大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸亀戸天神社・そろそろ満開かな…菊祭り【亀戸天神社境内】

2010年11月02日 20時30分12秒 | 江東区・歴史散策
天神様の境内で今年も盛大な「菊祭り」が開催されていますよ。10月までは例年よりも気温が高く、菊の花の開花が若干遅れているような気がします。
やっと秋らしい気候となり、そろそろ菊の花が満開になる頃。そして行ってきました。亀戸天神社の「菊祭り」へ。



正門大鳥居から間近に見えるスカイツリーを仰ぎながら男橋、平橋そして女橋を渡り、本社殿前の広場に到着。
社殿前いっぱいに仮設されたテントの中に、色とりどりの菊花が美しさを競いながら芳しい菊香を漂わせています。天神社の菊祭りは11月21日まで開催されています。明日11月3日の祝日はきっと多くの見学者で境内は賑わうことでしょう。



社殿前にこんなオブジェが立っていました。境内からも間近に見えるスカイツリーを形どった懸崖造りが堂々と聳えています。社殿の屋根の向こうに聳える本物のスカイツリーとオブジェの競演を画像にしてみました。
いかがですか?

 
 
 
 


尚、花より団子の向きは、お帰りには船橋屋の甘味を是非堪能してみてはいかがですか?

東都花見絵図~深川霊巌寺・芭蕉記念公園・安田庭園・亀戸萩寺・亀戸天神~
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亀戸天神社恒例の「うそ替え神事」
亀戸天神の菊祭りと秋雲の下でひときわ輝く東京スカイツリー
お江戸下町天神様・スカイツリーを間近に仰ぐ亀戸天神社境内散策【お江戸亀戸梅屋敷】





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知る人ぞ知る、亀戸は大根の名産地!【お江戸亀戸・香取神社】

2010年10月20日 16時30分15秒 | 江東区・歴史散策
亀戸で大根?今じゃ、畑も田圃もどこかへいっちまったというのに。いったい亀戸のどこで作ってんの?

おいおい。亀戸で大根つくってたのはお江戸の時代の話。ってことで、おいら亀戸大根の故郷へ一っ走り行ってきやした。

亀戸と言や、天神様。その天神様の境内から東へほんの少し行ったところに香取神社のお社が鎮座しておる。その昔にゃ、香取神社の裏側に梅見で賑わった梅屋敷があったそうだ。この香取様の周りで作っていたのが「亀戸大根」って呼ばれていたようだ。

香取神社の御社殿 
香取神社参道:結構長い参道

いつ頃から作ってたかって?
そりゃ古い昔からと言いたいところだが、実はお江戸も末の文久の頃だとさ。詳しくは分からねえが、文久元年から3年てところ。西暦にすると1861年から1863年頃だろうさ。安政の大獄が一応けりがついて、いよいよ幕末も佳境に入ってきたころに、お江戸のはずれの亀戸で大根作りとは、これまた豪気だね。

亀戸大根のプレート

江戸時代にゃ、他に三浦や練馬でも大根を作っていたにも関わらず、この亀戸大根が結構人気になったそうだ。その訳には、根っこも葉っぱも共に浅漬けにすると美味しかったらしい。きっと天神様のお参りの帰りに、我先にと買って帰ったんじゃないだろうか。

そりゃそうだ。三浦大根や練馬大根じゃ大きすぎて浅漬けにゃ、ちと難儀する。亀戸大根は普通の大根(青首大根)より小ぶりで、人参を少し大きくしたぐらいの大きさだったらしい。この大きさだったら、浅漬けにゃ、もってこいだ。

中川番所資料館の展示から拝借(真中が亀戸大根)

で、その亀戸大根っていうのは今でも作ってのかい?
亀戸辺りじゃ、もう無理な話で大根つくる畑も田圃もない。実は中川(荒川)を越した葛飾高砂で今でも作ってるって話だ。とはいっても2~3軒の農家で細々とっていう程度だから、とてもじゃないが市場に出回ることはほとんどない。
食べて見たい?そんなら亀戸の老舗「亀戸 升本」っていうところで亀戸大根の料理を食わしてくれるはず。
場所かい?JR亀戸駅を背にして明治通りを真っ直ぐ歩いていくと蔵前橋通りの交差点があるから、その右角にでかい構えの本店がすぐに見つかるよ。
お勧めかい?やっぱし「亀戸大根あさり鍋めし」なんぞどうだい。亀戸大根と深川のあさり飯のコラボっていうやつよ!

おっと忘れてた!香取神社の境内にゃ、この亀戸大根の碑が建ってるってことを。確かに大根の形をしとる。ちょっと見にゃ、どでかい砲弾のような形じゃがな。

亀戸大根の碑

もう一つ、本社殿の右に井戸があるんじゃが、実は亀戸という地名と関係が深いんだと。
亀戸の名前の謂れは「亀が井戸」らしい。その昔、この辺りは亀の形をした島に井戸があったことから「亀が井戸」と呼ばれたようじゃ。そこで、そこでじゃ、なんとその井戸を再現しようと(本当に掘りよった。)2003年4月に「平成の亀が井戸」が完成してしまったのだとさ。

復元!亀が井戸

ついでにJR亀戸駅前の宝くじ売り場(屋台)にゃ、縁起をかついでのことか、どでかい亀のたわしが飾ってあるんですね。もちろん天神様のお池にゃ、亀だらけ!

参考までに、亀戸大根の料理を召し上がってみたいとお考えなら、「亀戸升本」をおすすめいたします。
■升本本店
http://masumoto.co.jp/ja/honten/
住所 : 東京都江東区亀戸4-18-9
アクセス : JR総武線亀戸駅 北口 徒歩7分 / 東武亀戸線亀戸駅 徒歩7分
電話 : 03-3637-1533
営業時間平日  昼席:11:30~14:30(14:00 L.O.) 夜席:17:00~21:30(20:30 L.O.)
土日祝日 昼席:11:00~15:00(14:30 L.O.) 夜席:17:00~21:00(20:00L.O.)
定休日 : 毎月第3月曜日 ※1月、8月、12月を除く ※月曜日祝日の時は翌日火曜日 定休日

■お弁当店
すずしろ庵(亀戸十三間通り)
升本のお弁当を専門に扱う店舗ですが、店内に狭いスペースですがイートインができるようになっています。
電話: 03-5626-3636 (直通)
住所: 江東区亀戸2-45-8 升本ビル1階
営業: 年中無休





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お江戸庶民の行楽地・洲崎弁天ってどんなとこ?【お江戸深川・江戸の海辺】

2010年10月19日 14時03分35秒 | 江東区・歴史散策
お江戸の行楽地を調べていると、頻繁にでてくるのが洲崎という地名。そして江戸時代を通じて風光明媚な江戸湾に面した景勝地で、季節ともなると釣りや潮干狩り、船遊びなどで大いに賑わったと書かれています。
そして歌川広重の名所図会にも描かれているのですが、その絵を見ると江戸湾の波が葦が生い茂る湿原に打ち寄せ、いかにも海辺の景勝地といったところです。
そして江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めたと言われています。

それではどこだと言うことで、一っ走り行ってきました。場所は江東区の東西線木場駅のすぐ側。現在は東陽町という地名に変わっていますが、ここがかつての洲崎海岸があった場所です。
そしてもう一つ、洲崎を有名にしたのが吉原と双璧をなす大歓楽街がここ洲崎にあったことなのですが、そんなことを知っているいる人がどれだけいるのだろうか、と思えるほど現在の洲崎にはそんな面影はまったく見当たりません。ただ「辰巳(たつみ)芸者」という言葉を聞くと、「あ~、あの辰巳芸者のいた場所なんだ。」と想いを馳せる御仁もいらっしゃるのでは?
実はこの大歓楽街があったのは明治から大正そして昭和18年ころまでの話です。話によると吉原にあった「大門」と同じように「洲崎大門」が歓楽街の入口に建っていたようです。

さてよく江戸前の海という言い方をしますが、江戸前の海はいったいどの場所の海の事をいっていたのだろう。
実はここ洲崎の海岸と品川洲崎の利田神社を直線で結んだ陸側の海を当時は「江戸前の海」と言っていたようです。

いまでこそ東京湾の海岸線は埋め立てによりはるか南へと移動していますが、江戸時代はここ洲崎が海岸線で江戸湾の波がチャッポン、チャッポンと打ち寄せていたのです。

洲崎神社鳥居

さて本日のお題の「洲崎弁天」ですが、これまたかなり由緒正しい神社なのです。
江戸時代からの名刹で、生類憐みの令で知られる五代将軍・徳川綱吉公の生母・桂昌院が守り神としていた元弁天社を、元禄13年(1700)に江戸城中の紅葉山(もみじやま)から遷したことが起源であると伝えられています。当時はご祭神を海岸から離れた小島に祀ったため「浮弁天」と呼ばれ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めていました。

洲崎神社の社殿

赤い鳥居をくぐってすぐ左脇に「波除碑」と「津波警告の碑」が建てられています。なぜこのような碑がたっているかというと、ここ洲崎周辺は寛政3年(1791)の台風の高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大きな被害を受けました。このため幕府はこの一帯の土地を買い上げて空き地とし、居住を禁止したのです。そして被害の惨状を記した波除の碑を寛政6年(1794)に設置しました。

津波警告の碑
寛政時代の波除碑

本神社の社殿の右手奥に小さな池があり、その池の中の小さな島に弁天を祀る祠があります。

洲崎神社の弁天池

かつては風向明媚な海岸を望む場所にあったここ洲崎神社は、時代の変遷の中で住宅街に囲まれた場所に静かに佇んでいます。





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こんな所にあった!江戸の戯作者「滝沢馬琴」生誕の地碑【お江戸深川・清澄白河】

2010年10月17日 20時26分38秒 | 江東区・歴史散策
江戸の下町、門前仲町から清澄通りを北上し、仙台掘川に架かる海辺橋を渡るとすぐ右手の歩道脇に「滝沢馬琴生誕の地碑」が人知れず置かれている。



現在、海辺橋を渡る手前の地名は平野、清澄で橋を渡ると深川1、深川2へと変わります。そして橋名が「海辺」とあることから、海岸に近いかというと、現在の海岸線は遥か南へと後退し、海辺という橋名にそぐわない町並みが広がっています。

実はこの橋名の由来は、江戸幕府の開幕以前の慶長元年(1596)から元和元年(1615)にかけて、野口次郎左衛門という人物によってこの地域一帯が新田として開発され、海辺新田という地名が付されたことによります。海辺新田と呼ばれた地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川(隅田川)にまたがっています。そして開発を行った野口家は当地の名主を務め、寛保元年(1741)以降は海辺家を名乗りました。
その後、小名木川沿いは常陸、下総からの船運の船着き場として発展をし、深川海辺新町、深川海辺町と呼ばれるようになりました。江戸初期に開発された海辺新田も深川地区の開発が進むにつれて、新田の地域は狭くなっていきます。正徳3年(1713)には新田内に深川海辺大工町をはじめ新たに五町が成立し、町奉行支配下に置かれました。

また、江東区にはもう一つ「海辺」という町名があります。その場所は清洲橋通りを東へと走り、横十間川親水公園を跨ぐ岩井橋を渡る手前右手の狭い地域です。ただし前述の江戸時代に開発された海辺新田の地域には含まれていないエリアです。
江戸時代にこの岩井橋付近には「砂村隠亡掘(すなむらおんぼうぼり)」と呼ばれていた「焼場」「阿弥陀堂」があり、江戸市中から遠く離れた人気のない寂しい場所でした。
隠亡とは火葬に従事する人のことをいいます。
そんな場所柄から江戸の世話物話を完成させた四世鶴屋南北は怪談話にふさわしい場所として、隠亡掘を取り上げています。
南北の代表作である「東海道四谷怪談」では戸板にくくりつけられたお岩小仏小平が隠亡掘に流れ着いた場面を描いています。

それでは本題の滝沢馬琴の話に戻りましょう。ご存知、江戸時代後期の戯作者として知られている滝沢馬琴こと曲亭馬琴は明和4年(1767)にここ深川(現在の平野1-7付近)で生まれました。当時深川のこの地には、旗本・松平信成の屋敷があり、馬琴の父は松平家の使用人だったと伝えられています。馬琴は安永4年(1775)に父を亡くし家督を継ぎますが、安永9年(1780)年、馬琴15歳の時に松平家を辞し放浪生活に入り、さまざまな職を転々としながら、この地から僅かな距離にある門前仲町に居を構えます。そして寛政2年(1790)に黄表紙・洒落本で一世を風靡していた山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りし、自らも戯作者として地位を固めていきます。

山東京伝は馬琴より6歳年上で、宝暦11年(1761)に深川の木場で生まれています。京伝は当時の遊郭を舞台にした洒落本を流行らせた人物です。俗にいえば江戸時代の軟派文学の代表格です。あまりの軟派文学であったことから、松平定信の寛政の改革の出版統制で、手鎖50日間の刑に処せられています。

滝沢馬琴(曲亭馬琴)と言えば、その代表作は言うまでもなく「南総里見八犬伝(奥書)」でしょう。馬琴のライフワークともいえる超大作で、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、28年をかけて書き上げています。執筆中、馬琴は晩年に失明しながらも、息子の嫁に口述筆記させて死の直前まですざましい執念で完結させたと言います。そのボリュームは全98巻106冊という膨大なものです。




ここ深川に建てられた生誕の地碑はこの「南総里見八犬伝(奥書)」の本を積み上げた形をしています。106冊を2つの山に分けて積み上げた形の碑です。
秋深まりゆく10月の半ばにもかかわらず、碑の傍らにまだ青々と生える雑草が碑にもたれかかり、普通でも目立たない碑がさらに目立たない存在になっていました。

余談ですが、この馬琴先生はなんと副業で薬まで販売していたのをご存知ですか。奇応丸とか神女湯と言われたものらしいですよ。有名作家の暮らしも楽ではなかったようです。





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お江戸下町天神様・スカイツリーを間近に仰ぐ亀戸天神社境内散策【お江戸亀戸梅屋敷】

2010年10月07日 17時12分57秒 | 江東区・歴史散策
本格的な秋の訪れが待ち遠しい10月の初旬、下町の天神様として有名な亀戸天神へ。
平日のこの日、境内には参詣に訪れる人はまばら。ちょうど10月の第4日曜日から始まる菊祭りの準備で本社殿の前の広場には菊の鉢植えを並べる展示台が準備されていました。

蔵前通りに面する天神社正面入口から、短い参道を進むと右側に「べっこう細工」の店が現われる。

べっこう細工のお店

べっこう細工の店の真向かいには、ここ亀戸ではもっとも有名な甘味の老舗「船橋屋」の出店があるが、平日のこの日は両店共に開店休業状態。
船橋屋の本店は天神社から蔵前通りを錦糸町方面に150mほど行った右側に古い佇まいを見せて店を開いている。見るからに江戸の情緒を醸し出している風情で、店の中も若干薄暗く、昔ながらの雰囲気で「あんみつ」や一押しの「くず餅」を楽しむことができる。天神社のお参りの後は、是非立ち寄っていただきたい店の一つです。

船橋屋本店店構え

赤い鳥居をくぐると、すぐに最初の太鼓橋が現われる。この太鼓橋を男橋と言う。真中が膨らんだ太鼓橋の一番高い所からは境内の心字池と藤棚が見渡せる。天神社の藤の花は江戸の時代から「亀戸の五尺藤」、「亀戸の藤浪」として広く親しまれ、平成の御世になっても東京の中でも藤の花の名所として知られている。

男橋

名物の藤棚

最初の太鼓橋を渡り、平らな平橋を少し歩くと次の太鼓橋が現われる。この太鼓橋を女橋と言う。
このように大鳥居からはいってくると社殿に至るまでの間に2つの太鼓橋とその太鼓橋を結ぶ平橋を歩くことになるのですが、これには次のような云われがあるんですね。
最初の太鼓橋は生きていた過去を現し、平橋は現在、そして3つめの太鼓橋は未来を現すといったもので、3つの橋を渡るごとに心が清められ、神殿前に進むようになっているとのことです。

女橋

女橋を渡りきると、左手に子どもの像がたっています。この像は当天神社が祀る道真公の5歳の頃のお姿で、公がその時に詠まれた歌が像の台座に刻まれています。
こんな詠だったと思います。「美しや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」
子どもらしい歌といえば歌に思えるのですが…。

道真公五歳像

そして本殿に進むのですが、本殿の左脇に大きな牛の像が置かれているのがすぐに気が付きます。
「神牛(しんぎゅう)」です。天神様の神使(みつかわしめ)として牛が古くから崇められているのですが、やはりここ亀戸天神にもいらっしゃたのですね。
参拝の際に牛の体に触ることで病を治し、知恵を授けてくれるというありがたい御牛様です。

神牛像

これと同じような霊験あらたかな牛は、隅田川墨堤の牛嶋神社の境内にも置かれています。

「亀戸」だけに天神社の池は亀だらけ

そしていよいよ本社殿ですが、以前のブログの中でもご紹介したのですが、社殿の甍越しにあのスカイツリーが聳えているんですね。以前よりもさらに成長しています。今日も大好きなスカイツリーの姿を天神社境内で激写してきました。
ほんとうに間近に迫るように聳えています。社殿の甍とスカイツリーの組み合わせは、時の流れを超えて新旧の時代の変遷を感じさせてくれます。

本社殿とツリー 

男橋の欄干の宝珠とツリー 

大鳥居脇の石燈篭とツリー





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お江戸大川・永代橋東西詰歴史点描【お江戸深川・日本橋】

2010年10月06日 14時27分00秒 | 江東区・歴史散策
江戸城大手門から真っ直ぐに延びる永代通りは大川(隅田川)に至り、下総の国へとさらにつづいていく江戸の頃からの幹線道路。大川(隅田川)を超えると、深川の総鎮守として江戸時代から庶民から親しまれてきた富岡八幡宮が社殿を構えています。

その大川(隅田川)を跨いでご府内と深川を結ぶ橋が「永代橋」です。永代橋が最初に架橋されたのはお江戸の元禄11年(1698)の頃。上野寛永寺本堂の材木を使い第5代将軍綱吉公の50歳の祝い橋として架けられたと言います。
そして歴史の出来事の中でよく取り上げられるのが、架橋後4年の元禄15年(1703)師走の14日に起こったあの赤穂浪士の吉良邸討ち入りの後、この永代橋を渡ってご府内へと歩を進めた橋として知られているんです。橋の近くには赤穂義士休息地の碑も立っています。

また文化4年(1807)には12年ぶりに行われた富岡八幡宮の祭礼に訪れた多くの見物人の重さで橋の一部が落ち、多数の死者(記録によると1,500人の死者)がでたという大惨事があったこともこの橋を有名にしています。こんな大惨事をこんなふざけた狂歌で茶化した人もいたんですね。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」(太田南畝作)

まあ、こんな橋なんですが現在の橋は関東大震災後の大正15年に震災復興事業の第一号として架橋されたものです。

江東区側東詰からみた永代橋

さてこの永代橋の東詰めの永代通りに面した歩道脇に幕末の兵学者・思想家として著名な「佐久間象山」の砲術塾跡の標識が立っています。へえ~、こんなところにあったんだ。という感じです。

佐久間象山砲術塾跡標識

ぺりーが浦賀に来航する前の嘉永3年(1850)7月から12月までここ深川小松町(永代1-14)の真田藩下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教えた場所なのです。当時は諸外国に対しての防衛のため、軍事力の強化を図るうえで西洋流の砲術が急速に広まりつつある時代だったのです。
象山の門人には吉田松陰、坂本龍馬、橋本佐内、勝海舟をはじめ、幕末の歴史を彩った多くの人がいました。その後、深川から木挽町(中央区)に移り、再び砲術塾を開きました。

江東区側の東詰めからみる中央区側の景色は隅田川を境に、さすが都心と思わせるスカイラインが広がっています。中央区河岸で一番目立つ建物はIT産業の牙城「IBM」の本社でしょう。

隅田川右岸に建つIBM本社

橋上から眺める隅田川は上流には箱崎のジャンクションとその向こうにチラッと見える清洲橋の姿が印象的です。そして下流には二股に分かれる隅田川の広がりと石川島に架かる中央大橋のモダンなシルエットがまるで絵葉書のように浮き上がっています。

お江戸の時代、大川(隅田川)はここ永代橋をくぐったあたりで江戸湾に流れ込んでいました。いまでこそ東京湾は遥か南へと後退していますが、かつて江戸時代には永代橋付近も豊かな漁場で、すぐそばの石川島や佃島周辺で白魚が豊富に獲れたことで知られています。
よく言う「江戸前の海」はこの永代橋付近の場所を指していたのです。
そんな豊かな漁場である江戸前の海から獲れた魚は船で日本橋の魚河岸へと運ばれていったのですが、永代橋からみると、魚河岸への水路として利用されていた平川(日本橋川)の注ぎ口は永代橋とほぼ隣接している位置にあるんです。

日本橋川口から永代橋を臨む

江戸時代にはこの永代橋からさほど離れていない上流地域(現在の清洲橋西詰辺り)は三ツ又と呼ばれる砂洲があったことろで、きっと葦が生い茂る場所だったのではないでしょうか。

この三ツ又にはこんな悲しい話が残っています。
伊達騒動事件の元となった、高尾太夫のお話なのですが、仙台藩主伊達綱宗(つなむね、1711没)が、妓楼三浦屋の高尾太夫を7800両で身請けしたが、太夫は約束した好きな男、島田重三郎に操をたてて応じなかったのです。いやがる太夫を船に乗せて、隅田川を下り屋敷へと戻る途中、太夫の態度に怒った綱宗は隅田川三ツ股(永代橋上流)で太夫を裸にして、両足を舟の梁に縛り、首をはねる”逆さ吊り”にして切り捨ててしまったのです。しかし、一説によると高尾太夫は身請けされ、のちに仙台の仏眼寺(ぶつげんじ)に葬られたとも言われていますが…。

実は高尾太夫はお江戸東淺草の春慶院に静かに眠っています。寺院が多く集る東浅草の一角にあるあまり目立たないお寺です。門前には高尾太夫の墓があることすら表示されていません。本堂の右手奥に墓地が併設されているので、進んでいくと、墓地の入口の手前に高尾太夫の墓がぽつねんとした佇まいで置かれています。

春慶院

高尾太夫説明書

春慶院が妓楼の遊女たちの投込み寺であったとは聞いていませんが、俗に言う投込み寺では、いくら太夫の墓であっても他の墓とは隔絶したような場所に「ぽつん」と置かれている事が多いのです。これは生きても地獄、死しても遊女であったことでの差別を受けていたために、檀家としての扱いを受けられなかったのではないでしょうか。
そんな哀れな境遇を現しているかのように、寂しい雰囲気が伝わってきます。

仙台高尾墓

その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着します。当時そこに庵を構えていた僧がその遺体を引き揚げて手厚く葬ったといわれる。高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷社としたというのが当社の起縁なのですが、この祠がIBM本社からさほど離れていない民家の脇に置かれています。稲荷社としては全国でも非常に珍しく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。

 

高尾稲荷

こんな隠れた稲荷社が永代橋西にあるのですが、機会があれば是非お参りに訪れてみてはいかがですか。





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芭蕉所縁の観月の名所「五本松」ってご存知ですか?【お江戸深川・小名木川】

2010年09月29日 09時54分05秒 | 江東区・歴史散策
江東区内を東から西へと真っ直ぐに貫く堀割(運河)が造られたのははるか江戸時代の初期の頃。その掘割は中川(現在の荒川)と隅田川を結ぶ水運の要として、様々な物資を積んだ沢山の船が行き交い、活況を呈していたようです。その掘割は小名木川と呼ばれ、その河岸には新たに開発された新田や小さな村々、そして鎮守様が点在していました。

風光明媚な光景が広がる小名木川の河畔の様子は広重の版画や江戸名所図会のなかに、舟遊びを楽しむ庶民の姿が活き活きと描かれています。
そんな絵の中に必ず描かれているのが枝ぶりが見事な大きな松の木。日本の風景には妙に松の木が似合うのですが、おそらく江戸時代の深川に広がる田園地帯にはいたるところに松並木や松林が点在していたのでしょう。

そこで本日のお題である「五本松」のお話になるのですが、江戸時代の頃、小名木河畔に見事な枝ぶりの5本の老松があったそうな。その老松は周囲の景色の中に際立って葉を繁らせていたのではないでしょうか。
そしていつの頃からかこの五本松の辺りは名月を鑑賞する絶景ポイントとして、江戸の庶民の行楽地として人気が高まったといいます。
江戸名所図会の中には遥か東の空に浮かぶ満月のもとで、小名木川に船を浮かべ、川面にまで枝をのばす松の下でお月見を楽しむ庶民の姿が描かれています。





そしてやはりあの人もこの五本松に来ていたのです。深川に庵をむすんでいた芭蕉翁なのですが、おそらく萬年橋袂から舟をだしてお月見にやってきたのでしょう。このとき詠った句が残されているんですね。
川上と この川下や 月の友(元禄6年/1693)」
満月の宵に川上で観月をしている友達と同じように、私(芭蕉)も川下で同じ月を眺めているのです。という気持ちを詠ったものですが、ここで言う友達は山口素堂ではないかと言われています。


五本松脇に置かれた「川上と この川下や 月の友」の句碑

現在の「五本松」は深川四ツ目通りが小名木川を跨ぐ、小名木川橋の袂にありますが、どういうわけか3本しかないのです。ただ四ツ目通りを挟んだ向こう側の橋の袂に2本の松が植えられているので、都合5本と考えれば辻褄があうのかなと一人勝手に解釈した自分に拍手。





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さらにもう一つの芭蕉所縁の古刹「臨川寺」の佇まい【お江戸深川】

2010年09月28日 20時54分08秒 | 江東区・歴史散策

江戸に下った芭蕉が日本橋から小名木川が隅田川に注ぎ込む萬年橋袂の深川、河岸に新たな庵を結んだのが延宝8年(1680年)の頃。そして元禄2年に奥の細道の旅に出立するまで深川の隅田河岸での生活がつづいたのです。
その間、弟子たちと一緒に小名木川での船の遊覧や河岸の散策、そして推察するに、甍を連ねる深川の寺町の門前を通り永代寺境内や深川の総鎮守である「富岡八幡宮」あたりまで足を伸ばしていたのではないでしょうか。

暮れなずむ萬年橋

そんな生活の中で、度々参禅に通った寺があるのです。萬年橋からは少し距離があるのですが、現在の清澄白河駅のすぐそば、清洲橋通りに面して建つ古刹「臨川寺」です。
山門を入ってすぐ左手に設けられた庭(といっても猫の額程度の庭)に芭蕉が参禅したことを記した「芭蕉由緒の碑」が立っています。

 



芭蕉由緒の碑には下記の事柄が刻まれているらしい。(碑面はかなり黒ずみ、文字がうっすらと浮かび、判読するには難儀する。)
臨川寺は、むかし仏頂禅師が構えた寺で、そのころ芭蕉が朝夕赴いた参禅道場である。禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、美濃派の俳人で小石川白山門前に住む神谷玄武が、各務支考(芭蕉門人)により京都双林寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に石碑を建て、毎年3月に墨直会を催した。また支考の碑も建てた。と書かれている。

尚、お寺の本堂には木製の芭蕉像が安置されているのですが、先日臨川寺に伺ったことろ、その日は檀家のご法事と重なり本堂内に入る事ができず芭蕉像を拝見することができませんでした。その代わりに臨川寺が発行しているパンフレットを頂いて退出いたしました。



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あのお大尽の墓とは思えないお江戸の政商・紀伊国屋文左衛門の墓を見~つけた!~【お江戸深川・成等院】

2010年09月28日 18時43分25秒 | 江東区・歴史散策
前にも記述したように、お江戸深川には歴史の舞台で活躍した著名人の墓が目白押しです。生前の業績やその地位によってお墓の姿は千差万別。寺町の風情を残す深川界隈を歩いていると、なにげなく見る寺に少なからず歴史に名を残す人物と関係がありそうな佇まいを感じるのですが…。

今日のお題は江戸の元禄時代に一世を風靡した稀代の豪商「紀伊国屋文左衛門」です。なんと文左衛門の墓が深川にあるんですね。門前仲町から清澄通りを北へ進み、芭蕉の「採茶庵跡」のある海辺橋を渡り清澄庭園にほど近い深川江戸資料館通り3本目の路地を右へ折れ、最初の角を左へ曲がってすぐの左側奥に置かれた大きな碑が「紀伊国屋文左衛門の碑」なんです。

狭い通りには面しているのですが、石碑は通りから少し奥まって置かれているので、気が付かないで通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。さらに石碑が置かれている敷地への入口の鉄柵が常に閉まっているので、入っていいものか一瞬躊躇してしまいます。
私はためらいもなく錠前をずらし、鉄柵を開けて入ってしまいますが…。これまで誰からも咎められたことはありませんでした。
さて、敷地に入るとさらにもう一つ柵がありますが、この柵の中に入らずとも石碑を至近距離で十分に眺めることができます。そして驚いた事に大きな石碑の左脇に、「これがあの豪商紀伊国屋文左衛門の墓なの」と思えるほど小さな墓石が寄り添うように置かれているんです。

文左衛門の碑

紀文と言えば、誰もが想起する紀州(和歌山県)から蜜柑船を江戸へ回漕し巨萬の利益を得た事や、上野寛永寺根本中堂の造営にあたって用材調達を一手に請け負い、これまた財をなしたと言われるほどの方なのです。
そして浅草田圃の桃源郷「吉原」でのお大尽遊びで知られ、豪遊伝説などを残したことであまりにも有名な方なのですが、この墓を見る限り「どうして?」と思われる方は多いのではないでしょうか。

ちなみに紀文が政商となっていった後ろ盾に、5代将軍綱吉の側近であった老中柳沢吉保の存在を忘れてはなりません。しかし我が世の春は長続きしなかったのです。綱吉の死去に伴い、老中を辞した吉保の跡、正徳の治を展開した新井白石の登場で商売はうまく行かなくなり、材木商を廃業し晩年は深川で隠棲せざるを得ないほど落ちぶれてしまった由。そんなことで立派なお墓もつくれなかったのではないかと推察されるのです。

尚、文左衛門の羽振りが良かった頃、彼の次男は保土ヶ谷宿の本陣を経営していた軽部家(苅部)に養子として入っています。軽部家は小田原北条氏の家臣のお家柄で本陣を経営するほどの名家だったのですが、本陣とはいえ経営状態は常に困っていました。
というのも本陣は当時の特権階級である大名の藩主、朝廷からの勅使、さらには幕府の重臣など限られた人間しか宿泊することができなかったのです。また、当時の保土ヶ谷宿は場所柄、多くの大名が宿泊する場所ではなく、参勤交代の行列も休憩する程度で素通りしてしまうことが多かったといいます。
そんなことで保土ヶ谷宿の軽部本陣の経営は苦しかったといいます。そこで大金持ちの紀伊国屋文左衛門の次男との養子縁組が整い、嘘か誠かは定かではありませんが、多額の持参金を持ってきてもらったとも伝わっています。

ついでながら、文左衛門と同じ時代を生きた深川を代表する材木商がいます。その名は「四代奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)」といいます。通称「奈良茂(ならも)」と呼んでいます。
一説によると、紀伊国屋文左衛門と吉原遊郭で豪遊を競った人物と言われています。
江戸の商人の子として生まれた茂左衛門は、幼いうちから江戸の材木屋で働き、商売を覚え、その後独立して材木商を営むようになりました。彼が豪商になるきっかけは、天和3年(1683)5月に日光一帯を襲った地震で東照宮が倒壊したことで、その修復工事を請け負ったことに始まります。

その工事を請け負う際に、奈良茂は狡猾な手段を使い受注し、巨利を得たといわれています。奈良茂が使った狡猾な手段とは、受注の入札の際に他が絶対にださない極めて安い金額を提示したことです。これによってまんまと受注には成功するのですが、あまりに安い金額を提示したことで、自ら修復用の木材を調達できなくなってしまいます。そこで入札から漏れた材木業者たちに安い金額で木材の購入を持ちかけるのですが、汚い手を使って受注した奈良茂に木材を売る業者は誰もいませんでした。

困った奈良茂は窮地を脱するために、幕府に対しておおそれながらと自らの窮状を訴えでたのです。その訴状内容も狡猾そのもので、こんな風にお上に訴えたそうです。「神君家康公を祀る東照宮の修復に使うための木材を準備したくても、同業材木商は誰も売ってくれません。こんな状況では東照宮の修復もままなりません。」

この訴状を受けた幕府はなんと奈良茂に材木を売らない材木商を捕縛し、店を取り潰してしまったといいます。
そんな悪評が伝わる奈良茂は深川ではそれほど人気がありません。やはり気風の良さと粋、そして通人をその気概とした文左衛門は落ちぶれようとも深川では人気者なんです。





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な、な、なんとお江戸深川にもあった三十三間堂!【お江戸深川】

2010年09月26日 22時42分59秒 | 江東区・歴史散策
深川の総鎮守、富岡八幡宮の境内から東へちょうど2ブロック行った角、歩道にさりげなく置かれた碑の脇に「三十三間堂跡」の石柱が立っている。よほど事前に調べをしなければ、この場所にこんな碑が置かれていることなど知る由もないくらいに、時の流れに埋もれてしまった歴史の事実として静かに佇んでいます。





お江戸の三十三間堂は京都にあった三十三間堂(蓮華王院)を模して三代将軍家光公の時代の寛永19年(1642)に浅草に創建された「東普門院」が最初のものでした。その後、火災により焼失したため、元禄14年(1701)に富岡八幡宮の東側に再建され、武家の弓術の射的場や競技場として使用されていたようです。

ここでは浪人や全国の藩の藩士たちが射手として「通し矢」を行っていました。

三十三軒堂は浅草に創建されて以来、たびたび再建と修復を繰り返していました。その度に多額の資金が必要となり、その維持と管理はたいへんだったようです。深川移転後も明和6年までに造立2回、修復1回を数えています。
本来、三十三軒堂は千手観音を祀る御堂なのですが、ここ深川の三十三間堂は「射場」としても重要な地位を占めていたようです。
建物の造りは東側(現在の木場方面)が御堂で、西側(隅田川側)が射場の役割を果たしていました。


明治5年(1873)に神仏分離で解体され、跡地は大正2年に数矢尋常小学校(現・数矢小学校)がこの地に創立されました。関東大震災で校舎が焼失すると、数矢小は現在地の富岡一丁目に移転しています。この「数矢」の名前は矢数の意味で、江戸時代に三十三間堂で射た矢の数のことです。

この界隈は昭和50年頃まで、木場の材木問屋が軒を連ねる町でしたが、新木場移転に伴い当時の風情はほとんどのこっていません。当碑をご覧になった後は、もう一度八幡様境内へ戻り、賑やかな門前町で名物の「あさり飯」などを食してみてはいかがですか?






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