過去と未来への想像力 終戦の日に考える (2021年8月15日 中日新聞)

2021-08-15 10:57:58 | 桜ヶ丘9条の会

過去と未来への想像力 終戦の日に考える

2021年8月15日 中日新聞
 馬とか鹿とか、私たちにはとかくほかの生き物を悪く言うところがあります。例えば、明治の国際人岡倉天心の有名な逸話でも−。
 滞米時、「おまえはどのニーズだ。チャイニーズ(中国人)かジャパニーズ(日本人)か、それとも、ジャワニーズ(ジャワ人)か?」とからかわれ、即座にこう言い返したといいます。「おまえこそどのキーだ。ヤンキー(米国人の俗称)かドンキー(ロバ)か、それともモンキー(サル)か?」
 ラップ音楽を思わせる“脚韻”がみそですが、それはともかく、こういう修辞は、ロバにも少し、そして特にサルには申し訳ない気がします。
 確かに、人間は、火や言語を操る、道具を作るといった点でサルとは違うのでしょうが、聞けば、例えばチンパンジーとヒトのゲノム(全遺伝情報)は98・8%が同じだとか。同じ祖先を持ち、かなり似ているのに、「猿知恵」とか「猿芝居」とか、「浅はか」な考えや振る舞いをサルに結びつけて表現したりもします。
 どうなんでしょうね。「浅はか」さでは人間の方がむしろ…と、思わないでもありません。

環境破壊、そして戦争

 例えば、人間の活動がもたらしている地球環境の破壊。サルなどの生き物はもちろん、当の人間さえ脅かす負の影響が年々歳々、増大しているのに、立ち止まりも、引き返しもできない。「まだ大丈夫」と言いながら、ひたすら成長を追い求める道を進み、見えない「帰還不能点」に近づいていくことが、どれほど浅はかな振る舞いかは、多くの科学者や科学的データが示しています。こんな短歌を思い出しました。<この道はまちがいなりと森へ帰り樹上にもどりし猿もありけむ>村松建彦。
 そして、人間の「浅はか」な振る舞いといえば、戦争をあげないわけにはいきません。今日は、終戦の日です。
 戦後七十六年。ですから、八十歳ぐらいより上の方でしょうか、あの戦争を体験し、かつ明瞭な記憶があるという人は。もはや、日本人の九割ほどは「戦争を知らない子供たち」。しかし、二度と繰り返さないためには、体験していないからといって、「忘れて」いいことにはなりません。
 体験していないことを「忘れない」ために、多分、一番、問われるのは、私たちの「想像力」でしょう。口づてにしてくれる戦争体験者は少なくなっているわけですから、想像のための手がかりが減っているのは確かです。でも、多くの昭和史研究の良書、おびただしい数の戦争文学や体験記、あるいは、戦争に関する展示がその助けになってくれるはずです。
 新聞などは、広島、長崎の原爆忌、そして終戦の日を抱え込んだこの月になると、毎年、戦争に関するニュースや話題を集中的に報じる傾向があります。それを「八月のジャーナリズム」と揶揄(やゆ)する言葉もありますが、それとて、当時の日本の庶民が一体、どれほどの辛酸をなめたのか、空襲や戦場がどれほど恐ろしく悲惨だったのかを想像するための一助にはなろうかと思います。

くよくよ悩む人間の力

 しかし今、わが国の政治は戦争から遠ざかるのとは逆の道を歩んでいるように見えてなりません。改憲の動きも安保関連のさまざまな法整備も、恐らくは、すぐ戦争に直結するわけではない。時にはむしろ「平和のため」という釈明さえなされます。でも、例えば、その改憲がいずれどんな所へと国民を追いやっていくことになるのか。そのことに全力で思いを巡らし、<この道はまちがいなり>と思い至ったならばノーという。そういう想像力が、私たちには一層必要になっていると思います。
 最近、新聞で紹介されていた歌人平井弘さんの一首です。<通つたところは覚えてゐるものだよ危ないはうへむかつてゐる>。思わず、ひざを打ちました。
 私たちには、明日のことを考えて気に病み、昨日のことを思い出して、くよくよ悩むようなところがあります。かと思えば、見たこともない遠い所の出来事を案じて気をもんだり。でも、ある霊長類学者によれば、サルはそうではない。彼らの想像力にそうした広がりはないのだといいます。いわばサルは「今」と「ここ」の世界を生きている。だから、思い悩んだりもしないのだそうです。
 うらやましい気もしますが、もしかすると、逆に、それが「火」や「道具」や「言語」より大きな人間とサルの違いなのかもしれません。体験していない過去のことを想像して共感したり教訓にしたり、起きるかもしれない未来のことを想像して警戒したり思い直したり。そうできるのが人間の人間たる所以(ゆえん)なのだとしたら、その能力を磨かない手はありません。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿