第2章 封印された核の恐怖 1945~52
2021年2月1日
東京電力福島第一原発事故は、原発の「安全神話」を根底から覆しました。事故当時、約50基もの原発が稼働していた日本。世界唯一の被爆国でありながら「原発大国」へと変貌を遂げたのはなぜでしょうか。2012年8月~13年6月までの長期連載では、戦後政治に多大な影響を与え、今も日本外交の基軸をなす日米関係を手がかりに、未公開資料や100人以上の証言などから、その謎を解き明かしました。加筆し書籍化もされた「日米同盟と原発」の原稿を掲載します。本文中の肩書きや括弧内の年齢は当時です。「現在は……」などと断りを入れてある年齢は、取材時点です。敬称は省きました。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもちろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。
死の街ヒロシマ
広島の原爆投下から二日後の一九四五(昭和二十)年八月八日。戦時中、陸軍の要請で原爆開発「ニ号研究」を指揮した理化学研究所の仁科芳雄(54)は東京・羽田から軍用機で、広島に飛んだ。陸軍中佐、新妻清一(35)ら軍の技術将校も同行した。
米大統領トルーマンは投下直後、米国民に向けた声明で、世界初の原爆使用を宣言。仁科らは出発前、旧知の記者を通じて、その内容を知らされた。日本の科学技術では到底無理だった原爆開発に、米国は本当に成功したのか。仁科らの任務は現地で、それを確かめることだった。
広島の上空に差しかかったのは八日夕。低空で二、三周旋回した。窓の下に西日に照った街が広がった。市中心部は焼け果て、二キロ先の家屋まで爆風で壁がえぐられていた。
ニ号研究で仮定した原爆の威力とほぼ一致するすさまじさだった。広島入りする前、ある程度の覚悟を決めていた仁科ですら、その惨状に息をのんだ。飛行場に降り立つと、顔や腕に包帯をした警備兵が並んでいた。「市の中心上空にピカッと大閃光を放ったものがあり、それと同時に光の方向に向かっていた人は露出部をやけどした」。彼らは投下直後の様子をそう語ったという。戦後の四六年に発行された雑誌『世界』への寄稿文で、仁科は当時の模様をこう振り返っている。「死の街の様相を呈していた」
仁科は八日のうちに、鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常(43)に電話で報告した。「残念ながら原子爆弾に間違いありません」
仁科の関心はむしろ、原爆の放射能が人体に与える影響にあった。ニ号研究でも、研究者は定期的に耳たぶから血液を採取し、白血球の数値に異常がないか調べていた。
「もし、軍人や患者の白血球の数値が低下していたら、危ない。すぐに別の場所に移しなさい」。仁科は将校にそう指示し、広島まで送り届けたパイロットには「あなたは早く引き返しなさい」と忠告した。
だが、第一人者の仁科が原爆と認めたにもかかわらず、当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした。放射能による被ばくを隠すためだった。投下後も何十年にもわたり人間を苦しめる原爆。そんな「大量殺りく兵器」で攻撃を受けたことが分かれば、国民はおびえ、戦意を失うのではないか、と恐れた。
そう思っていたやさきの九日、今度は長崎に原爆が落とされた。
仁科とともに広島入りした陸軍中佐、新妻ら軍部は翌十日、ひそかに報告書をまとめている。広島の被害状況などから「原子爆弾ナリト認ム」と明記した上で「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」と、放射能の危険性をはっきり指摘していた。
その新妻が手書きした報告書の草案が、広島平和記念資料館に保管されていたことを本紙は突き止めた。草案によると、爆弾はその威力やフィルムが放射線で感光していたことなどを根拠に原子爆弾と認めた上で「ベータ線ノ作用アル疑アリ」と、拡散した放射能による被ばくの危険性を指摘してあった。ところが「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」との一文が盛り込まれ、公表を控えるよう指示していた。広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師は「非公表の指示は軍部の意向だと思う。国民の戦意喪失や広島への救援活動の停滞を恐れたのだろうが、まさか文書で残っていたとは。原爆投下直後の大本営の情報統制を裏付ける資料」と話している。
結局、報告書の存在は戦争が終わるまで公になることはなかった。
大本営は八月十五日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまいだった。
大本営は八月十五日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまいだった。
こうした軍部の対応を科学者、仁科はどう見ていたのか。
仁科の次男で、現在は八十歳の名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)の浩二郎は当時、中学生。玉音放送が流れた十五日、広島、長崎の調査を終えて理研に戻った仁科が「『軍人は何度言っても、原爆だと認めようとしなかった。閉口した』と話していた」と証言する。
仁科は八日間の現地調査の間、被ばくの危険性が高い爆心地付近にあえて足を運び、鉄の破片や小石を拾い集めた。放射能汚染を調べるサンプルだった。
被ばくの症状や田んぼの土壌汚染、変死した川魚など科学者の視点で現場を見つめ、大学ノート二冊に手書きした。ノートは原爆直後を知る貴重な資料として、今も仁科記念財団(東京都文京区)に眠っている。
日本の原爆開発を担った仁科が調査に没頭したのは果たして知的好奇心か、罪滅ぼしか─。生前、誰にも話していないが、次男、浩二郎は「父は死を覚悟していたはず。科学者の責任がそうさせたのだろう」と推測する。
悲劇は「日本の宣伝」
「核の恐怖」を隠そうとしたのは、原爆を投じた米国も同じだった。
広島の原爆投下からちょうど一カ月たった一九四五(昭和二十)年九月六日。東京・帝国ホテルの一室で、米軍将校らが海外の報道陣を対象に、広島の状況に関する非公式の説明会を開いた。戦争が終わり、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入っていた。
説明会で、主に発言したのは米原爆開発「マンハッタン計画」の副責任者、米軍准将トマス・ファレル(53)だった。ファレルは「原爆で死ぬべき者は全員死んだ。現時点で放射能に苦しむ者は皆無だ」と述べ、放射能の影響が長期に及ぶことはない、と強調した。
広島の現地ルポを報じたオーストラリアの記者が原爆投下から数週間後に市内の川で魚の群れが死んだという目撃談をぶつけると、ファレルはこう反論した。「君は日本の宣伝の犠牲になったのかね」
戦争が終わると、日本は一転して広島、長崎の原爆を公式に認め始めた。
終戦翌日の四五年八月十六日付の新聞は「爆発後、相当の期間、かなり強力なベータ線及びガンマ線などの放射線が存在する。……ある程度以上強い場合には人体に影響を与えることも考えられる」という仁科芳雄の談話を掲載した。広島で被ばくした劇団女優が頭髪をなくし、ついに死を迎えたという記事も。日本国内で米国の「非人道性」を糾弾する論調が高まっていた。
ファレルは、帝国ホテルでの説明会から六日後の九月十二日に開いた記者会見でも「現時点で危険な量の残留放射能は測定できない。放射能で傷害を負った人は爆発時の照射の影響を受けただけだ」と、繰り返した。
米国にとって、予期せぬ結末だったからではない。それどころか、米国は原爆投下前から放射能の影響を分析していた。それを裏付ける文書が米公文書館に残っている。
「戦争兵器としての放射能」と題された四三年七月二十七日付の公文書。戦時中、機密扱いだったこの文書には、マンハッタン計画の一環として、主要科学者たちが放射能の毒性を検討している様子が書かれている。
科学者らは「大量に使われるほど大きな傷害を与える」「(攻撃を受けたら)全軍を避難させ、すぐ爆心地の放射線量を測る必要がある」など、まるで自ら言い聞かせるかのように放射能の恐ろしさを語っている。
報道などを通じ、明らかになりつつあった広島、長崎の悲劇。GHQは四五年九月十九日、「プレスコード(新聞規制)」を敷き、原爆報道を厳しく制限した。米国内でも一部の科学者らが核の残虐性に批判の声を上げており、国際的な非難に広がることを恐れた米国は情報統制を一段と強めた。
ファレルの上司で、マンハッタン計画責任者の米軍准将レスリー・グローブス(49)が四六年六月十九日に陸軍長官パターソンに送った公文書にはこう書かれてある。
「(米国の)医師団による分析が完了するまで、放射能については公式声明を出さないでほしい。強調した表現は、扇情的な報道につながる」
GHQのプレスコードは、占領期の終わるサンフランシスコ講和条約発効の五二年四月まで続いた。その間、広島と長崎の被ばく者たちの苦しみは、世間の目から遠ざけられた。
20万人以上の「実験」
一九四五(昭和二十)年九月、日本は復興への道を歩み始めた。焼け跡に闇市が出始め、バラック小屋が並んだ。東京では国民学校が再開。歌手並木路子(23)の「リンゴの唄」がはやり、みんなが口ずさんだ。だが、原爆で街じゅうが焼き尽くされた広島と長崎だけは別だった。
現在九十五歳の肥田舜太郎は当時、広島市駐在の軍医。原爆投下時、市郊外で往診中だった。爆心地から北に七キロ離れた山あいの村を拠点に被ばく者の治療にあたった。
押し寄せた人波は皮膚を垂らし、口から黒い血をこぼしていた。「ただ死んでいくのを見ていただけ。正直、何もできなかった」と、当時を振り返る。
当初はやけどで息絶える人が多かった。投下の四日目から様子が変わる。目尻や鼻から血を流し、頭をなでると毛が抜けた。「どうなってるんだ」。途方に暮れた肥田がさらに驚いたのは、その一カ月後。同じ症状でも「わしは原爆にあっとらん」と訴える患者が続いた。
大本営が国民の戦意喪失につながるから、と原爆の事実を隠したのが原因だった。「『どうして私は死ぬんですか』と聞きながら死んでいく。一人一人の死がこたえたね」と肥田は振り返る。放射能の危険性をまったく知らされず、投下後、身内の安否確認や救助のため市内に入った人たちが「死の灰」を浴び、体内に取り込んでいた。
投下二日後に広島市に戻った現在八十三歳の高橋昌子もその一人。当時十六歳の女子高校生だった。
祖母の看病で岡山県にいた高橋は、姉を捜しに爆心地近くの実家に帰ると、台所で姉は真っ白な骨になっていた。指をやけどしながら骨を拾い集めた。「はあー」ともらしたため息の後、放射性物質を含んだ粉じんなどを吸い込み、内部被ばくした。
一カ月後に異変が生じた。高熱、じんましん、下血……。治まっては再発する原因不明の症状が三十年近くも続いた。健康診断で訪れた病院で問診を受け「あなたは被ばく者です」と告げられた時、五十歳を過ぎていた。診察を担当したのは、広島での体験から被ばく医療に携わってきた肥田だった。
高橋は言う。「体の不調は体質だと言い聞かせてきた。何も知らされずに生きてきたのが悔しくて、涙が止まらなかった」
高橋のように原爆投下後、爆心地付近を訪れた「入市被ばく者」は広島、長崎で十万人以上ともいわれる。爆心地から十キロ以上も離れた場所で放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びて被ばくした人も。
広島原爆から七年後の五二年、高橋の元をジープに乗った二人組の米国人が訪れている。復員した男性との間に長男をもうけたばかりだった。
通訳の日本人は「ABCCの調査です」と告げただけ。ABCCは全米科学アカデミーが四六年、日本に設立した原爆傷害調査委員会の通称だった。
言われるままに、布団に横たわると、米国人は太い注射器で母子の血を抜き取った。手土産代わりにせっけんを枕元に置くと、採血液を大事そうに抱えて立ち去った。「体の不調のことが分かるかも」。貧しくて医者にかかれなかった高橋は期待した。だがその後、今に至るまで何の連絡もない。
ABCCは広島や長崎で被ばくした人たちの健康状態や胎児への遺伝的な影響を調べていた。学術研究が目的とされたが、実際は米国の核兵器研究のデータ集めの側面が強かった。資金提供を申し出たのは、原子力のエネルギー利用などを目指す米政府の原子力委員会だった。
当時、ABCCの日本人スタッフだった現在八十一歳の山内幹子は「米国人の上司から正確な調査が最優先だと教え込まれた。核爆弾の殺傷能力を研究するのが目的でした」と打ち明ける。
ワシントンの米公文書館に五〇年十一月に開かれた米原子力委の議事録がある。生物医学部長シールズ・ウォーレンは「われわれは、広島と長崎から二十万人以上の実験結果を得ることができた」と発言している。
ABCCの調査結果は、日本の被ばく医療に役立つことはなかった。軍医として原爆治療にあたった肥田は戦後、民間医師の立場で被ばく患者の救済に取り組んできた。「米国が治療やデータ公表に前向きだったら、被ばく者医療の質は格段に向上していたはずだ」と言い切る。
肥田は、いつ発症するかわからない内部被ばくこそ核がもたらす大きな罪と考える。深刻な放射能汚染を引き起こした福島第一原発事故もそう。
「ただちに健康被害はありません」と繰り返す政府高官の姿を見て「危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じ」と憤る。
「ただちに健康被害はありません」と繰り返す政府高官の姿を見て「危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じ」と憤る。
福島事故後、九十歳を超える肥田は全国百五十カ所以上を回り、低線量被ばくの危険性を訴えている。「広島、長崎の悲劇を福島で決して繰り返してはならない。それが医師としての私の務め」と話している。
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