本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

その背景を知る

2020-11-11 20:24:09 | 十地経

仏教の歴史も流れで見ると

お釈迦さまがさとりを開いて

涅槃に入られた後

根本分裂が起こり

北伝の仏教つまり大乗仏教

中国から朝鮮を渡り日本へ

という流れと

南方に行った仏教

小乗仏教(上座部仏教)という

大きな二つの流れがあります。

 

歴史の流れとしてみれば

そうなのですが、

魂の歴史というか菩提心の歴史

というか

釈尊を生み出した背景という歴史

から見ると

この見方が逆転してきます。

 

講義の中で、

「釈迦仏、ゴータマ・ブッダが

仏陀になった背景ですね。

奇跡で仏陀になったんじゃない。

背景です、これが大事なことです。

ゴータマ・ブッダを仏陀にした背景

ここから大乗仏教がおこってきた。

 

ではその仏陀から出発したら

どうなるか、

仏陀から出発するのが声聞・縁覚

というんです。

仏陀から出発すれば

仏陀の弟子です。

仏陀にはなれん。

仏陀の教え子になってしまう。

仏から生まれるけど、

仏を生まんでしょう。

 

背景がなければ、

それより他は道はないと思います。

何でも、

弟子は先生より下のもんだと

初めから先生以上なら

弟子になる必要はないですね。

 

今ここに菩薩が生まれてくるのは

あの仏陀の背景を見るから、

仏陀を、

個人存在に見んのでしょう。」

 

南伝のお経には

お釈迦さまの言行録として

生身の声が聞こえてくる

ということで大事にする一面も

ありますが、

人間釈尊とかで

一時期そういう運動もあって

漢訳の経典よりも

南に伝わったパーリー語から

直接読んでいこうと、

 

以前、そういう方のお経を聞いて

あるときお釈迦さまは

こうされまして、お弟子の方々は

こうされたというような

分かりやすい言葉と

いえばそうなんですけど

なんとも不思議な感じというか

分かりやすくて重みがない

含蓄がない薄っぺらいものに

感じてしまいました。

 

やはりそこには

玄奘三蔵が苦心して

翻訳プリジェクトチームを作り

訳していかれたのと

わけが違うように思います。

人によってはパーリー語から

英訳されたものを日本語に直す

というようなことで

お経を翻訳されていた

ということもありました。

 

人は立派な人が出ると

英雄視するというか

祀り上げてその人の子分に

なるということがあります。

講義ではそこのところを

 

「偉い人だという具合に

見ない立場が大乗なんです。

個人崇拝というものでない立場

です。

だから、個人は

ただ個人ではないんです。

歴史的個人です。

その個人が代表しとるものが

大きいんです。

ところがなかなか人間は

そうは見ないです。

弘法大師、あるいは親鸞聖人

そういうところに着眼して

それを取って離さん

ということになる。

腰にすがりつく。

そういうことになります。

けどそういうようになった連中は

弟子ですね。

ただ親分にしとるだけです。

そうすると党派が生まれる

セクトですね。

そうじゃないんです。

弘法大師をして

弘法大師たらしめるもの

それが大事でしょう。」

 

政治の世界でも徒党が重要で

それによって派閥が生まれ

力関係が生じてきます。

世間ではそうですが

いったん教えということの伝承

となると

徒党になれば教えではなく

個人感情になってしまいます。

純粋に法ということを求めると

個人というよりも

その個人を生み出した背景を

見出すことが大切です。

 

今の宗教界も

弟子師匠ではなく

親分子分のような関係に

なってきているのも事実な

ような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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