模擬爆弾「パンプキン」全国49発 見えてきた米の真意 (2020年8月6日 中日新聞)

2020-08-06 09:12:38 | 桜ヶ丘9条の会

模擬原爆「パンプキン」全国49発 見えてきた米の真意

2020年8月6日 (中日新聞)
 
 七十五年前、原爆投下訓練のために作られた米軍の模擬原爆が東京駅前に投下された。長崎原爆を模した外観で、全国で四百人以上が犠牲になった「パンプキン」と呼ばれる大型爆弾の一つだ。焼夷(しょうい)弾による空襲で焼け野原になり、原爆の投下目標から除外された東京に、なぜ落とされたのか。近年の研究で明らかになった模擬原爆作戦の実相とは。(中山岳、古川雅和)

東京駅前に投下

 東京駅八重洲口前(東京都中央区)の外堀通り。道路に沿って高層ビルが立ち並び、会社員らが横断歩道を行き交う。戦時中にこの場所にあった堀は埋められ、七十五年前の爆撃の痕跡はどこにもない。
 一九四五年七月二十日午前八時二十二分ごろ、この地域の呉服橋と八重洲橋の中間に位置する堀に、一発の爆弾が落ちた。
 原爆投下訓練用に開発された「パンプキン」。カボチャのようなずんぐりした形をしており、プルトニウム型の長崎原爆「ファットマン」と同サイズだ。高性能爆薬を詰められ、重量は約四・五トンもある。着弾すれば付近の建物は吹き飛び、クレーターができるほどの破壊力があった。
 パンプキン投下地点近くの東京駅ホームで、爆撃を目撃した当時十七歳の吉野光男さん(92)=東京都目黒区=は「とんでもなく大きな爆音だった。今でもあの恐ろしさは忘れないよ」と振り返る。
 専門学校生だった吉野さんはこの日の朝、同級生と学徒動員で静岡県裾野に向かう途中だった。上空を飛んできたB29爆撃機を見て、慌ててホームから避難しようとすると、「ドカーン」とごう音がさく裂した。地下道に逃げ込んでうずくまり、間一髪で助かったという。
 警視庁史によると、この爆撃で、周辺にいた一人が死亡し、六十二人が負傷した。全壊、半壊した家屋も一棟ずつ。ほかにも多数の建物でガラスが割れるなど、たった一発で広範囲に被害が出た。
 爆風は、投下地点から約六百五十メートル離れた、丸の内の郵船ビルにも及んだ。当時このビルに勤めていた作家の内田百閒(ひゃっけん)は著書「東京焼盡(しょうじん)」で、「郵船の窓硝子(ガラス)が方方こはれ(中略)電気時計は落ち、扉の金具もちぎれた様になつてこはれてゐる」と被害の大きさを書き残している。

「皇居を狙った」

 なぜ東京に模擬原爆が落とされたのか。「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」事務局長の工藤洋三氏(70)=山口県周南市=は「米軍の作戦で、もともとの爆撃目標は福島県郡山市の郡山駅だった。B29は郡山に向かったものの雲で見えず作戦を遂行できなくなり、東京に変更された」と指摘する。
 工藤氏は一九九一年から米軍資料の分析を続け、七月二十日以降に各地で模擬原爆を使った投下訓練を兼ねた爆撃があったことが分かっている。初日だった同日は、米軍の第五〇九混成群団がテニアン島からB29十機を派遣。投下目標は、郡山や新潟県長岡市にあった工場など十カ所だった。
 投下目標が東京に変わった後、八重洲に落ちた経緯について工藤氏は「第五〇九混成群団の指揮官が戦後に書いた本によると、B29の機長は皇居を狙ったものの、外れて堀に落ちたとされる。機長は指揮官から叱責(しっせき)された」と話す。

7月に訓練開始

 人類初の原爆投下に向け、米軍は綿密な計画を進めていた。一九四五年に入り、投下目標の選定を開始。四月の第一回目標選定委員会では横浜や名古屋とともに「東京湾」も研究対象に指定されていたが、その後は除外された。六月二十七日には広島、京都、新潟、小倉の目標を破壊しないよう、通常爆弾による攻撃を禁止。七月二十五日には、京都を外して長崎を加えた四都市に投下命令を出している。
 並行して七月二十日から、パンプキンの投下訓練が始まった。重量や破壊力が焼夷弾などをはるかに上回るパンプキンの搭載機は、上空約一万メートルを水平飛行し、目的地に照準を合わせてボタンを押すと、放射線と爆風を避けるための急旋回を行った。この手順を確実に遂行するため、精鋭を集めた第五〇九混成群団と原爆投下用に改造した十五機のB29をマリアナ諸島に集めていた。

8月9日以降は

 「春日井の戦争を記録する会」の金子力代表(69)によると、八月六日に広島、九日に長崎に原爆を投下すると、三発目の原爆を搭載するため二機が米本土に向かった。一方、パンプキン投下は愛知県などで十四日も行われ、トヨタ自動車の工場も壊滅的な被害を受けた。
 パンプキンの投下が続いたのは、第三の原爆のためだったのか。
 戦災・空襲研究家の藤本文昭氏(56)は長崎原爆の後、パンプキンの目的は変わったと考えている。日本がいたずらに降伏を先送りしていると考えた米軍が、催促するために大規模に行った「フィナーレ爆撃」の一環だったという見方だ。
 この攻撃に戦略的な意味は薄かったという。「日本が降伏することは決まっていたが、条件を付けようとしていた。態度をはっきりしろという米国の姿勢の表れで、残った爆弾の在庫処理の目的もあった」
 敗戦で、日本への三発目の原爆投下はなくなった。だが、前出の金子氏は、パンプキン投下が八月十四日で終わったのは、ポツダム宣言受諾によって日本で落とせなくなっただけだと指摘する。「戦後七十五年間続く、米国の核戦略の必要不可欠なステップの一つ」であり、その後も日本以外で使用される可能性があったと考える。

伝わらない被害

 パンプキンは戦争末期の一カ月足らずで、愛知、新潟など全国に四十九発が投下された。七月二十九日に京都府舞鶴市で九十七人が死亡するなど、死者は四百人以上、負傷者は千三百人以上に上った。こうした被害や実態は、令和の現在まで詳細に伝えられているのか。
 例えば、四五年七月二十九日に現在の東京都西東京市柳沢に投下されたパンプキンでは、住民三人が死亡し、十一人が重軽傷を負ったが、被害は広く知られてはいない。付近の「しじゅうから第二公園」には、縦七十四センチ、横百六センチの案内板の下部に「模擬原子爆弾の着弾・爆発地」と被害状況が淡々と書かれているだけだ。
 「西東京に落とされた模擬原爆の記録を残す会」の西田昭司事務局長(73)は「あれでは何も伝えきれない。子供たちに伝え、記録を残すためにも、ちゃんとした慰霊碑をつくってほしい」と市に求め続けている。前出の工藤氏もこう話す。
 「広島、長崎に原爆を投下する前から、米軍は緻密な計画のもと訓練を繰り返していた。模擬原爆は各地で被害をもたらしており、調べるほどに原爆の恐ろしさについてあらためて考えさせられる。多くの人に知ってもらいたい」

 


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