ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

2024-01-29 09:41:05 | 加古川市歴史探訪・東神吉町編

 

   東神吉町をゆく(62) 砂部(1) 金沢九郎兵衛(1)

 地図(国土地理院発行・大正12年)の赤いカ所所をご覧ください。「金沢新田」です。

 この低湿地帯にはじめて開墾の鍬を入れたのは印南郡砂部(いさべ)村(現在:加古川市東神吉町砂部)の金沢九郎兵衛です。

 金沢家に残る文書等から判断して、「金沢新田」の開発は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。

  *金沢家に残る文書では天保九完成になっています。

 この時の新田は84町4反21畝でした。

 開墾費用は銀854貫85匁五分と莫大で、九郎兵衛に当然そんなお金はありません。スポンサーは加東郡太郎太夫(たろうだゆう)村の近藤亀蔵でした。

 少し余話を書いておきます。

 ・・・・神戸電鉄の市場(小野市市場町)から西へ少し行くと太郎太夫村という集落がありました。昔、太郎太夫に近藤亀蔵という大金持ちがいました。

 「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門通れば後光さす・・」と、当時の俗謡にも歌われるほどでした。

 享保年間に、近藤家は日本一の金持ちといわれました。

 ともかく、近藤一族をスポンサーに、開発願主は九郎兵衛で、金沢新田は完成しました。

 お気づきと思いますが、基本的に金沢町は金沢新田の場所につくられており、「町名」はそこから名づけられています。そのもととなったのは、九郎兵衛の姓です。

 金沢家に残る天保11年(1840)の文書によると新田は、59町2反20歩3畝で、開発当時の総反別(84町4反21畝)よりも、著しく減少しています。

 これは、一部のカ所で地味が悪く、水稲が十分生育しなかったためであろうと思われます。

 20年を経過した明治10年(1877)の調査記録によると田地・宅地・畑および未開発地を合わせると85町6反2畝5歩と記されており、開発当時の規模に回復しています。

 *写真:昭和30年代の金沢新田(『加古川市史・第二巻)』より)



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