なくてもともと

     一人か二人いたらば秀

     十人もいたらたっぷりすぎるくらいである

          茨木のり子「友人」『おんなのことば』(童話屋)

 

 

 

ちょっとうまくまとめきれないので、
ダイジェスト版を作りました。 

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