英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

批判することが好きな日本人

2014年08月09日 09時23分20秒 | 時事問題と歴史
 どうも日本人は批判することが得意な民族だ。だからといって韓国人や中国人が批判をせずに相手の過誤を分析する民族とも思えない。大多数の民族は批判が好きだ。だが一日本人として読者に申し上げたい。中国人や韓国人のように批判することも結構だが、批判する前に「なぜ」を分析して何らかの形でこれを未来に生かしていくことを認識してほしい。批判することは誰でもできる。
 今日の産経新聞の電子サイトに「朝日新聞『慰安婦検証』与野党が批判の大合唱」の記事が掲載されていた。この記事を読んで二つのことが頭をよぎった。日本の政治家の質の低さだ。批判すればそれでよいということではないだろう。朝日新聞の慰安婦報道の誤報を蜂の巣をつつくがごとく批判している。

 産経新聞によれば、東京都の舛添要一知事は7日、首相官邸で記者団に「全くの虚偽報道であるということを反省するのは当然だ。そういうことが日韓関係をゆがめた一つの理由だ」と答え、朝日に猛省を求めた。
 また、維新の小沢鋭仁国会議員団幹事長は「三十数年の時を経て訂正された記事の影響は極めて大きかった。国会の場で議論をするのは当然だ」と指摘。結いの小野次郎幹事長も「いつの時点で記事の問題点に気づいていたのかを究明しなければならない。(誤った記事が掲載された以上に)記事をずっと保ってきたことの方が責任は大きく、影響は計り知れない」と続けた。

 これらの批判はその通りだが、与党自民党や野党の右派政治家の心理を覗けば、「朝日を批判して、自らの正当性をアピールし、朝日が日本を貶めた」という一点だけに集中している。産経新聞など右派のメディアもここぞとばかりに朝日新聞を批判している。「おれたちが正しいかった」と主張しているようだ。これに対して、リベラルな政治家やメディアはだんまりを決め込んでいる。右派もリベラルも左派も「慰安婦問題」全体の姿を考えて、客観視する姿勢で朝日新聞の過誤を見つめる姿勢に欠けている。自らの正当性だけを強調している。バランス感覚の欠如だ。
 確かに朝日新聞の「訂正」報道は遅すぎた。「女子挺身隊」を「慰安婦」と混同したことも許されない。勉強不足だ。団塊の世代の一員として親から「女子勤労挺身隊」の話は時々聞いた。国家総動員法に基づいて軍需工場などに若い女性を動員した。当時、韓国(朝鮮)は日本の植民地。日本の女性と同じように国家の一員として勤労奉仕をさせられたわけである。当時の女学校の生徒も軍需施設で働いた。ペンを捨てて工場へ行った。「女子勤労挺身隊」として働いた女性は現在、80歳半ば以上ではないだろうか。筆者の叔母も軍需工場で働かされたという。86歳になった叔母は現在でも天皇が大嫌いだ。リベラルに心情的だ。青春を奪われた叔母がそう考えるのも合点がいく。
 現代史家の秦氏が朝日新聞に寄稿したように、「強制連行の有無」をめぐる朝日新聞の検証があいまいだが、「遅ればせながら過去の報道ぶりについて自己検証したことを、まず評価したい」。朝日新聞は史料に基づき、他のメディアや識者から批判されようがされまいが、これからもこの問題に関して「ディタッチメント」な検証を続けてほしい。そうすることで、日本外交に与えた致命的な過誤を少しでも償ってほしい。英語で「訂正」を海外へ発信し、外国人がこの問題に客観的に分析できる土壌をつくってほしい。
 この意味で、朝日新聞は自らの電子ブログの「トピックス」欄に掲載した「慰安婦」を数日後に削除すべきでなかった。朝日の真摯な態度を疑われる。筆者も朝日新聞の誠実さを疑ってしまう。自らの過誤を公にさらすことは耐えられないだろう。だが、歴史と正面から向き合う姿勢を続けることだ。
 日本人は他人の長所をほめない。相手のあらを見つけたら集中砲火のように非難、批判する。日本人は「褒め下手」と言われる。スポーツ界などで外国選手がよく言う言葉だ。筆者も同感する。「褒める」ということは感情的にならずに、客観視できることだ。嫌いな相手でも「素晴らしい行為」に対してほめる。これがなかなか日本人にはできない。偉そうに言っているこのわたしもその傾向がある。
 20世紀のイタリアのバルジーニ記者は「虚心坦懐に、まるで他人の姿勢で、まるで他者の目から見るようにして物事を客観的に観察、分析する最高の民族はイングランド人(英国人)だ。舌を巻くほどの冷静さと自己抑制さだ」と述べている。イングランド人と長く付き合ってきた筆者の感想もバルジーニと同じだ。
 「慰安婦問題」を感情的、主観的にならずに、世界に説明する。客観的に分析したことを世界に発信することが、批判合戦より大切である。筆者が調べた限りでは、「日本軍の組織的な関与はなかった」と思う。ただ「慰安所」はあった。当時の価値観ではそれが普通だった。歴史(時)は変化して、現在の価値観では「慰安婦」は許されない。ただ軍の組織的な関与がなかったとしても「強制性」があったかどうか?その定義は難しい。
 インドネシアではオランダ女性を、一軍部隊が無理やり慰安所に連れてきた。中国でも現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことが連合軍の戦犯裁判などの史料に記述されている。この史料が真実かどうかは別問題だ。真実だとしても組織的な軍の関与があったかどうかは、この史料だけではわからない。軍部隊の命令でなかったとして、軍の小グループが業者と結託して、女性を「強制連行」したことは「軍の関与」「軍の組織的な関与」かどうかは解釈者の考え次第だ。
 とにかく、何度も言うが、日中韓の三国国民が「ディタッチメント」な精神で「他の目」からこの問題を見つめ、分析する。現在と過去の価値観が違うことも認識してこの問題を未来へ生かす。これが「軍の関与があった、なかった」と論争することより数段重要だ。それが歴史を活用したことになる。
 

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