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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「一抜けた」の成功論、幸福論が支持されない時代

2019年08月09日 | これからの働き方・生業(なりわい)

日本経済は、1995年頃をピークにして以降、長い停滞・下降期に入っています。

それは、ただ停滞・下降、デフレ期を続けているというだけでなく、それまでの「一億総中流」ともいわれた分厚い中間層が没落して、人口のボリュームゾーンは、ギリギリの中で生きている低所得層が中心の社会になってしまいました。

このような時代に、「平均」を示した統計データの多くは、私たちの実感にはそぐわないものです。

下図にみられるように、富士山型の中央が平均値にはならないからです。


上図のみなかみ町の部分は私の加筆です。

 

そうした時代では、高齢者に限らず若者までが、這い上がるチャンスを掴もうとして努力している間に、ちょっとした予定外の出費(事故や病気、失業など)がかさむと、再び立ち上がれないような致命的ダメージを受け、瞬く間に貧困層に没落してしまいます。

そればかりか、明日への希望、生きていくのぞみそのものを失ってしまいます。

 

東日本大震災のような災害時など、多くの被災者は家を失った人でさえ支援金・義援金含めても600万円くらいの支援しか受けられていません。

このような実態で「復興」などという言葉がどこから出てくるのでしょうか。

また、こんなときに、どうして東京オリンピック開催などと騒いでいられるのでしょうか。

 

  

 

 

 

 

このような時代では、もはや個人で努力した 「一抜けた」の成功論は支持されません。

 

経済に端を発した暮らしの破壊は、社会全体、さらには地球環境レベルで限界に達してしまっているので、右肩上がりの時代のように、多くの人がその「成功モデルに続け」といった期待は持てません。

むしろ生き残りのサバイバル環境にある人の方が多い時代になってしまっています。

圧倒的多数の人びとにとって、暮らしの底上げこそが必死の課題になっているのです。

 

子どもや孫たちの世代にツケを押し付けずに、明日への希望の持てる社会をいかにして取り戻していくかという、極めて政治的課題の解決に立ち向かわなければなりません。

 

というと、すぐに「消費増税やむなし」の理屈に思われがちですが、ここまできた日本が、そのような方法で幸せになれるはずがありません。

そればかりか、そのような思考こそが国民の貧困を加速させてきました。

 

 

 

 

こうした問題は、明らかに財源がないからとか、国の財政危機を解決しなければならないということではありません。

問題の核心は、GDP3位の「世界一の金持ち国家である日本で起きている異常事態」のことです。

 

外貨獲得が至上目的であった敗戦直後の日本と違って、バブル崩壊以後の日本は、ずっと供給に需要が追いつかない時代です。

そんな時代に国民が一生懸命働けば働くほど、貿易黒字が無意味に溜まり、そのドル建てのお金はただ「塩ずけ」にさせられるばかりです。

 

さらに使い道といったら、アメリカ国債を買うとか、高額なポンコツ兵器を買わされるとか、余剰農産物を買わされるとか、詐欺まがいの金融品を買わされるばかりで、いくらお金を稼いでも日本国内の富の蓄積に回されることはありません。

 

 

日本については財務省、その他についてはIMF資料より

 

このような世界一の金持ち大国であることが、アメリカから止まることなく圧力を受け、むしり取られ続ける根本原因になっています。

もはや貿易黒字を増やすことは、日本にとってなんのメリットもありません。

 日本人が一生懸命働けば働くほど、その富は国民の富としてではなく、アメリカにむしり取られるお金として、あるいはアメリカに貢ぐお金として使われるばかりに見えます。

この349兆円分は、日本人がタダ働きをしているも同然なのです。

 

低賃金、長時間労働でそこまでして稼いでいながら、暮らしの貧困は加速するばかり。

国際社会からは、そんな働き方で国際競争で勝とうなんていい加減にしろよと言われてます。

(このあたりの詳しい事情は、大西つねきさんの動画の数々をぜひご参照ください) 

 

だからこそ、今わたしたち日本人が抱えている課題は、右肩上がりの時代に言われていたような「一抜けた」の個別の成功法則ではなく、すべての人々が幸せになれるような社会を目指す、政治目標や課題の実践であり、 限界にきているこの国や地球の生存を守るために、子どもや孫たちの世代に受け継げる環境づくりが最優先になっているのです。

これは、まさにSDGs(だれ一人取り残さない持続可能な開発目標)が掲げている理念です。

 

先の参議院選挙で、女性装の東大教授である安富歩が、ただストレートに「子どもたちのために」を最優先課題にあげていました。

必ずしもその活動から説明十分とは思えませんでしたが、トータルな判断からすれば極めて正しいことだと思います。

もはや自分の事業の延命だけを考えればよい時代ではありません。

残念ながら、自分のことだけ考えていたのでは根本解決にならないのです。

 

確かに、それぞれの事業や暮らしは、世の中全体が変わるまで待ってはいられない切迫した事情がどこにもあります。それは私もまったく同じです。

「一抜けた」の論理ではなく、あんなやり方もあるのか、こんなやり方もあるのかと一人ひとりが、自分にあったこと、自分にしかできないことを見つけていかなくてはならないことにかわりはありません。

 

ですが、仕事でも日常でも同じですが、本来は大事なことこそ先にしなければならないものです。

つい誰もが、目の前のことばかりに追われて「忙しい」を口実にしてその大事なことを後回しにしてしまいます。

 

フィンランドの『人生観の知識』という高校教育の授業では、次のようなことが基本に据えられています。

「市民に知識を得る能力や動機、可能性がない場合、民主主義は単なる選挙権の行使に終わってしまう。養育と教育が、批判的に考える市民を育てることを可能にする。

 国家が組織的なプロパガンダを行う全体主義的な国では、国民は国家のイデオロギーに従順であるように育てられる。そうした国では、批判的な国民は社会的危険、国家制度を揺るがす存在と見なされるので、自分で考える能力を発達させる価値は認められない」

     岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』新潮新書

 

何事も小さなことを積み重ねていくことは大事ですが、一般会計100兆円だけの議論ではなく、塩漬け状態同然の対外純資産、349兆円のあり方や、国会審議の対象にならないばかりか、国会議員が要求しても明細が明かされない特別会計400兆円(重複会計を除いても200兆円規模)などをタブー視せず真正面から議論することなしには、もはや「国家経営」を考えることはできません。

MMT(現代貨幣理論)の登場などにより、ようやくお金の根本的な仕組みを含めた議論ができるようにはなってきましたが、いまの政治環境のままでは仮にMMTが受け入れられたとしても、国民の暮らしのためにならないお金がさらにジャブジャブ使われるばかりになってしまうのがおちです。

政局論ではない、もっと根本的な政治経済論議抜きに、これからの国民の幸せはありえないのではないでしょうか。

わたし個人が理想に思い描いているのは、お金をかけずに人がより自由になんでもできる社会なので、より多く稼いでより多く使うことを目標にしている多くの人たちには相手にされないかもしれませんが、今の日本のままでは出口が見出せないだろうということでは一致していると思います。

そもそも「お金」とは何なのかといった根本から、国家経営のあり方や人々の日常の幸せ像について、「民主主義が単なる選挙権の行使」に終わってしまわないためにも、ただ怒りに任せることなく新しい常識の渦を巻き起こしていきたいものですね。

 

 
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怒るな 憤れ
 
怒りは 憎しみに変わるが
 
憤りは 義憤へと変じていく
 
 
怒りは常に 矛先が他者に向けられるが
 
憤りは常に わが胸のうちを顧みさせる
 
 
怒りに 身をまかせてはならない
 
愚かな為政者たちは しばしば 民衆の怒りを利用してきた
 
 
怒るな 憤れ
 
怒って 内なる 愛の火を
 
打ち消してはならない
 
 
             若松英輔 Twitterより
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