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必見!!横綱白鵬の名も刻まれる50連勝超力士碑【お江戸深川・富岡八幡宮】

2010年09月22日 18時19分30秒 | 江東区・歴史散策
千代の富士が打ち立てた昭和の連勝記録53連勝をあっけなく抜き去り、いよいよ双葉山の69連勝へ向けて記録を積み重ねている横綱白鵬はまぎれもなく「平成の大横綱」として日本人いや、世界の相撲愛好家の心の中に永く刻まれていくことでしょう。
そこで調べてみました。大相撲の歴史を振り返って、50連勝超えの偉業を達成した力士は何人いるのかを…。
実はお江戸・深川の総鎮守「富岡八幡宮」の社殿の右手奥にそれはそれは立派な横綱碑が静かな空気に包まれ鎮座しているのです。



そして横綱碑の傍らに大相撲の歴史に彩りを添えるように、「50連勝を超えた力士」の四股名を刻んだ碑が立っているのです。
正式には「超五十連勝力士碑」と呼ばれているもので、昭和63年(1988)に建立されました。
どれどれ何人いるのかな? なんとその碑面にはわずか5人の力士の四股名しかないのです。長い大相撲の歴史の中で50連勝超えという大記録はそう簡単に達成できるものではないということなのですね。





刻まれている力士は「双葉山(69連勝)」「千代の富士(53連勝)」江戸時代の「谷風(63連勝)」明治時代の初代梅ヶ谷(58連勝)」そして明治から大正にかけての「太刀山(56連勝)」の5人だけなのです。
白鵬はすでに50連勝超えを果たしているので、間違いなくこの碑にその四股名を刻むこととなるはずです。当然、連勝がストップするまでは、または引退するまではこの碑にその名前は刻まれないと思いますが……。
尚、昭和の大横綱として絶大な人気を博した「大鵬」はというと、残念なことに五十連勝はしていなかったんですね。大鵬の記録をみると45連勝で、歴代7番目の記録です。

この超五十連勝記念碑の奥にあるのが横綱力士碑です。かなり大きな石碑で、高さ3.5m、横3m、厚さ1m、重量はなんと20トンの代物です。この石碑が建立されたのは明治33年(1900)に遡ります。建立の発起人は第12代横綱であった陣幕九五郎で、この他、伊藤博文、山形有朋、西郷従道、徳川家達(いえさと)、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、松方正義、渋沢栄一など当時の政財界の名士をはじめ、300名を超える賛助を得て建立されました。
横綱碑には初代横綱・明石志賀之助(寛永元年に横綱昇進(1624年)から始まり第69代横綱・白鵬までの力士名が刻まれていますよ!(2018年現在、72代横綱稀勢の里の名はすでに刻まれています。)



富岡八幡宮境内には大相撲に関する記念碑が多く置かれています。
大関力士碑:昭和58年(1983)建立。大鳥居をくぐり参道を進むとすぐ右手に置かれています。
この大関碑には江戸時代の初代雪見山(宝暦7年/1757)から102名の力士の名が刻まれています。
巨人力士身長碑:昭和58年(1983)建立。大関力士碑とほぼ同じ場所に置かれています。
歴代の巨人力士の四股名と身長が刻まれています。尚、巨人力士であったという身長基準は大正から昭和にかけて活躍した出羽ケ嶽文次郎の6尺7寸7分(約205m)として、この身長より高い力士12名の名が刻まれています。
最も背の高い力士は江戸時代の天保・弘化年間(1830~1848)に活躍した生月鯨太左衛門(いきづきげいたざえもん)の7尺6寸(約2m30cm)です。
釈迦ケ嶽等身碑:天明7年(1787)建立。大関力士碑とほぼ同じ場所に置かれています。
江戸時代の明和7年(1770)に江戸番付の東大関に名を連ねた力士で、身の丈7尺5寸(約2m27cm)、体重180kgを誇っていました。
しかし江戸在場所中に若干27歳で亡くなってしまいました。当碑は釈迦ケ嶽の身長と同じ2m27cmの高さです。
強豪関脇力士碑:昭和62年(1987)建立。大関力士碑とほぼ同じ場所に置かれています。
横綱、大関に次ぐ位である関脇の中で、強豪と言われた力士を顕彰するために建立されました。碑面には江戸時代の宝暦7年(1757)から昭和33年(1958)までの42名の関脇力士の名が刻まれています。

ところで、どうして深川・富岡八幡宮にこんなにたくさんの相撲の碑があるの?
まず江戸時代の相撲の歴史からひも解いてみましょう。

江戸における勧進相撲の始まりは寛永元年(1624)に江戸市中の四谷塩町長善寺(通称:笹寺)の境内で明石志賀之助の晴天六日の相撲興行と言われています。勧進相撲とは寺社が社殿の増改築などの普請を行う際に、幕府寺社奉行の許しを得た上で寄付を募ったり費用を工面するために行う興行です。

実はこの相撲興行でたびたび勝敗をめぐって喧嘩口論が後を絶たず、幕府は慶安元年(1648)に相撲興行禁止令を出しました。
これによって江戸市中での相撲興行は影を潜めることとなるのですが、36年後の貞享元年(1684)に深川の富岡八幡宮境内での勧進相撲興行が許可されました。
これにはいくつかの理由があるのですが、最大の理由がこの時代から隅田川の東の深川地域が江戸市中に組み込まれていく中で、地域振興策の一環として相撲興行が許可されたのです。また、相撲興行が許可された年の2年前に富岡八幡宮は火災で社殿を消失していたので、勧進の名目で社殿の復興資金を調達する目的もあったと言われています。

深川での相撲興行は当初は不定期で、場所も富岡八幡宮だけでなく浅草蔵前八幡、芝神明社などでも行われていました。
芝神明社は関取と火消し「め組」の喧嘩で有名です。
貞享から元禄時代にかけて勧進相撲は全部で58回行われました。そのうち深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺)で11回、深川八幡御旅所で4回行われています。

そして富岡八幡宮境内での勧進相撲は貞享元年以降、100年に渡って本場所が開かれ、深川は江戸庶民の一大観光地へと発展していくのです。その後、天保4年(1833)以降は 本所・回向院の境内が勧進相撲の定場所となるのですが、いずれにせよ江戸における大相撲の発祥地は深川の総鎮守である富岡八幡宮だったのです。





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