hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

だまされて楽しい八幡様のお祭り

2011年09月16日 | 昔の話2

子どもの頃代々木八幡宮の近くに住んでいた。八幡様は木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居があった。作家の平岩弓枝の父親が宮司だった。

九月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口からお社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和二十年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。

先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、今度こそとついつい見とれてしまう。

望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」。 手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」。色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。

実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけて、布で拭き取ると、あら不思議、傷口もなくなっている。
そして、がまの油を入れた小さなカンを売る。最初はお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かがお金を出して買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。“さくら”だった。


八幡様のお祭りは、なにか怪しげで、怖いもの見たさの楽しみもあった。そして、今になって思うと、なんだかいんちきも今のようにギスギスしていないで、どこかユーモラスで、だまされることも楽しむ雰囲気もあったと思えてくる。

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