23カ国目の「参戦国」 週のはじめに考える (2020年7月5日 中日新聞)
高層アパートに囲まれたその公園は、一風変わっていました。各国の国旗と、きれいに磨かれた墓石が整然と並んでいるのです。「UN(国連)記念公園」。韓国南部の釜山市にあります。
今年は朝鮮戦争勃発から七十年ですが、墓石は、この戦争に参加した国の兵士のものです。
広さは約十五ヘクタール。朝鮮半島の各地に散在していた墓地から、ここに遺体が移されました。
釜山に追い詰められる
第二次大戦後、ソ連と米国が朝鮮半島を分割して統治しました。その後北朝鮮と韓国が建国され、激しく対立しました。
北朝鮮は一九五〇年六月二十五日早朝、三八度線から大量の兵と最新鋭の戦車を投入。不意を突かれた韓国は大混乱に陥り、たちまち首都ソウルを占領されます。
韓国には戦闘支援十六カ国、医療支援六カ国の計二十二カ国が応援に入りました。米軍を中心とした「朝鮮国連軍」は、釜山周辺まで追い詰められてしまいます。
国連軍側が敵軍の背後を突く仁川上陸作戦を敢行。情勢はいったん逆転しますが、勝敗がつかないまま三年後に休戦となりました。
この間、双方の軍が朝鮮半島を交互に占領。いわば「死のローラー」が繰り返しかけられたため、一般人を含め、計数百万人が死亡したとされています。
日本は、この戦争に直接参戦していません。釜山の公園にも日本の国旗はありませんが、日本は国連軍側の後方支援の拠点として大きな役割を果たしました。いわば「二十三カ国目の参戦国」です。
軍用トラック、鉄条網、銃弾などが日本から続々と送られました。兵士用の食パン、輸血用の血液なども含まれていました。
朝鮮半島を爆撃したのが、在日米軍基地から飛び立った米軍機だったことを覚えている人は、もう多くありません。
日本の協力は秘密扱い
当時日本は、米国の占領下にありました。このため、米国からの依頼を受け、日本人が海上にまかれた機雷の除去を担当。在日米軍基地で働いていた一部の日本人は戦闘にも参加しています。
日赤の看護師たちも、負傷したため日本に送られた米兵の治療に動員されましたが、いずれも秘密にされていました。
米兵は日本から海路で送られました。船を動かしたのは朝鮮の地理に明るかった日本人でした。東京都府中市議を務めた三宮克己さんもその一人です。生前に何回か話をうかがいました。
日本兵の復員のため働いていた三宮さんは、朝鮮戦争の勃発に伴い、日本から米兵を朝鮮半島に送り出す仕事に従事します。
米兵たちは、突然の戦争に心の準備ができていませんでした。ガラスケースに入った日本人形やギターを抱えて韓国南部の釜山に近い港で下船し、遊びにでも行くように戦地に向かったそうです。三宮さんはその後、兵士の多くが戦死したと聞きました。
二年半にわたって兵を送り続けた三宮さんは、佐世保や横浜に戻ると仲間と酒を飲みました。港で働く労働者たちが「景気がいい。やっぱり戦争があったほうがいい」と話すのを耳にしました。「自分の頭に爆弾が落ちないのなら、戦争を歓迎するのか」と、恐ろしさを感じたそうです。
日本経済は戦争の特需で息を吹き返し、社会も大きな影響を受けました。例えば、この戦争をきっかけに自衛隊の前身である「警察予備隊」が発足、国連軍の後方基地が日本国内に七カ所置かれたままです。
この六月には、韓国側から飛ばされた体制批判ビラをきっかけに、南北の対立が高まり、北朝鮮は「軍事行動」も予告しました。
北朝鮮は経済的には困窮しているにもかかわらず、核兵器やミサイル技術を独自に発達させ、緊張を高めています。
しかし、そもそもの対立の構造は朝鮮戦争がもたらしたものです。「後方基地」としての日本の役割もそのままです。この構造を変えなければ、北東アジアの緊張と対立は終わらないでしょう。
最近、ボルトン前米大統領補佐官の回顧録が出版されました。その中で、トランプ大統領は、朝鮮戦争の終戦宣言に大きな関心を示していた、と書かれています。
戦争を終わらせる努力
しかし安倍晋三首相は、北朝鮮を安易に信用すべきでないとトランプ大統領に呼びかけ、終戦宣言は結局見送られました。
回顧録の内容は検証が必要でしょう。しかし、三宮さんが耳にした港湾労働者の言葉と安倍首相の姿勢には、どこか通じるものがあるような気がしてなりません。
われわれのすぐ隣で、戦争が今も続いています。これを終わらせることの大切さを、改めて考えてみてはどうでしょう。
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