大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

完成間近!江戸湊の新しい名物橋「東京ゲートブリッジ(Tokyo Gate Bridge)」

2011年12月07日 15時20分08秒 | 江東区・歴史散策
アメリカのペリー艦隊が4隻の黒船を率いて江戸湾に現れたのが今から158年前の嘉永6年(1853)のこと。時の幕府は外国艦隊からの攻撃に備えるために、江戸湾に砲台を設置し江戸の防備に努めたのです。幸運にもその砲台からは砲弾が発射されたことはないのですが、その砲台跡が江戸湾の「お台場」として現在もその姿を残しています。

そんな時代からおよそ160年が経ち、江戸湾の様子は大きく様変わりしています。よく「江戸前の海」なんていうことを言いますが、一般的には深川洲崎(現在の木場辺り)洲崎神社とと品川洲崎の利田(かがた)神社を直線で結んだ内側の海を指していました。

この海域では江戸前の新鮮な魚が豊富に獲れ、その中でも江戸前のアナゴ、コハダそしてウナギなどはその代表として現在でも江戸前寿司のネタになっています。

私が住む東京の江東区は江戸の昔から荒川の流れに沿って江戸湾方向に埋め立てられた場所で、砂村新田と呼ばれた干拓地域です。今でこそ東西線が走り、都心の日本橋までは地下鉄で15分ほどの便利な場所になっています。江戸湾の埋め立て事業は江戸から明治、その後の大正、昭和そして平成の時代に引き継がれ、ますます盛んになっているようです。

その埋め立て地のほとんどが江東区内といっても過言ではありません。東京都が東日本大震災の被災地の瓦礫の焼却を引き受けていますが、その焼却灰はおそらく江東区の埋め立てに利用されているのではないでしょうか。

この埋立地に平成の新しい名物が完成しようとしています。墨田区のスカイツリーほどメジャーではないのですが、江東区の水辺のリクレーション施設として有名な若洲から大田区の城南島を結ぶ東京港臨海道路の一部として架橋される「東京ゲートブリッジ」です。



我が家からマウンテンバイクで一路若洲を目指すこと約30分。若洲のゴルフ場脇のサイクリングロードから遥か東に広がる舞浜のディズニーランドの景色を見ながら埋立地の最南端に到着すると、眼前に現れるのが「東京ゲートブリッジ」の雄姿です。晩秋の靄の中に浮き上がる巨大な建造物に圧倒されてしまいます。

灯台と東京ゲートブリッジ

2頭の恐竜が向き合っているような特異な外観をしているので「恐竜橋」とも呼ばれています。
外観からほぼ完成しているように思えるのですが、若洲側中央部トラス桁の架設後に溶接の割れや鉄骨の変形が発見され、桁の架け直しのため完成が半年ほど遅れたようです。

東京ゲートブリッジ

橋の長さは全長2933m。海上を跨ぐ区間の長さが1618mでレインボーブリッジの2倍を誇っています。歩道も敷設されるようなので、完成の暁には是非歩いてみたいものです。開通は来年2012年2月12日の予定です。

掲載した画像のような東京ゲートブリッジをご覧になるには若洲まで行かなければなりません。ただし若洲までのアクセスは非常に不便なので車で行くことをお勧めいたします。





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お江戸五番の地藏と松平定信公の霊域~霊巌寺

2011年07月07日 11時01分05秒 | 江東区・歴史散策
お江戸には江戸へ通じる六街道の出入り口に大きなお地藏様が安置されていたのをご存知でしょうか。実はこのお地藏様は江戸時代の元禄年間と宝永年間にそれぞれお地藏様が鋳造され、主要街道沿いの寺の門前近くに置かれ、旅人の安全を見守っていたのです。

すでに当ブログでは東海道筋の品川宿の品川(ほんせん)寺のお地藏様を紹介いたしましたが、今日は江戸の東、隅田川を渡った深川にある霊巌寺のお地藏様を詣でることにしました。



ここ霊巌寺は名前の通り、もともとは隅田川河口を埋め立てて造成された霊巌島に開基された寺なのですが、あの大惨事として有名な明暦の大火(1657)、別名「振袖火事」の後、ここ深川に移転してきました。

楽翁松平定信公墓の石柱
霊巌寺ご本堂

当寺の地蔵様は霊巌寺が深川に移転した後の享保2年(1717)に置かれたものです。なんで下町深川に街道筋を守るお地藏様が置かれたのかというと、この場所は水戸街道へ通じる道筋にあたり、多くの旅人が往来していました。そんな旅人たちが門前を通る際に、旅の安全をこのお地蔵様に祈願していたのです。

霊巌寺は東京メトロの清澄白河駅からほど近い江戸資料館通りに面して山門が置かれています。比較的大きな境内を持つ当寺には歴史上、有名な人物の墓が置かれています。駅名に白河という文字が入っていますが、この人物が陸奥国白河藩第3代藩主であったことに由来しています。その方は十一代将軍家斉公の下で「寛政の改革(1787~1793)」を断行した老中松平定信公なのです。

松平定信公霊域

定信公の霊域は塀に囲まれ中に入る事はできませんが、霊域の入口門から中を俯瞰することができます。一見すると結構地味な墓石で、将軍吉宗の孫で譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという待遇であった方のものとは思えないほどです。墓石の前に置かれていた燈篭2基が3月11日の大震災で倒壊し、修復されないまま地面に転がっています。

松平定信公霊域

余談ですが、定信公は寛政の改革後の寛政5年(1793)に35歳の若さで老中を引退し、陸奥白河へ戻り藩政に専念します。彼は寛政の改革の成功例であった「囲い米」や「米の備蓄」などの政策を藩政に導入し、併せて藩の農政にも力を注ぎました。

文化9年(1812)に家督を嫡男の定永に譲り隠居(致仕)し、それまで藩主として住んでいた八丁堀の上屋敷から築地の下屋敷へ移り、自らを「楽翁」と称し、大好きな庭造りをしながら悠々自適な生活に入りました。

尚、前述の築地の下屋敷は寛政の改革の労をねぎらうために築地にあった一橋公の浜屋敷を賜ったことから、「その恩に浴する」という意味で「浴恩園」と名付け優雅な生活を送ったと言われています。尚、この浴恩園の跡は現在の築地中央市場(魚がし)となっています。

また定信公と深川とのかかわりは、文化13年(1816)に深川入船町(現在の牡丹3、古石場2・3付近)に自らのお抱え屋敷(別邸)を持ったことです。定信公はこの屋敷を「深川海荘(はまやしき)」と呼び、園内には二つの築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名付け、江戸湾を一望できる休息所として楽しんでいたといいます。

定信公が隠居生活を楽しんでいた時代は江戸時代における最後の華やかなりし文化が花開いた「化政時代」の真っただ中です。寛政の改革の主眼とするところは、都市政策と密接に関係する農村政策でした。享保及び天保の改革でみられるような庶民の生活を極端に規制・圧迫するようなものではなかったので、寛政の改革後、見事な化政文化が生まれたのです。

そんな文化の中で定信公も無縁ではありませんでした。彼は前述の浴恩園にサロンを立ち上げ、書画会、歌会、茶会などを頻繁に催しています。なにせそれまで陸奥白河藩主であったことから、定信公の名声は高く、浴恩園に集うメンバーも諸大名からあの書画家として知られている谷文晁まで名を連ねています。

一方、当時の江戸の街では滝沢馬琴、太田南畝などが主宰する書画会などの市民レベルのサロンも活発に活動していました。そんな時代の中で、定信公も文化人として生きた一人だったと思います。

さて、噺が前後しますがお地藏様は山門を入り、参道を少し歩いた左側に堂々とした姿で鎮座しています。夏の暑い陽射しのもと大きな笠をかぶり、じっと耐えているかのような姿を見せています。

江戸六地蔵石碑
霊巌寺六地蔵様
霊巌寺六地蔵様

ここ深川には江戸時代にはもう一体の地藏様が置かれていました。その地藏様は深川の総鎮守として名高い富岡八幡宮の別当寺であった「永代寺」にあったのですが、明治の廃仏毀釈と神仏分離により廃寺となってしまい、その際にお地藏様は廃棄されてしまいました。その後、明治39年に永代寺の代仏として台東区上野桜木にある浄名院にお地藏様が新たに鋳造され安置されています。

深川には数多くの寺が堂宇を構えています。そのほとんどは明暦の大火以降に移転してきたものです。それぞれの寺には江戸の歴史を物語るような史跡や著名人の墓が置かれています。深川散歩の折には是非、寺巡りも楽しんでみてはいかがでしょうか。





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梅雨の晴れ間・新緑と菖蒲の花が競う下町の名庭園「清澄庭園」

2011年06月10日 09時39分49秒 | 江東区・歴史散策
清澄通りに隣接して緑豊かな木々がうっそうと繁る下町の名庭園「清澄庭園」の菖蒲が今盛りと聞いて早速行ってきました。

春、桜の季節から2ヶ月余りの時が過ぎ、園内の木々は眩しいほどの緑に覆われ、爽やかな風が木々の枝をすり抜け体全体で初夏を感じることができます。

大正館




平日のこの日、園内はそれほど多くの観光客の姿はありません。静かな空気の中に鳥のさえずりが心地よく耳に届きます。広々とした園内の泉水のほとりを遊歩道に沿ってゆっくりと巡ります。初夏の陽射しに泉水が鏡面のように輝き、周囲の木々の緑を水面に写しています。



泉水のほとりに置かれた「涼亭」の美しい姿が周囲の木々の緑の中に溶け込み、優雅さを際立たせています。




園内の一番奥にあるのが「菖蒲園」です。様々な種類の「菖蒲」が植えられているのですが、今を盛りと咲き誇っています。菖蒲園の遊歩道の脇には梅雨時の代表格である「あじさい」も可愛らしい花弁を見せています。

あじさいと涼亭
菖蒲園
菖蒲園

是非、今週の土・日に下町散策のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】
お江戸名園シリーズ~小石川後楽園(旧水戸徳川家大名庭園)光國が愛した天下の名園~【小石川】
お江戸名園シリーズ~清澄庭園・紀伊国屋文左衛門も、岩崎弥太郎も愛でた深川の名園~【深川清澄白河】
浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~





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お江戸亀戸天満宮の梅の花は「あるじなしとて春を忘れていないようです」

2011年02月15日 16時52分33秒 | 江東区・歴史散策
「雪の朝(あした)は裸で洗濯」なんぞの諺がありますが、昨晩から降り始めた雪がうっすらと積もり、冬日が射し始めるころは昨日とは打って変わって暖かなお日よりとなりました。そんな天気に誘われて、梅の花見に出かけてみました。

2月も半ばとなり、都内の梅の名所はそろそろ見ごろを迎えている頃でしょう。湯島の白梅もほぼ咲きそろったころだと思いますが、お江戸下町・江東区には亀戸天満宮という梅の名所があるんです。



亀戸天満宮は菅原道真公を祀るがゆえに、やはり梅の花とは切っても切れない縁があります。四季おりおりに花を愛でることができる天満宮境内では、2月の季節ならではの梅の花が七分から八分といった開花を見せています。

紅梅
白梅

境内を取り囲むように梅の木が植えられ、紅白の可愛らしい花弁が枝一杯に咲き誇っています。ときおり黄色の蝋梅が紅白の梅の花に混じって、存在感を強調するように芳しい香りを漂わせています。

蝋梅

梅の枝越に目と鼻の先に聳えるスカイツリーがカメラのアングルに飛び込んできます。社殿越しに聳えるスカイツリーの姿を久しぶりにカメラに収めてみました。

枝越しに見えるスカイツリー
社殿越しに見えるスカイツリー

かつて江戸時代に天満宮の裏手に広重が描いた名所江戸百景に現れる「亀戸梅屋舗」なるものがあって、その百景に描かれている「臥竜梅」がなんとあのゴッホの絵の中に模写されるほどに有名な梅の名所だったのです。その梅屋舗も明治43年(1910)の大洪水で梅の木は全滅してしまいました。

その梅屋舗がない現在、「こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな」の通り、道真公を祀る亀戸天満宮には今や盛りと芳しい梅の香りが満ちています。

東都花見絵図~深川霊巌寺・芭蕉記念公園・安田庭園・亀戸萩寺・亀戸天神~
お江戸の二大天神様の梅はちょうど見ごろ~亀戸天神と湯島天神~
亀戸天神社恒例の「うそ替え神事」
亀戸天神の菊祭りと秋雲の下でひときわ輝く東京スカイツリー
お江戸亀戸天神社・そろそろ満開かな…菊祭り【亀戸天神社境内】
お江戸下町天神様・スカイツリーを間近に仰ぐ亀戸天神社境内散策【お江戸亀戸梅屋敷】





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お江戸遊廓・洲崎パラダイスってご存知でしたか?【深川・洲崎】

2011年01月20日 20時07分05秒 | 江東区・歴史散策
先日、仕事で深川七福神巡りをご案内する機会がありました。ご参加者は皆ご年配の方々で深川の昔日を知る方が大勢いらっしゃいました。道すがら、お江戸の時代の洲崎十万坪という風光明媚な土地柄の噺をしたのですが、洲崎という地名に大いに反応された男性がいらっしゃったのです。

お江戸の歴史を語る上で、洲崎は庶民の遊山地として観光地となっていたことで知られていますが、それと共に明治から昭和にかけて洲崎は言わずと知れたお江戸の岡場所として男衆には絶大な人気を博していた場所なのです。この洲崎という地名に反応された御仁が、それまで洲崎が岡場所であったことをとんと知らなかった私に、事細かに洲崎遊廓を面白おかしく教えてくれたのです。

であればかつての遊廓の名残りが若干なりとも残っているのではないかと、暇にあかせて行ってみました。どうせならと行く前に少し洲崎遊廓について調べて見ました。

ご存知のように江戸時代において官許の遊里は言わずと知れた浅草裏手の吉原遊廓だけです。しかし官許以外の遊里は岡場所という名で、五街道の入口にあたる宿場町で公然と遊廓を開いていたのです。その代表として品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿なのですが、明治に入るとこれに根津が加わります。

根津はもともと根津神社のお膝元で、概して門前町には岡場所が例外なく開かれます。余談ですが、深川富岡八満宮にも花街や岡場所があり、鎮守様詣でのついでに多くの男衆が色町で遊んだと言われています。特に深川芸者は向島、柳橋、浅草、神田の芸者衆と違い、「おきゃん」と呼ばれ、粋な深川を地でゆくキップのいい芸者だったと言われています。

まあ、そんな土地柄だったのかどうかは定かではありませんが、深川総鎮守のあった門前仲町からさほど離れていない洲崎は岡場所ができる素地があったのかも知れません。
実は前述の根津の岡場所の話に戻るのですが、明治に入り東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関ある本郷のそばの根津に遊廓があってはまずいという事で、根津の遊廓が洲崎に強制的に移転させられた歴史があります。明治17年ころの話のようです。根津から移転させられた遊廓は83軒あったそうです。そして明治42年にはここ洲崎にはなんと遊廓160軒、従業婦1700人、大正10年には遊廓277軒、従業婦2112人になったといわれています。

そして戦後、この場所は「洲崎パラダイス」という名の歓楽街となり、昭和29年頃はカフェー220軒、従業婦800人ほどが働いていたと言われています。昭和33年4月1日の売春防止法施行によって洲崎ではすべての遊廓の営業が廃止されました。

実は以前から不思議に思っていたことがあります。木場公園という大きな公園があるのですが、その公園の端を走る道に「大門通り」という表示が付けられています。どうして「大門通り」なのかと今に思うと、吉原でもそうであるように、遊廓の入口に立てられていた「大門」がここ洲崎遊廓にもあったのでしょう。その大門に通じる道が今なお、大門通りという名で残っていたのです。

かつての洲崎パラダイスがあった場所は東西線木場駅から東陽町へ向い、東陽3丁目交差点を左へ入った所です。すぐに旧洲崎橋があり、比較的広い道を進むと、すぐに左手にそれらしい建物が見えてきます。まぎれもなくかつて遊廓として使われた2階建ての建物で、現在は1階に商店が店を構えています。

 


2階部分にアンバランスな佇まいで柱が備わっています。その柱がタイル貼りになっていることが、かつてここが遊廓であった証拠なのです。当時の遊廓(昭和の時代)はどこも皆外壁や柱に派手なタイル貼りを多様していたと言われています。

もう一つ、これは完全に歴史的建造物ではないかと思われるような建物が残っていました。この建物こそが「洲崎パラダイス」と呼ばれていた頃からあるもので、壁面に「大賀」という郭号が残っています。当時の古い写真を見るとほぼ完全な姿でこの大賀は残っています。1階の入口の円柱は黒いタイル貼りが残り、やはり遊廓のシンボルとしてタイル貼りが使われていたと思われます。

 
 


現在この建物の1階には某政党の事務所が設けられています。かつての遊廓の建物に政党の事務所が入っていると言う時代の変遷を感じます。

尚、ここ洲崎を題材とした映画があることを知りました。昭和31年に製作された映画で題名が「洲崎パラダイス・赤信号(日活)」で、出演者は新珠三千代、三橋達也、芦川いづみ、小沢昭一と記されています。懐かしい方々ですね。私は昭和31年当時はまだ小学校の低学年で、この映画を見たことはありません。おそらく両親もこの映画の内容から子供には見せたくなかったのではないかと思われます。映画の内容を調べて見ると、赤線の女たちとそこに遊びに来る男たちの姿を描いているというではありませんか。当然、成人映画に指定されていたのかも知れないですね。

時代は下り、平成の世にかつての洲崎遊廓の名残りが僅かながら残っている風景はかなり貴重ではないでしょうか?そんな時代もあったのか、と思いながら洲崎を歩いてみました。





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隅田川を望む東京海洋大学構内に日本最古の鉄船「明治丸」を訪ねる【江東越中島】

2010年12月06日 18時35分37秒 | 江東区・歴史散策
隅田川水辺ラインの水上ボートが越中島船着場に到着するときに、必ず見えるのが黄色い2本のマスト。船内放送で明治天皇の行幸の折に使われた日本最古の鉄船「明治丸」と説明があるのだが、見えるのはマストだけ。かねてより船の全景を見たいと思って、早速行ってみました。

今日は船ではなく、自宅からもそれほど遠くないので得意のマウンテンバイクを走らせました。門前仲町の交差点を月島方面へ走ること数分で東京海洋大学のキャンパスに到着です。

東京海洋大学正門

歴史を感じる正門から真正面に見える1号館はレンガ造りの重厚な建物です。この1号館は昭和5年(1930)に建てられたもので、登録有形文化財に指定されています。

一号館(船橋を模した建物)

この大学の沿革を見ると、なんとあの岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が大久保利通の命令で私立三菱商船学校として明治8年(1875)に開校した歴史を持っていたんですね。明治政府からの命令ということですが、商売人の弥太郎はこの開校の交換条件として政府からの助成を引き出しています。さすが商売人です。
その後、当校は官立となり名称も変わり今に至っているのですが、隅田川のゆったりとした流れに面したキャンパスには江戸湾から吹き寄せる心地よい潮風が似合う素晴らしい大学です。

さて、正門を入りすぐ左手にこれまた歴史を感じる建造物が2つ並んでいます。煉瓦造りの趣のある建物ですが、一つは明治36年(1903)に竣工した旧天体観測所(第一観測台)です。屋根の半円形ドームは手動により360度回転でき、内部には東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備えていました。

第一観測台

この第一観測台の後ろに第二観測台が建っています。この第二観測台も 明治36年(1903)に竣工したもので内部には子午儀(Transit)を備え、子午線方向にだけ動く望遠鏡が置かれていました。

第二観測台

一号館から右方向へ進んでいくと前方に芝生の広場が広がっています。この広場の一番奥に日本最古の鉄船「明治丸」が係留?されています。広い芝生を歩きながら徐々に近づいてくる船体に「わくわく」するような感動を覚えます。実は正門の守衛の方に聞いたところ、通常は船内の見学もできるとのことですが、現在修復中のため船内に入る事ができないとのこと。非常~に、残念!



それでも間近に見る事ができるだけでも十分。
明治丸は明治6年(1873)に英国に建造を発注し、明治7年(1874)竣工して翌8年(1875)2月に横浜に回航されてきました。維新からわずか8年しか経っていない日本にとっては、欧米列強との競争に追われる中で、最新鋭の船は日本の国益を守るための諸活動を行っていましたが、この明治丸も例外なくさまざまな活動を行っていました。
そんな活動の合間に、明治9年(1876)に日朝修好条規締結を促す示威行動を支援するため、日本艦船の基地であった対馬への石炭急送の任務についています。そして同年、明治天皇は東北・北海道御巡幸に際し、7月16日青森から函館まで明治丸に御乗船になりました。18日に明治天皇は再び明治丸に御乗船になって函館を出港し帰郷の途につかれ、7月20日横浜港に帰着されました。



その後、明治29年に退役し当時の商船学校へ譲渡され、同31年、3檣シップ型帆船に改装され、以後係留練習帆船となりました。現在、明治丸は重要文化財として保存されています。

明治丸船首から 
明治丸船尾から

現在、復元修理中ということで、本来の姿とはほど遠いものですが、完成後にもう一度会いに行きたいと考えています。





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お江戸下町・深川七福神「その2」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】

2010年11月25日 21時55分38秒 | 江東区・歴史散策
龍光院の毘沙門天にお参りをして、いよいよ残すところ四神詣でに歩を進めていきましょう。龍光院から右方向へ住宅街を歩くこと数分の所に、またまた日本史に登場する偉人の墓が現れます。気付かなければ通り越してしまいそうな佇まいです。歩道からちょっと奥まった場所にひっそりと目立たない居ずまいで佇んでいるのですが、実は樺太が島であることと、間宮海峡を発見した「間宮林蔵」の墓なのです。へえ~、こんな所にぽつねんとして墓が置かれていたのですね。

間宮林蔵の墓を過ぎると、すぐに右方向へと道を曲がります。まもなくすると右手に比較的大きな寺院が現れます。大きな鐘楼を持つ寺でお江戸の十大祖師の一つに数えられている名刹「浄心寺」です。浄心寺の敷地が途切れる辺りに現れるのが大黒天を祀る「円珠院」です。

円珠院本堂
円珠院ご本堂内部

それほど大きな寺院ではありません。山門からご本堂まではほんのわずかな距離で、ご本堂の左手に大黒天の石像が置かれています。本堂には木造の大黒天が安置されています。江戸時代から深川の大黒天として知られています。

円珠院:大黒天
福徳:有福蓄財

円珠院の周辺にはたくさんの寺院が点在し、深川寺町の風情を醸し出しています。それでは歩を進めて先を急ぎましょう。円珠院からの道筋は静かな住宅街を抜け、再び清澄通りへ合流し仙台掘川を越えて、次の目的地、福禄寿を祀る心行寺です。

清澄通りに沿って左へと進行方向を変えると、歩道脇に小さな記念碑が現れます。これも言われなけらば気が付かずに通り越してしまうほど目立たない存在です。あの「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴生誕の地の碑です。

滝沢馬琴生誕の地碑

この馬琴生誕の地の碑を過ぎると前方に橋が見えてきます。仙台掘川に架かる「海辺橋」です。この橋の反対側に芭蕉のもう一つの庵「採茶庵(さいとあん)」跡が記念碑として造られています。小さな庵の前に芭蕉が縁側に座っているという史蹟です。

採茶庵(さいとあん)跡

江東区内には至る所に「芭蕉」の足跡が残っています。七福神詣でをしながら芭蕉所縁の地を巡ることができるのも深川七福神のいいところです。

こんな風景を愉しみながら、そぞろ歩きをしているとまもなく福禄寿を祀る「心行寺」です。清澄通りに面して立派な山門と、境内の奥にご本堂がどっしりと構えています。当地、深川には寛永10年(1633)に京橋八丁堀寺町から移ったという由緒ある名刹です。福禄寿は境内の六角堂に安置されています。

心行寺山門
福禄寿六角堂

心行寺:福禄寿
福徳:人望福徳

この心行寺の隣には七福神ではないのですが、是非立ち寄っていただきたいお寺があります。寺名は法乗院ですが、深川閻魔堂の方が名前が知れているようです。左手の大きなお堂の中にあの怖い閻魔様がどっしりと鎮座しています。閻魔様から有り難いお言葉をいただける仕掛けがあるのですが、これは是非ご自分で体験してみてください。けっこう楽しい閻魔様ですよ。

法乗院
閻魔堂
閻魔様

法乗院の閻魔様詣でを終えて、葛西橋通りへと入ってきます。この葛西橋通りにそって弁財天を祭る冬木弁天堂へと進んで行きましょう。この途中に個人的にお勧めしたい行列ができる人気のラーメン店があります。「蘭丸」という店名で、魚介系のあっさりスープが人気を博しています。是非ご賞味あれ。

この蘭丸からわずかな距離にあるのが、冬木弁天堂です。交通量の多い葛西橋通りに面してこじんまりとした居ずまいで佇んでいます。「こんな場所にあるの!」といった感じの弁天堂ですが、毎年ご開帳の元旦から15日まで狭~い境内は沢山の参拝客で押すな押すなの大盛況です。

冬木弁天堂
冬木弁天堂

冬木弁天堂:弁財天
福徳:芸道富有

それではいよいよ7番目の恵比寿神を祀る富岡八幡宮へと歩を進めていきましょう。冬木弁財天の前の葛西橋通りを渡ると、富岡八幡宮はもうすぐです。恵比寿神の祠は八幡宮の社殿の裏手に置かれています。3つの祠が並んでますが、真ん中の祠に恵比寿神と大黒様が合祀されています。この静かな境内がお正月にはたくさんの参拝客で賑わいます。

 
恵比寿・大黒合祀社

富岡八幡宮:恵比寿神
福徳:愛敬

恵比寿神の参詣を終えたあと、八幡様の社殿へと進み七福神巡りが無事終えたことをご報告し、大鳥居へと向かいましょう。お正月は八幡様の参道の両側にはたくさんの屋台が並び、下町の総鎮守は善男善女でたいそうな賑わいとなります。早~く来い来い、お正月。

お江戸下町・深川七福神「その1」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】
粋な深川・お江戸の総鎮守「富岡八幡宮」の酉の市
2014年午の歳 年の初めの深川七福神詣
お江戸深川七福神詣で
必見!!横綱白鵬の名も刻まれる50連勝超力士碑【お江戸深川・富岡八幡宮】





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お江戸下町・深川七福神「その1」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】

2010年11月25日 15時35分20秒 | 江東区・歴史散策
今年も残すところあと1ヶ月余りとなってしまいました。ちょっと気が早いのですが、初めて深川七福めぐりを予定されている方々のために、初詣がてらルート上で是非立ち寄っていただきたい場所やお勧めのお店などを簡単に紹介してまいります。七福神めぐりの旅は森下駅から至近の「深川神明宮」からです。



森下といえば、けっこう名が知れているパン屋さんがあるんです。何をして有名かと言うと美味しいカレーパンで知られています。甘口と辛口の2種類があるのですが、いずれもお勧めです。外側の皮がパリパリとして、たっぷりの具が溢れ出さんばかりに詰まっています。歩きながら口にほお張るのもお勧めかも!
そうそうお店の名前ですが、「元祖カレーパンのカトレア」と言います。但し、正月3が日はおそらく休業しているかと思います。1個168円です。

カトレア:江東区森下1-6-10 (電話)03-3635-1464
定休日:日曜日・祝祭日にあたる月曜日

清澄通りから路地を入ると、すぐ右手に大きな鳥居が現れます。鳥居の傍らに由来書が刻まれた大きな石碑が立っています。その碑面にはこんな由来が書かれています。
「大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として慶長元年(1596)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。あるとき徳川家康がこの村に来て、村名を尋ねたがないので深川八郎右衛門の姓をとって深川村と命名せよといわれ以来、深川村が発展し深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになった由。」
鳥居をくぐり、直進し右奥に寿老神を祀る祠が置かれています。
深まる秋の風情を感じさせてくれるように、境内の銀杏は鮮やかな黄金色で彩られていました。

神明宮由来書碑
神明宮鳥居
神明宮・寿老神祠

深川神明宮:寿老神
福徳:延命長寿

深川神明宮で旅の無事を祈願し、歩を進めて行く事にいたしましょう。次の深川稲荷神社まではこのルート上では歩行距離が一番長い移動行程ですが、その代わりに別の見どころが楽しめる散策ルートです。
また、神明宮からさほど離れていない場所に、「深川めし」の老舗で有名な「みやこ」があります。深川めしを食べさせる店は、ルート途中の江戸資料館通りや、もちろん富岡八幡宮がある門前仲町にも店がありますので、お好みの場所で召し上がることは可能です。

さて、神明宮から隅田川の流れる方向へと進むと、突き当たりに見えるのが「芭蕉記念館」です。この記念館の前を走る道が萬年橋通りと呼ばれています。お江戸元禄の時代の赤穂浪士が吉良邸討入りの後、高輪の泉岳寺へ向かう際に通った道なのです。併せて、芭蕉記念館が置かれているように、かつて芭蕉が庵をむすんだ場所が萬年橋の袂だったのです。まあ、芭蕉ファンにとっては見逃せない場所になっています。

萬年橋に向かって右側の歩道を歩いていきましょう。萬年橋を渡る手前の路地を右に折れると、赤い幟がはためく小さな稲荷神社が現れます。この神社が「芭蕉稲荷」です。

芭蕉稲荷

そしてこの路地をさらに奥へと進むと、左手に出来物、腫れ物に絶大なご利益があるとされる正木神社の社があります。さらに奥へと進むと隅田川の堤防に突き当たります。堤防の脇にそれらしい木造の門があり、階段が堤防の上へと延びています。せっかくですから階段を上っていきましょう。小名木川と隅田川の流れがここで合流するのですが、下流の方向には清洲橋と中央区の高層ビル群が広がり、絵葉書のような景色が展開します。ここには是非立ち寄っていただきたいお勧めの場所です。そして堤防の上に造られた小さな公園には俳聖芭蕉翁の坐像が置かれています。

芭蕉翁坐像

それでは小名木川に架かる萬年橋を渡って深川稲荷神社へと進んでいきましょう。尚、公衆トイレは萬年橋を渡って左側にあります。萬年橋を渡った辺りには北の湖部屋、旧大鵬部屋などの相撲部屋が点在しています。深川稲荷神社はちょうど道が交差する四つ角にちょこんと置かれたかわいらしい祠です。深川稲荷神社は寛永7年(1630)の創立で深川地区では創立の古い神社の一つです。

深川稲荷神社

深川稲荷神社:布袋尊
福徳:清廉度量

深川稲荷神社を後に、清洲橋通りへと向かいますが、その道筋の左手にレンガ色のビルが現れます。もと寺尾関が親方をしている「錣山部屋」の建物です。清洲橋通りを渡り清澄白河駅方面へ進んでいきましょう。
この清澄通りに面して芭蕉ゆかりの寺「臨川寺」があります。萬年橋袂に庵をむすんだ芭蕉は、この臨川寺にたびたび参禅に訪れています。当寺の堂内には芭蕉像が安置されています。

臨川寺

賑やかな清澄白河の交差点を渡り、清澄通りを南下し深川の寺町へと進んでいきましょう。右手に木々の木立が見える場所が清澄庭園です。清澄通りから左へ折れる「江戸資料館通り」へと入ると、すぐ左手に現れるのが「霊巌寺」です。この寺には江戸時代に寛政の改革を断行した老中「松平定信公(楽翁)」の墓があります。また江戸六地藏の一つとして、大きな地藏様が境内に鎮座しています。

定信公の墓

霊巌寺を過ぎると、左手に江戸資料館の建物が現れます。この辺りで少し休憩をしたいとお考えであれば、資料館ロビーの椅子に掛けてしばし休息を!また綺麗なトイレもありますので利用する事をお勧めいたします。
尚、展示物の参観は有料です。

資料館通りの商店街を見ながら、龍光院(毘沙門天)へと歩を進めていきましょう。資料館通りから右へ折れるとすぐに現れるのが雲光院です。山門脇に「阿茶の局の墓」と刻まれた石柱が立っています。当寺にはかの家康公の側室であった「阿茶の局」の墓があるのです。また、山門を入って右手に進むと古い墓石が3体並んでいます。その真中の墓石がなんと、江戸時代の遊廓「吉原」をつくったと言われる「庄司甚衛門」の墓です。

阿茶の局墓
庄司甚衛門墓(中央)

こんな歴史の人物に想いを馳せながら、歩いていくと間もなく龍光院(毘沙門天)に到着です。龍光院は浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長16年(1611)馬喰町(中央区)に創立、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失し、岩井町(千代田区)に移転、その後天和2年(1682)の大火で再び焼失し、その年ここ深川の地に移転しました。

龍光院ご本堂

龍光院:毘沙門天
福徳:勇気授福

この後、大黒天の円珠院、福禄寿の心行寺、弁財天の冬木弁天堂そして恵比寿神の富岡八幡は「その2」でご案内いたします。

お江戸下町・深川七福神「その2」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】
粋な深川・お江戸の総鎮守「富岡八幡宮」の酉の市
2014年午の歳 年の初めの深川七福神詣
お江戸深川七福神詣で
必見!!横綱白鵬の名も刻まれる50連勝超力士碑【お江戸深川・富岡八幡宮】





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お江戸・亀戸萩の寺「龍眼寺」【十間川畔・萩の花の名所】

2010年11月08日 18時24分59秒 | 江東区・歴史散策
江東区内では亀戸天神に次ぐ名所として知られているのが、萩の花で有名な「龍眼寺」です。亀戸天神の裏手にあたりますが、蔵前通りから十間川に沿って少し北へ進んだところにあります。この辺りからはあのスカイツリーがかなり大きく見え、押上への散策ルートとしてお勧めしたい場所です。

龍眼寺山門
境内俯瞰

さて今日のお題の龍眼寺ですが、このお寺には亀戸七福神の「布袋尊」が祀られています。天台宗の宗派で慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。お江戸の時代から萩寺の名で親しまれ、あの江戸名所図会にも描かれています。

布袋尊社

萩の花の季節はとうに終わってしまい、訪れる人もなくひっそりと静まり返っています。山門の両脇に大きな石碑がはめ込まれているのですが、右側の石碑は俳聖芭蕉の句が、左側の石碑には其角の句が刻まれています。もちろん句の題は萩の花を詠ったものですが…。

其角の句碑

山門をくぐると、比較的広い敷地が眼の前に現れます。真正面に「地蔵堂」が置かれ、その背後に面白い形をしたご本堂が目に飛び込んできます。このご本堂は奈良法隆寺の夢殿を模した「八角堂」で八聖(正)堂とも言われています。八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことであると説明書きにありました。

地蔵堂
ご本堂

また境内には万治2年(1659)造立の庚申塔が置かれています。江東区内で確認されているもののうち最古のものだそうです。庚申信仰とは人の体内にはサンシという虫が棲んでおり60日ごとにめぐってくる庚申の夜に人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪を訴えて寿命を縮めると言われています。このためその夜は眠らず過ごして健康と長寿を願うというものです。この庚申塔には「見ざる・言わざる・聞かざる」が並んでいます。

庚申塔

境内にはたくさんの句碑が置かれ、その全てが萩を愛でる内容の句が刻まれています。

 


萩の花の季節にはたくさんの見物客で賑わう龍眼寺ですが、季節が過ぎ人気のない境内は静かな空気が漂い、秋とは言え、まだ木々には葉が残る庭を眺めるのも趣があるものです。

 






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お江戸深川・総鎮守の杜~酉の市(11月7日)~【深川富岡八幡宮】

2010年11月08日 09時37分58秒 | 江東区・歴史散策
もう酉の市の季節がやってきた。深まりゆく秋が肌で感じられるこの日、都内のあちらこちらの神社では「一の酉」が執り行われ、多くの善男善女が家内安全、商売繁盛を願い賑わいを見せていました。

富岡八幡大鳥居下

ここ深川の総鎮守・富岡八幡宮の本社殿に通じる参道の両脇には色とりどりの熊手を売る屋台が軒を連ねていました。境内社である大鳥神社は江戸時代から深川の「大酉様」と呼ばれ、江戸庶民の信仰を集めています。

八幡様ご社殿左手奥の林の中に、大鳥神社の祠がありたくさんの参詣者が熊手や枡を授与されていました。
そして11月は七五三の季節でもあり、この日はおめかしをした沢山の親子連れが参詣におとづれ、酉の市と重なり多いに賑わっていました。

本社殿前

この縁起物の熊手は鷲が獲物を鷲づかみすることになぞらえ、その爪を模したものと言われています。その爪で福徳を掻き集めるという意味が婉曲的に込められていることになるのです。
熊手の売買が成立すると売り手と買い手が威勢良く手締めをしている様子が屋台の店先で見受けられますが、これは買った(勝った)、まけた(負けた)と気風の良い売り買いを楽しみながら買うものとされ、商談が成立するたびに威勢よく手締めが打たれる訳です。本来は金額をまけさせて、その差し引いた分を店側に「ご祝儀」として渡すことを「粋な買い方」とする考えもあり、手締めはこの「ご祝儀」を店側が受け取った場合に行われる儀式と言われています。こう考えると、「結局は定価で買った事になってしまうのでは…」。江戸っ子はそんな野暮なことは言わないのです。

 
 
 


お江戸の心意気である粋と鯔背(いなせ)、そして張りを間近に見る事ができるのが酉の市です。
尚、今年は二の酉(11月19日)までですよ。

粋な深川・お江戸の総鎮守「富岡八幡宮」の酉の市





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