東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)
地図(国土地理院発行・大正12年)の赤いカ所所をご覧ください。「金沢新田」です。
この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛です。
金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」の開発は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。
*金沢家に残る文書では天保九完成になっています。
この時の新田は84町4反21畝でした。
開墾費用は銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛に当然そんなお金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。
少し余話を書いておきます。
・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫村という集落がありました。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。
「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどでした。
享保年間に、近藤家は日本一の金持ちといわれました。
ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。
お気づきと思いますが、基本的に金沢町は金沢新田の場所につくられており、「町名」はそこから名づけられています。そのもととなったのは、九郎兵衛の姓です。
金沢家に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。
これは、一部のカ所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。
20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記されており、開発当時の規模に回復しています。
*写真:昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)
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