>感激を忘れぬために 憲法公布70年
2016/11/3 中日新聞
七十年前のきょう、日本国憲法が公布された。戦争犠牲者を思い、国内外に不戦と平和を宣言したのだ。その感激を忘れぬよう努めたいと思う。
「今日は何といふ素晴らしい日であつたか」
元首相の芦田均は憲法が公布された三日の夜、日記の冒頭にそう記した。「生(うま)れて今日位感激にひたつた日はない」と続く。
その日は午後二時から東京の皇居前広場で祝賀大会が開かれていた。日記は描写する。
戦争犠牲者を忘れるな
「秋晴(あきばれ)に推進されて数十万の民衆がこの広場に集つて来た。一尺でも式場に近附(づ)かうとして左に揺れ右に揺られつゝ群集は汗をふいてゐ(い)る」
両陛下が馬車で二重橋を出ると群衆は帽子やハンカチを振った。楽隊が「君が代」を奏すると一同が唱和した。芦田は涙をこぼした。周囲の人も泣いていた。
「陛下が演壇から下りられると群集は波うつて二重橋の方向へ崩れる。ワーッといふ声が流れる。熱狂だ。涙をふきふき見送つてゐる。群集は御馬車の後を二重橋の門近くへ押(おし)よせてゐる。何といふ感激であるだらう。私は生れて初めてこんな様相を見た」
中部日本新聞(中日新聞)は翌日の朝刊一面に「憲法公布、感激裡(り)に挙式」、社会面に「都に鄙(ひな)に表情は明るい」と見出しを立てて報じている。
芦田は憲法原案を審議した衆院小委員会の委員長であり、その年の八月二十四日には衆院本会議で次のように語っている。
「戦争放棄の宣言は、数千万の犠牲を出した大戦争の体験から人々の望むところであり、世界平和への大道である」
この憲法は多くの戦争犠牲者の上に成り立っていると同時に、当時の人々が強く平和を望んだ上に立ってもいる。それを忘却してはならない。
流血と無血二つの道
終戦の一九四五年を中心として、コンパスを回すように歴史をさかのぼってみよう。
ちょうど七十一年前にあたる一八七四年には台湾出兵があった。明治政府による最初の海外派兵だった。九四年からは日清戦争、一九〇四年からは日露戦争をした。ロシア革命を受けて、一八年からはシベリア出兵、二七年から三度にわたり中国への山東出兵…。
三一年には満州事変を起こした。三七年からは泥沼の日中戦争へ、さらに四一年からは無謀な太平洋戦争へと突き進んだ。
富国強兵策から「世界の一等国」になりつつ、結局は破滅の道をたどったのである。国内外での「流血の歴史」である。
ひるがえってコンパスを四五年から二〇一六年の今日まで回してみれば、この七十一年間は「無血の歴史」である。根幹に平和主義の憲法があったのは疑いがない。
先人たちは実に賢明であった。憲法の力で戦争を封じ、自由で平和な社会を築いたからだ。
それを考えれば、今は大きな歴史の分岐点にある。歴代内閣が否定してきた集団的自衛権の行使を解釈改憲によって認め、安全保障法制を数の力で押し切った。
軍事的価値を重んずるかのような政権である。次に目指しているものは、憲法改正なのは明らかであろう。
国民が求めていないのに、受け入れられやすい改憲名目を探す。この「お試し改憲」は目的がないという意味で動機が不純だ。
「改憲のための改憲」は権力の乱用であるという指摘がある。
今、われわれが見ているものは、専制主義的な権力の姿ではなかろうか。
「憲法の番人」たる内閣法制局、日銀、公共放送たるNHKの人事…。民主制度に仕組まれたさまざまな歯止めを次々とつぶしてから進んできた。いくら党是といえど、戦後でこれほど憲法を敵視する政権はなかった。
明治時代には自由民権運動があり、さまざまな民間の憲法私案がつくられた。その中に植木枝盛(えもり)という人物がいた。思想家であり、第一回衆院選挙で当選した政治家でもあった。「東洋大日本国国憲按(あん)」という憲法案を書いた。
世に良い政府はない
人民主権や自由権、抵抗権などを求めた先進的な案である。彼には「世に良政府なる者なきの説」という演説原稿がある。
人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない。世に良い政府などないと説いた。一八七七(明治十)年の言説として驚く。こんな一句で締めくくられる。
「唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」
「疑」の文字を胸に刻んで、今の政治を見つめよう。
2016/11/3 中日新聞
七十年前のきょう、日本国憲法が公布された。戦争犠牲者を思い、国内外に不戦と平和を宣言したのだ。その感激を忘れぬよう努めたいと思う。
「今日は何といふ素晴らしい日であつたか」
元首相の芦田均は憲法が公布された三日の夜、日記の冒頭にそう記した。「生(うま)れて今日位感激にひたつた日はない」と続く。
その日は午後二時から東京の皇居前広場で祝賀大会が開かれていた。日記は描写する。
戦争犠牲者を忘れるな
「秋晴(あきばれ)に推進されて数十万の民衆がこの広場に集つて来た。一尺でも式場に近附(づ)かうとして左に揺れ右に揺られつゝ群集は汗をふいてゐ(い)る」
両陛下が馬車で二重橋を出ると群衆は帽子やハンカチを振った。楽隊が「君が代」を奏すると一同が唱和した。芦田は涙をこぼした。周囲の人も泣いていた。
「陛下が演壇から下りられると群集は波うつて二重橋の方向へ崩れる。ワーッといふ声が流れる。熱狂だ。涙をふきふき見送つてゐる。群集は御馬車の後を二重橋の門近くへ押(おし)よせてゐる。何といふ感激であるだらう。私は生れて初めてこんな様相を見た」
中部日本新聞(中日新聞)は翌日の朝刊一面に「憲法公布、感激裡(り)に挙式」、社会面に「都に鄙(ひな)に表情は明るい」と見出しを立てて報じている。
芦田は憲法原案を審議した衆院小委員会の委員長であり、その年の八月二十四日には衆院本会議で次のように語っている。
「戦争放棄の宣言は、数千万の犠牲を出した大戦争の体験から人々の望むところであり、世界平和への大道である」
この憲法は多くの戦争犠牲者の上に成り立っていると同時に、当時の人々が強く平和を望んだ上に立ってもいる。それを忘却してはならない。
流血と無血二つの道
終戦の一九四五年を中心として、コンパスを回すように歴史をさかのぼってみよう。
ちょうど七十一年前にあたる一八七四年には台湾出兵があった。明治政府による最初の海外派兵だった。九四年からは日清戦争、一九〇四年からは日露戦争をした。ロシア革命を受けて、一八年からはシベリア出兵、二七年から三度にわたり中国への山東出兵…。
三一年には満州事変を起こした。三七年からは泥沼の日中戦争へ、さらに四一年からは無謀な太平洋戦争へと突き進んだ。
富国強兵策から「世界の一等国」になりつつ、結局は破滅の道をたどったのである。国内外での「流血の歴史」である。
ひるがえってコンパスを四五年から二〇一六年の今日まで回してみれば、この七十一年間は「無血の歴史」である。根幹に平和主義の憲法があったのは疑いがない。
先人たちは実に賢明であった。憲法の力で戦争を封じ、自由で平和な社会を築いたからだ。
それを考えれば、今は大きな歴史の分岐点にある。歴代内閣が否定してきた集団的自衛権の行使を解釈改憲によって認め、安全保障法制を数の力で押し切った。
軍事的価値を重んずるかのような政権である。次に目指しているものは、憲法改正なのは明らかであろう。
国民が求めていないのに、受け入れられやすい改憲名目を探す。この「お試し改憲」は目的がないという意味で動機が不純だ。
「改憲のための改憲」は権力の乱用であるという指摘がある。
今、われわれが見ているものは、専制主義的な権力の姿ではなかろうか。
「憲法の番人」たる内閣法制局、日銀、公共放送たるNHKの人事…。民主制度に仕組まれたさまざまな歯止めを次々とつぶしてから進んできた。いくら党是といえど、戦後でこれほど憲法を敵視する政権はなかった。
明治時代には自由民権運動があり、さまざまな民間の憲法私案がつくられた。その中に植木枝盛(えもり)という人物がいた。思想家であり、第一回衆院選挙で当選した政治家でもあった。「東洋大日本国国憲按(あん)」という憲法案を書いた。
世に良い政府はない
人民主権や自由権、抵抗権などを求めた先進的な案である。彼には「世に良政府なる者なきの説」という演説原稿がある。
人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない。世に良い政府などないと説いた。一八七七(明治十)年の言説として驚く。こんな一句で締めくくられる。
「唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」
「疑」の文字を胸に刻んで、今の政治を見つめよう。