東神吉町をゆく(68) 砂部 日本毛織(ニッケ)印南工場(1)
砂部村の一部分を敷地にした大規模な工場が20世紀の初めに完成しました。
明治29年(1896)創業の日本毛織株式会社(ニッケ)は、翌30年に加古川の水量が豊富なこと、水質が軟水で鉄分が少ないこと、鉄道輸送の便が良いという立地条件に最適の加古郡加古川町に、同社最初の工場である加古川工場を建設して同32年に操業を始めました。当時加古川工場には3,800人余の従業員がいたそうです。
その後同社は主に軍需品の生産を行っていた加古川工場の生産能力が限界に近くなり、一般市場向け製品を大量に生産する工場が新たに必要となりました。
大正7年(1918)になってから、加古川工場と川をはさんで対岸の米田村船頭、平津、東神吉村砂部、同西井ノロにまたがる土地に、同社としては二番目の印南工場建設を始めました。
必要に応じて順次設備を拡張していった加古川工場に比べて、同工場では各作業場の規格を統一し、生産工程順に整然と配列された設備を最初から配置した近代的なものでした。
翌年6月に竣工した工場は、レンガ造りの建物が作られ、敷地面積は当初10、7460坪、最終的には11,67200坪の広大なものでした。
このとき、国鉄山陽本線より南側の砂部地区の約1,50001坪が工場用地に提供されました。
ほとんど農家だった砂部に変化が現れたのはこの頃で、日本毛織の従業員として採用される人や、工場で働くために移住してくる人も増えてきました。
日本毛織は、当時この地域では多木製肥所(多木化学)と並ぶ二大有力企業のひとっで、大正14年11月の大阪朝日新聞の記事によると、大正12年の印南郡内の工業生産額は年間1,760万円で、その内日本毛織が4,261万円を占めていました。
また、当時印南工場には従業員が3000人もいて、男女比率は6:4で、女工の1日平均賃金は1円だったそうです。
*文:『砂部あれこれ」より
*写真:日本毛織印南工場(昭和45年撮影・加古川市提供)
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