東神吉町をゆく(65) 砂部 加古川の渡し
防衛戦略もあり、明治7年までは川幅の広い加古川下流部には橋がかかっていませんでした。
西国街道の加古川村(現在の本町)に宿場ができて栄えたのも、加古川を渡るのに一且、川を渡らなくてはなりません。
渡しには舟渡し、歩(かち)渡し等がありました。加古川の渡しには人夫が100人、馬子が150人ほどいたといいます。
挿し絵は、正保播磨国絵図(1650)の加古川渡しの部分です。加古川村と平津村の間に船頭村はまだなく、そこに2本の川があり、『東加古川 川幅70間(120m)舟渡り、歩渡し有り』、『西加古川 川幅50間(91m)舟渡り、歩渡し有り』と記載されており、当時2回の川渡しが必要でした。
船頭側では道が二又に分かれて、左側の道沿い(西国街道)に大きな灯寵が見えます。
右側(砂部方面)への道の向こうに船頭村の家並みが見えます。遠方には高御位山と思わ
れる姿の山が描かれています。
明治時代になっても、西国街道を往来するのに加古川では渡し舟を使用していました。
明治7年(1874)になって粗末な木製の橋が加古川村と船頭村の間に初めてできました。
昔、砂部村に住んでいた人たちは、東の方面に行くには加古川を渡し舟で渡らなければなりませんでした。
明治11年の印南郡絵図(対岸表示がない箇所は対岸が加古郡ですから記載されていません)によると、印南郡内で加古川に渡し場があったのは、上流部から順に井ノロ(現:平荘町)、国包、都染、薬栗、養老、里、池尻、古新、友澤です。
*『砂部あれこれ(喜多正人著)参照
*図:加古川の渡し場の風景右図の加古川の渡し場から延びるのが現在の寺家町商店街(当時の西国街道)
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